<今日の要点>
「主に信頼して、主のご摂理に心から従う」
「主に信頼して」というこの言葉がつくとつかないとでは、天と地ほども違いがあります。そこの部分がないと、ただの我慢、忍耐、「おしん」的な話になってしまいますが、主に信頼して、という部分があると、見える風景がだいぶ違ってくるのではないかと思います。
<今日のあらすじ(+ミニコメント)>
アブラムの妻サライは不妊であったと言います(1節)。この事もサライ自身が言っているように主の御手による事であります(2節)。この事を認める事も大切な事です。希望はここから生まれるんですね。(この間の伝道集会の時に、横田早紀江さんの事をご紹介しましたが、)もっともサライは信仰的にと言うよりは不満げにこう言った印象を受けます。主が生めないようにしておられるのだから、こうするしかない、こうして当然だと言わんばかりに、自分の女奴隷ハガルによってアブラムの子をもうける事を提案しました。これは、当時としては普通に行われていた事であり、何も違法ではありませんでした。もちろん神様の御前では忌み嫌うべき事です。がアブラムも当時の常識に照らしてサライの申し出を受け入れてしまいました。確かに、主はアブラムの子孫を祝福して星の数ほどにされると言われたのであって(15:5)サライの子孫とは言っておられなかった。という事は、これが御心なのかもしれない、、、そんなふうにまたしても人間的な策を弄してしまったのです。知恵者アブラムだからこその間違いというべきか。これが、もっと単純に愚直にただ信じる、というタイプの信仰者だったら、もしかしたらよかったのかもしれません。もっとも、アブラム85歳、サライ75歳。主の召しに従って故郷を出て10年待ったのです。彼らが焦るのも無理からぬ事とも思われます。主の時をちゃんと待つという事は、時に難しいものです。
女奴隷ハガル(ハガルは「逃げる」「逃亡者」の意)はアブラムの子をみごもりました(3-4節)。そして主人であるサライを見下すようになりました。サライはアブラムに八つ当たりです。「確かに言い出したのは私ですけど、あなたがチヤホヤするからいけないんです。あんなに横柄になってしまって。主が私とあなたとの間をお裁きになりますように!」悔しくって、頭に血が上ってしまって、思わず口走ったのでしょう。「主が私とあなたとの間をお裁きになりますように」大体こう言う事を言う出すのは、自分は悪くない、悪いのは相手、と決めつけている時です。自分は悪くない、相手が悪い、と思っているという事でしょう。本当に主がお裁きになってもいいのですか?と問いたくなります。もっと自分の胸に手を当てて、顧みるべきではないのですか?自分が悪いという事はないのか、また自分にはわからない事、知らされていない事もあるかもしれない。身を低くして、怒りのはけ口に主のさばきを持ち出すのは、控えるべきでしょう。「ひとりよがりの『主がお裁きになりますように』」には気をつけたいものです。
まあ、確かにアブラムも、ハガルについて、身体に触るといけないから重労働はさせないようにとか、食事も栄養をつけるようにと特別なものを食べさせたりとか、そういうしかるべき配慮はあったでしょう。それでハガルが勘違いしてしまって、サライが何か言いつけても、おなかをさすりながら「すみませんが、この身体なので。ご主人様のお子に何かあってはいけませんので、」と肘をついて横になったまま、サライの方を見向きもしないで断るとか、次第に横柄な態度になったのでしょうか。アブラムの子を宿している以上、アブラムは自分の味方、サライよりも自分を大事にしてくれるに違いないと勘違いしたのかもしれません。ともかく取り乱したサライの剣幕に押されて?アブラムは、二人の間には口を挟まないから好きにしなさい、と言いました。元々サライの女奴隷ですから、私は口出ししないから好きにしなさいと。それでサライはハガルをいじめ、たまらずハガルはアブラムの家を飛び出しました(5-6節)。ハガルは1節に「エジプト人」とありましたので、もしかしたらアブラムたちがききんの時にエジプトに下った時に連れてきた奴隷たちの一人だったのかもしれません。それででしょうか、シュルというのはエジプトへ向かう途中にある場所ですので、生まれ故郷のエジプトに帰ろうとしたのでしょう。大きなおなかを抱えててくてくと、途中、行き倒れになってもおかしくない、逃亡の旅に飛び出したであろう、あわれなハガルです。
しかしそこで、主の御使い(受肉以前のキリストと言われる)が彼女に現れて「あなたの女主人の所に帰って、身を低くしていなさい。」と御言葉を下さった。もしそうするなら、私が、あなたの子孫をおびただしく増やすから、と励ましまで与えて(7-10節)。失敗したところに戻って、もう一度やり直しなさいというのです。元々、ハガルの思い上がりが元で招いた事態でしたた。思い上がりを悔い改めて、身を低くして元いた所に戻りなさいとの、ありがたい主の導きでした。悔い改めを迫ってくれるのは、ありがたい事。正しい道に、主に祝福される道に引き戻してくれる、ありがたい手綱でした。痛いかもしれないけれども、いのちを助ける手綱です。
御使いは、主が彼女の苦しみを聞かれた事にちなんで、生まれてくる子どもに「イシュマエル」(「主、聞きたもう」)と名付るように言いました(11-12節)。このイシュマエルは、今日のアラビア人の先祖と言われます。一般的にアラビア人は12節にあるように、独立不羈(どくりつふき:他人の力に頼らず、他人に影響されず、他から束縛されずに行動すること。)の精神で、兄弟同士でも一緒に組む事を嫌う傾向があると言われます。キリスト教に屈せず、イスラム教の開祖となったマホメットも自らをイシュマエルの子孫と称したと言います。また主が自分の事をご覧になっていた事に感動したハガルは、主の名を「エル・ロイ」(「ご覧になる神」)と呼びました。それにちなんでその場所の井戸はベエル・ラハイ・ロイ(「生きておられる、ご覧になっておられる方の井戸」)と呼ばれるようになったと言います。私たちがどこへ行っても、どこまで逃げても、荒野でひとりぼっちと思える時にも、主はご覧になっておられる。主が私たちを見失う事は決してない。主は良い羊飼いであります。
ハガルも偉かった。彼女は、悔い改めを迫る御使いの言葉に従いました。そしてサライの元に戻って身を低くしたのでしょう。やがて無事に男の子を産み(15-16節)、御使いの言葉通り、のちに数え切れないほど多くの子孫の母となりました。
<身を低くして>
さて、今日注目したいのは、9節の御使いの言葉。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」です。この言葉は、時に私たちにも必要なアドバイスかもしれません。私たちは、身を低くして仕えるという事が苦手な傾向があるのではないでしょうか。プライドが邪魔をして、心からそういう立場を受け入れられないという事はないでしょうか。
世界的に有名な指揮者だったレオナルド・バーンスタインが、ある時、どの楽器が演奏するのに一番、難しいですか、と尋ねられたそうです。彼はしばらく考えて後、こう答えたと言います。「それは、第二バイオリンですね。第一バイオリン奏者はたくさんいますが、第二バイオリンを熱心にやってくれる人を探すのは、骨が折れるんですよ。そして、第二バイオリンをしてくれる人がいないと、ハーモニーにならないのです。」第一バイオリン奏者はやりたい人がたくさんいるけれども、第二バイオリン奏者を進んでやる、それに徹してやる、という謙虚な人を見つけるのは、バーンスタインにとっても、むずかしかったようです。もし、そういう人が見つかったら、彼は大いに喜んで、その人に感謝したでしょう。神様に造られた私たちも、それぞれの持ち場で、へりくだって、神様の御心に心から従うなら、神様はその事を大いに喜んでくださるでしょう。そして私たちも、偉大な、神様の栄光を表す交響曲の演奏に参加するひとりとして、その栄誉にも与る事ができるでしょう。神様が置かれた所でその役割を果たす時、それはそのまま神様ご自身に仕えているのであります。
神様の主権を認める事。自分を神様の交響楽団の一員であると覚える事。たとえ仮に、ちょっといやだな、と思う立場や役割を与えられたとしても、神様の御前に祈り、それが御心の内にある事だと思えたなら、いやいやながらでなく、心からその事を受け入れて、そしてどうせやるなら、前向きな気持ちで取り組む事ができるように、と祈る者でありたい。そのほうが精神衛生上もいいでしょう。ただし、ブラック企業とか、そういうのは話は別です。身の危険があるような所には我慢して留まってはいけません。家庭内暴力とか。そういうのではなくて、常識的な範囲での話です。そして、主に従っている時に、特別に主の助けが与えられるという事もしばしばです。使徒5:32「神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊」とありますが、主に従っている時に特別な聖霊の励ましや、具体的な助けを与えられながら、身近に神様のご臨在を感じながら、与えられた役割を果たさせていただきたい。時々、ちょっとした所に主の守りを感じる事、助けを感じる事ってあるでしょう。そして神様に信頼してその御心に従う時に、その報いは神様ご自身から来る。その信仰、信頼が、神様の目に尊いのです。神様は、ご自身の御手の下にへりくだって、御心に心から従う者を顧みて、ちょうど良い時に、その人を高めてくださるのでしょう(第一ペテロ5:5c-6)。 その良い例が、この後創世記の後半で出てくるヨセフという人物です。兄弟たちの妬みを買って奴隷としてエジプトに売られながら、そこで腐ってしまうのでなく、その置かれた場所で、奴隷として、主に信頼しながら、主に助けられながら、できる最善をなして行った先に、時至って大きく主に引き上げられ、大きな栄誉が彼を待っていました。そしてすべてが神様の良いご計画の内にある事を悟って、納得したのでした。詳しくはそのところで見たいと思いますが。野村克也元監督も、マジメに努力を惜しまずにやっていると、誰も見ていないようでいて必ず誰かの目にとまる。そして報われる時が来る、みたいな事を言っていました。彼はクリスチャンではありませんが、自分の人生経験から、また監督としていろんな選手を見てきて、そう感じ取っているのでしょう。私たちは全てをご覧になっておられる神様を知り、信じているのですから、なおさら、そういう生き方を勧められます。
慈しみ深く思慮深い親に愛され、その親に全幅の信頼を寄せている子どものように、天の父の摂理のうちに、自分が置かれている立場や役割を心から受け入れ、そして主に信頼して従っていきたい。神様は、ご自身の御子をさえ十字架に渡されたほどに、私たちを愛し、真実を尽くされたお方なのですから、その信頼は決して裏切られる事はありません。つまるところ、主への信頼が、信仰生活の土台なのであります。
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