礼拝説教要旨(2019.11.10)  
感謝の祈りを神にささげる =ハイデルベルク信仰問答= 問答:116
(詩篇 50:7〜15) 柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:祈りについて              第45主日の1

問116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。
答  なぜなら、祈りは、
    神がわたしたちにお求めになる感謝の
    最も重要な部分だからです。
   また、神がご自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、
    心からの呻きをもって
    絶えずそれらをこの方に請い求め、
    それらに対して
    この方に感謝する人々に対してだけ、だからです。

 ハイデルベルグ信仰問答の第三部「感謝について」は、恵みにより、信仰によって、キリストの救いに与った私たちキリスト者が、この地上の日々を信仰をもって歩むに当たり、大切なことは「感謝の日々を生きることに尽きる」と教えくれている。先ず、その感謝の日々を生きる指針としての「十戒」について教え、最後の部分が「祈りについて」である。この「祈り」については、感謝の日々を生きる上で、最も大切な部分である。私たちは、なぜそれほどに大切なのか、よくよく注意して学びたい。

1、「祈り」が何であるのか、多くの人の理解は、果たしてどのようなものであろうか。日本中、また世界中で、ありとあらゆる形での「祈り」は、良し悪しは別にして満ち溢れている。(三省堂:明解国語辞典:「祈り」:いのること。祈祷。「祈る」:神仏に願う。)私の大きな疑問は、神の存在を信じていない人も祈るのはなぜなのか、その一点にある。ほとんど全ての人が、何の疑いもなく祈るのはなぜなのか、その本当の理由は何なのか、その答えはとても大事と思うが、ハイデルベルグ信仰問答116は、「祈りは何であるか」には触れず、いきなり「祈りの必要性」についての問から始まる。キリスト者にとって、祈りはなぜ必要なのか?と。あらゆる罪と悲惨の中から、キリストの十字架の身代わりの死により、実に恵みにより、信仰によって救われた者たちにとって、その感謝の日々を生きる中心に「祈り」があるのは、当然のこと、自明のこととしている。その答は次の通りである。「なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。また、神が御自身の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけ、だからです。」私たちが祈るのは、救いを与えて下さった神に「感謝するため」と言う。「有難うございます」の一言こそ、祈りの中心と説かれている。「祈り=感謝」と言うほどに。

2、「祈り」の中心は「感謝」と分かっても、時として祈れない・・・と苦悩することがある。もしかすると、その原因は「祈り」を単なる「祈願」、自分の思いを「願い事」として申し述べることとしていることにあるのかもしれない。ああして下さい、こうして下さい、こうなりますようにと、私たちは、ただ単に、願望を独白していることがしばしばである。キリストを信じて祈っていても、ややもすると願い事が大半となって、神が私たちの必要をご存知なら、祈らずとも叶えて下さるのでは・・・と、そんな思いさえ抱くことになる。けれども、私たちが祈るのは、願い事を神に告げることよりも、それ以上に、神への感謝を告げること、これこそが祈りの中心、祈りの必要性の根本と心に刻みたい。天の父は、私たちが「感謝の祈りをささげること」、祈りにおいて「感謝」を告げること、この一点を待っておられる。旧約聖書の時代に、神の民は神殿で礼拝をささげていた。神殿が立派になればなるほど、儀式的な礼拝は豪華になり、形式的な礼拝となって行った。預言者たちが遣わされて、内面的なことの大事さが説かれ、警告が発せられた。今朝の詩篇には、そのような背景がある。動物のいけにえよりも、「感謝のいけにえを神にささげよ」と歌っている。正しく、感謝の祈りを神にささげよ、と。また口先の「誓い」でなく、誓ったことは主に果たす、真実な誓いに生きよ、と。神を人の心の内を見ておられる。そのことを見失った信仰は、礼拝も祈りも、いかに外見が立派でも、決して良しとはされない。(14節)

3、答の後半は、「また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけ、だからです」とある。「祈り」と「感謝」は、ほとんど区別できないものである。そのような「祈り」を各個人に任せていては、正しく祈れない・・・、祈りの言葉を教えなければ・・・というのが、ローマ・カトリック教会の考え方であった。宗教改革以前の教会においては、「祈祷書」によって祈るのが通常で、しかもラテン語によるものであった。信徒一人一人が、自分で自由に祈ることができるようになったのは、宗教改革運動の成果である。そのように自分で心を込めて祈る祈りの最も重要な部分が、神に感謝をささげることであるのは、感謝をもって神に近づく人々にこそ、神は「御自分の恵みと聖霊を与えようとなさる」からである。人々は思い思いに神への感謝をささげ、自分の言葉で神に近づくことができる。こうして「祈り」そのものが身近になり、「感謝」をささげて神に近づく人々は、一層、「祈り」へと進むこととなる。「感謝の祈りを神にささげる」人々は、神に「心からの呻きをもって」祈り続け、また、神が恵みと聖霊を下さることに心から感謝する人々に、神は、更に恵みを注いで励ましを与えて下さる。神は、感謝の祈りをささげる人々との交わりを、大いに喜んで下さるからである。キリストによる救いを心から喜び、感謝をもって戒めに従い、感謝の祈りを神にささげて日々を歩むこと、それが私たちに求められている。神は祈りに応えようとして下さっている。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(15節)

<結び> 神が備え、一方的な恵みをもって与えて下さる救い、それがキリストの十字架の死によって与えられる罪の赦しである。その罪の赦しのゆえの永遠のいのちである。救いを与えて下さる神に、「有難うございます」と心から感謝の祈りをささげることが、「祈り」の「祈り」たる中心と、今一度覚えたい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第一5:16-18)感謝の祈りをもって神に近づき、心からの呻きをもって、神の恵みと聖霊を請い求める私たちに、神は必ず答えて下さると信じて祈り求める時、神は私たちと共にいて、必ず答えて下さる。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。・・・」(マタイ7:7-11)主イエスは私たちを励まして下さっている。ただ願い事をするだけでなく、感謝の祈りをもって神に近づき、心からの呻きをもって、恵みと聖霊を請い求め、この週も歩ませていただきたい。