『第三部 感謝について:祈りについて 第45主日の2
問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、
何が求められますか。
答 第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された
唯一のまことの神に対してのみ、
この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、
わたしたちが心から請い求める、ということ。
第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、
この方の威厳の前にへりくだる、ということ。
第三に、わたしたちがそれに値しないにもかかわらず、
ただキリストのゆえに、
この方がわたしたちの祈りを確かに聞いてくださるという、
揺るがない確信を持つことです。
それは、神が御言葉において
わたしたちに約束なさったとおりです。
「祈り=感謝」と言うほどに、「感謝」をもって神に近づき、神に「感謝」を告げる祈りこそが、「祈り」の中心と前回学んだ。神が罪ある私たちを、御子イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに、滅びからいのちへと移して救って下さったことは、実に、恵みにより、信仰によることである。私たちは、いくら感謝しても、感謝し切れることはない。感謝を込めて祈りを神にささげる、そのような日々があるなら、きっと私たちの信仰生活に、喜びや平安が満ちるに違いない。そのために、祈りが一層豊かにされるようにと、問答が続いている。神に喜ばれ、神に聞いていただける祈りには、一体何が求められているのか、と。
1、問117に対する答は次の通り。「第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。」祈りが聞かれるためには、聖書に啓示された唯一の真の神に対してのみ祈っているか、またこの方が求めるようにと命じておられる事柄を、私たちが、心から請い求めているかどうか、そのことの大切さが説かれている。これは、「祈り」が単なる「独白」なのか、すなわち、人が自分に言い聞かせるだけの「独り言」に過ぎないのか、また、祈りを聞いて下さる方がおられると信じて祈る、神との「対話」となっている祈りなのか、とても大事な視点を教えてくれる。「感謝」をもって神に近づくよう命じられていること、また、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう」と言われているのを知って、本気で助けを求めること、これが祈りの出発点となる。神は私たちが日々直面する場面の全てにおいて、「わたしを呼び求めよ」と命じておられる。これは何と感謝なことでろうか。ただ徒に、あの神を呼び、またこの神に頼るのではない。天と地を造り、これを治めておられる方、罪人の罪を赦すために御子を遣わされた方、生ける真の神が私たちの祈りを聞いて下さるのである。
2、問の答は続く。「第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。」「対話する祈り」とは言え、私たち人間の側の思いは、「神に向かって祈っていても、直接に神からの応答はなかなかない」と感じているに違いない。この理解は、神が先ず、聖書を通して、ご自身の御心を明らかにして下さっている事実を忘れていることによる。私たちが祈りにおいて、神と対話するのは、神がご自身を余すところなく啓示しておられるので、そのことに従って、神の教えに応答し、神と対話するようにして祈ることができるのである。私たちが気づくべきは、自らの乏しさと悲惨さであり、神の前に出るのに全く相応しくない自分を知って、一層心を低くすること、この一事を決して見失ってはならないことである。私たちが神に祈れるのは、当然のことではなく、神の側で道筋を備えて下さったからにほかならない。答は更に続く。「第三に、わたしたちがそれに値しないにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れてくださるという、揺るがない確信を持つことです。それは、神が御言葉においてわたしたちに約束なさったとおりです。」私たちが祈りをもって神に近づけるは、仲保者キリストがおられるからである。神が、御子キリストのゆえに、私たちの祈りを聞き入れて下さるという、その確かな約束があるので、私たちは信じて祈ることができるのである。
3、私たちが祈れるのは、祈りを聞いて下さる神がおられるからである。また、とても神の前に進み出ることのできない私たちであっても、御子イエス・キリストが仲立ちとなって下さるからである。御子ご自身が、わたしの名によって、父に祈りなさい。そうすれば、父は聞いて下さると約束して下さっている。「・・・また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16、14:13-14、16:23) この約束に従って、信じて祈るようにとの教えは新約聖書に満ちている。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(6〜7節)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16-18)「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(ペテロ第一4:7) そして、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(ヨハネ第一5:14-15)
<結び> 主イエス・キリストご自身が、弟子たちに教えて下さった祈りが「主の祈り」である。この祈りについて信仰問答は、この後に学びが続くが、山上の説教の最後の部分で、主イエスは言われた。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」この言葉も、神を信じて祈ること、祈り続けることの大事さを教えてくれる。私たちは「独白」また「独り言」ではない、生ける神と「対話」する祈りを、神の教えに「応答」する祈りをささげ、神にあって平安をいただく歩みをささていただきたい。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」私たちは、神からの平安をいただきながら、今日まで歩んでこれた。この事実の上に立って、これからも、祈りを通して、必ず平安をいただいて歩ませていただく、そんな証しの日々を歩ませていただけるのである。
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