今日から、イエス・キリストが来られるのを待ち望むアドベントに入りました。アドベントとは、「到来」という意味で、長い歴史を通して神様が人類に送ると約束しておられた救い主の「到来」を待ち望むという事で、通常、クリスマス前の4つの主日にわたる期間の事を指します。それで今日の交読文もアドベント、クリスマスによく読まれる箇所を読みました。マリヤの受胎告知と言われる箇所で、いわゆる処女降誕を告げられたマリヤが、どうしてそんなことになりましょう?と当然の疑問が思わず口から出たわけですが、それに対してみ使いガブリエルは「神にとって不可能な事は一つもありません」とマリヤを諭した、という場面でした。不可能な事が一つもない神様。今日は改めてこの単純な事実に思いを巡らせてみたいと思います。
<今日の要点>
神は、全能の御力を、信じる私たちの内にも働かせてくださると信頼する。
<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
アブラムが先に女奴隷ハガルによって一子イシュマエルを得て、13年が経過した。この間、アブラムはイシュマエルが神様が約束していた子なのだろうか、それなら何もここまで待つ必要もなかった、もっと早くにこうしていればよかったのではないか、、、そんなどことなく釈然としない思いを抱きつつも、現実には子はイシュマエルしかいない。ならば、この子がきっと約束の子なのだろう、、、と無理矢理自分を納得させていたのでしょうか。サライにしても、なんのわだかまりもなくイシュマエルを我が子として抱く事ができたのか。ハガルの一件もあり(16章)、心から喜べずにどこか冷めていたか。こざかしい人間の策略は、時に後味の悪さを残すものです。そして何事も起らないまま、年月だけが過ぎてついにアブラム99歳となりました。
その時、13年間の沈黙を破って、再び神様がアブラムに現れ、仰せられました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムはひれ伏しました。ひれ伏しながら、心の中は何を思ったか。契約とか、おびただしく増やすとか、仰るのは、あのイシュマエルの事だろう。確かに彼は我が子。ありがたい事、、、。神様は続けて、あなたは多くの国民の父となるとか、子孫をおびただしく増やし、その中から王たちが出てくるとか、今滞在しているカナンの地をあなたの子孫に与えるとか、これまでに聞いた約束の言葉を繰り返されました。
ちなみに、5節でアブラムに、これからはアブラハムと名前を変えるようにとあります。所説ありますがアブラムは「高められた父」の意、アブラハムは「多くの国民の父」の意だと言われます。いよいよアブラムがアブラハムに、すなわち多くの国民の父になる時が来たという事でしょう。
ところで、神様はアブラハムにこれまでもおびただしい子孫を与える事、カナンの地を受け継がせる事を語ってこられましたが、ここにきて新しく言われている事があります。7節最後「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」という一文がそれです。実は、これこそが、神様が与えてくださる契約の本質でした。以前、創世記9章後半の「セムの祝福」という説教で、この世的に繁栄したハムの系列と対比して、セムの祝福は、神様がー聖なる、義なる、大いなる神様がー、セムの神となってくださっている事、その事自体がはかりしれない神様の恵みであり、祝福であると教えられました。覚えておられますか?天地万物の造り主が、私たちの神様となって下さったという事は、私たちはその神の民とされたという事。この神様と人との絆は、何物によってもー死によってさえもー断ち切られる事はない。それは永遠に輝き続ける祝福です。この世の全てが過ぎ去っても、永遠に残る祝福。そのために神の御子が尊い血潮を流されて、初めて実現した祝福です。天地万物の造り主なる、聖なる、きよらかな、大いなる神様が、私たちの神となってくださったという、その価値をもう一度、思い返したいのです。おびただしい子孫も、受け継ぐカナンの地も、実はそこで神様が彼らと共に住むためのものでした。すなわち神の国とするためのものでした。
9節以下、契約のしるしとしての割礼が命じられています。割礼とは男性の身体の一部の皮膚を切り取る外科的手術の事。これをアブラハムの家に属する者すべて、血のつながっていないしもべたちにも、施すよう命じられた。ちなみに、新約の時代の神の民の契約のしるしは、洗礼です。
ところで、ここまで神様が語られてきた祝福を、アブラハムはイシュマエルの事と思って聞いていました。ところが15節で、神様はサライをサラと改名するように仰った。サライは「私の王女」の意、サラは「王女」の意で、サライの親は親ばかだったんでしょうか、私の王女様と名前を付けたのでしょうが、単に親にとっての王女さまから、多くの民の王女になるという含みでしょう。そしてこのサラからアブラハムの子どもが生まれると語られたのです。これを聞いたアブラハムは、ひれ伏しました。ひれ伏して、笑いました。喜んだのではありません。シニカルな笑いです。そんなことあるわけないでしょう、100歳にもなろうという私と、それに妻のサライも90になろうとしているというのに。馬鹿馬鹿しい、神様、あなたが語っている祝福は、イシュマエルの事でしょう?もうこれ以上、信じて、信じたあげくに失望して、傷つくのはいやです、サラに子どもが生まれるなんて気休めはけっこうです、あなたが仰っている子孫は、イシュマエルの事だったんでしょう?そんな、神様に対して挑むような気持ちも汲み取れるでしょうか。アブラハムは、大胆にも神様のことばを訂正しようとしました。「イシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」
しかし、しかし、主はキッパリとそれを否定しました。「いや、あなたの妻サラがあなたに男の子を産むのだ。その名をイサクと名付けなさい。わたしは、彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」さらにイシュマエルではないという事を明確にするために、イシュマエルはイシュマエルで、アブラハムの願い通り、祝福し、子孫を非常に多く増し加えよう、彼は12人の族長たちを生み、彼は大いなる国民とする、しかし、わたしは、来年の今頃サラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる、と念を押されました。イシュマエルもイサクも、どちらも子孫繁栄の祝福は受けるのですが、先ほど言いました、神が彼らの神となられるという契約は、イシュマエルではなくて、イサクと結ばれるというのです。ちなみに、この神様が私たちの神となられるという契約は、新約の時代は、福音を信じる者に与えられています。
こうして、神様が語り終えられると、アブラハムはすみやかに神様が命じられた通りに割礼を実行しました。23節「その日のうちに」とあります。グズグズ先延ばしにしないですぐさまとりかかったところに、すでにアブラハムから不信仰が取り除かれ、しっかりと神様の約束を信じる事を決断したアブラハムの姿を感じることができるでしょう。最初は信じられませんでしたが、神様がイシュマエルではなくサラから子が生まれるとハッキリと語られた後は、その言葉を信じて、すみやかに実行したのです。さすが信仰の父と呼ばれるアブラハムです。私たちも、すぐには信じられない時があっても、御言葉によってまた聖霊によって、神様のお取り扱いを受けた時には、その恵みを無駄にせず、神様への信仰また信頼に立ち、従う者でありたいものです。
<全能の神に信頼して>
以上、今日の箇所のあらすじをみたわけですが、今日は特に1節に注目してみたいと思います。
アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
神様は99歳のアブラムに対して、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と命じられました。何歳になってもこれで十分という事はない。信仰の高嶺を目指せと。皆さんの中に99歳より上の方、いらっしゃいますか?おそらくいらっしゃらないと思います。全き者というのは、この文脈では、道徳的・倫理的に全き者というよりも、信仰において、神様への信頼において、全き者であれ、と言われているように思われます。自分たちのうちを見るならば、まったく可能性はない。何も力はない。でも、だからあきらめる、ではなく、だからこそ神様に目を注ぎ、神様にのみ信頼する。そのためにアブラムはここまで待たされたのではないかと思われます。まったく自分自身を頼まず、ただ神様にのみ頼む者となるために(参考 第二コリント1:9)。
だから、神様は最初に「わたしは全能の神である。」と宣言しておられるのではないかと思います。わたしが全能である事を忘れてはいけない。わたしの力をみくびってはいけない。ただわたしに信頼しなさい、信じなさい、と励ましているのです。年老いて、体力も気力も衰えて、もはや信仰さえも失いかけていたアブラムに、だからこそ、全能のわたしにのみ頼るのだよ、と招いておられるのです。
さて、私たちも、神様は全宇宙を造られたのだから、全能である事は信じるけれども、それが自分とは関係ない事のように思ってはいないでしょうか。神様の全能のその力は、私たちや私たちの人生、自分の生活とどう結びつけたらよいのでしょうか。もちろん、神様が語ってもおられないのに、自分勝手に神様には不可能はない!と打ち上げ花火を打ち上げては、自滅する過ちを犯してはいけません。アブラハムの場合も、まず神様の側からの語りかけがあった。神様が語られた事だから、人間的には不可能であっても、神様が必ずその通りにされると信じるのです。マリヤの受胎告知も、み使いを通して神様が語られたことだから、不可能な事は一つもない、必ずその通りになるのです。
では、神様は聖書においてどんな御言葉を語っておられるでしょうか。神様が決して私たちを見捨てない事、神様が私たちと共におられる事、、、。しかし時に、このような御言葉を疑わせるような状況というものも、もしかしたら、あるかもしれません。しかし、それでも神様が私たちの思いをはるかに超えて全能の神である事を信じ、神様に信頼する事ができるように、と祈りたいです。また聖書は、世の終わりにはひとりひとりを復活させる事、永遠に神様と共に住まう神の御国を受け継がせてくださる事も教えています。夢物語のように感じられるかもしれませんが、全能の御力によって神様はそのようにされます。聖書によると、それが歴史のゴールです。
そしてまたエペソ書には次のような使徒パウロの祈りがあります。エペソ書3:16
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
「内なる人」とは所説ありますが、単純に内面、あるいは霊の事ととりたいと思います。この、私たちの内なる人が成長し、強くなる事をパウロは願っています。傷ついたところがあるなら癒され、きよめられ、そして義に形作られ、強められていく。そのようにしてキリストの似姿として成長するのでしょう。
それは自分の力ではできない。100歳のアブラハムと90歳のサラに子供が生まれるというのと同じくらい、不可能な事のように思われます。それでパウロは、「その栄光の豊かさに従い」というのでしょう。私たちの能力に従い、とか、私たちの頑張りに従い、ではなく、神様の栄光の豊かさに従って、と。これは無限の力が注がれることを期待できそうです。そして「御霊により」私たちの肉の力により、ではなく神の御霊によって。神様にしかなしえない事を認めて、私たちの内に住まわれる神様の御霊に働いていただく事を願う。そして「力をもって」神の力、全宇宙を造り、支えている御力をもって。この全能の神の力を、私たち自身の内なる人を強くするために働かせてくださる事を信じる。天の父を信頼して、その事を祈り求めるのです。
時として、私たちは周りの状況を変えようとばかりし、その事を願う事があるかもしれませんが、自分自身の内なる人が変えられる事を祈り求める事が正解だったという事が、もしかしたらあるのかもしれません。
そしてUコリント 4:16
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
たとえ外側の肉体は衰えていくとしても、内なる人は日々、神様の全能の御力によって、イエス・キリストに似せて新たにされていく歩みに導かれますように。
|