礼拝説教要旨(2019.11.03)  
主を信じる
(創世記11:1−21)  横田俊樹師 

<今日の要点>
T. 信仰に立って恐れに打ち勝ちましょう
U. 主は、あの手この手で、信仰の励ましを与えておられる
V. 主を信じる事で、義と認められる(主との信頼関係がすべての土台)

<はじめに:信仰と恐れ>
信仰と恐れは互いに排他的。両方が一緒に存在するという事はないという関係にあります。信仰が強くなると恐れが引っ込む。恐れが強くなると信仰が引っ込む、という具合です。実際、100%の信頼、完璧な信頼があったら、きっと恐れなんかみじんもないでしょう。全宇宙を造り、治めている神様がともにおられるなら、この神様が味方であるなら、一体何を恐れるというのでしょう。イエス様がまさにそうだったように、何一つ恐れるものはありません。

私たちの心を、信仰が支配すると平安、不信仰が支配すると恐れに満たされる。ならば信仰に満たされるのと、恐れに満たされるのと、どっちがいいですか?と聞かれたら、考えるまでもなく信仰に満たされたいと答えるでしょう。何も遠慮はいりません。私たちは、信仰に立って恐れを追い出す方に立つ方を選び取りましょう。そう心を定めましょう。
もちろん、そうは言っても、現実には私たちは時として恐れを抱く事も実際にはあります。恨むべきは、自分の不信仰、信じ切れない不信仰です。頭では神様は絶対の信頼にふさわしいお方だとわかっているのに、実際の生活では信頼しきれない。だから心配になる、恐れる、、、。

ですが、心配はいりません。私たちの羊飼いなる主は、私たちのそんな弱さを百もご存じで、それを放ってはおかれない。私たちが揺れ動き、弱る時、主は私たちを励まし、特に私たちの「信仰を」励まし、力づけてくださいますから。

今日の箇所は、「信仰の父」と呼ばれるアブラムにして、恐れる時があった事を告げています。ですが、それをただ眺めている主ではありません。すぐさまアブラムの信仰を励まし、強められます。それもあの手この手で。主が熱心に、大事に大事に、アブラムの信仰の火を消さないように、消さないように、燃え立たせるようにと、手を変え品を変えて、アブラムの「信仰を」強めようとしておられます。キャンプやバーベキューで火を起こす時に、日が弱くなってくすぶると、一生懸命うちわであおいで風を送って、火が消えないように消えないように、火が強くなるようにするように、主は私たちの信仰の火を大事に大事に消さないように、強くなるように心を傾けられるのです。
 この主なる神様がともにおられるから、私たちも信仰の道を全うさせて頂けるのだと思います。

それでは本文に入りましょう。1節。
?主は、御言葉をもって励まされる(1-4節)
@誰にでも恐れる時がある
主は「アブラムよ」と名前をもって呼びかけました。主は、良い羊飼いのようにひとりひとりを見ておられます。そしてアブラムが恐れている様子を見て、名前を呼んで呼びかけられたのです。「恐れるな」こう言っておられるという事は、アブラムはこの時、恐れていたという事。文頭の「これらの出来事の後」とあるのは、生まれ故郷のウルを出てからこの方、試練続きだった事でしょう。特に前回、甥っ子のロトを奪還すべく戦ったケドルラオメル軍が、体勢を立て直してリベンジに来るのでは、との恐れはあっても不思議ではありません。そして年々衰えていく自分と妻サライ。子のないアブラムに多くの子孫を与え、またカナンの地を嗣がせて下さるという、神様の約束は本当に実現するのだろうか?疑いが頭をもたげると、それは恐れに変わって、雨雲のようにみるみるアブラムの心を覆ったのでしょう。
誰にでも、不意に恐れに襲われる瞬間はあり得ます。使徒パウロもそうだった(使徒18:9)。でも、だからダメなのではない。私たちのそばには、主がおられるのですから。目には見えませんけれども、主がいつも私たちのそばにおられるんですね。だから、私たちは弱くても安心なのです。

A主ご自身が盾となって
 続けて主は「わたしはあなたの盾である。」と仰いました。ケドルラオメル軍の襲撃にも、主が身体を張って、盾となって、守られる。そういえば、キリストも、私たちのために文字通り、盾となって、十字架上で釘を打たれ、槍を突き刺されて下さいました。そのキリストの陰に隠れて、覆われて、正義が要求する刑罰から、私たちは守られているんですね。主は私たちを守るために、身を挺する覚悟までしておられます。

B非常に大きな報いを用意して、励まされる
そしてただ守られる、というだけでなく、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と仰いました。報いと言って、いったい、何に対する報いなのでしょう?それは、主に信頼してここまで従ってきた事、そしてこれからも従って、従い通した先の報いでしょう。信仰の従順、主への信頼。それに対する報いです。それは、「非常に」大きい、と励まして下さいます。「非常に」がついている。わくわくしますね。私たちはロボットではないので、報いがあると思うと元気が出るものです。現金なものです。御利益宗教ではありませんが、主がご用意くださっている報いから目を離さない、というのも、弱い私たちの信仰を支え、励ます有力な方法でしょう。希望には力があります。だから使徒パウロも「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」を知る事ができるように、と祈っています(エペソ1:18)。将来与えられる報いが、はっきり見えれば見えるほど、喜びがわき、信仰から離れるという事がなくなります。手放してなるものか、と。世の終わり、歴史のゴールに与えられる神の国を望み見る事は、とかく近視眼的になりがちな私たちに必要なアドバイスです。

C主は軌道修正してくださる
さて、ここまで主は御言葉をもってアブラムを励ましたが、しかし今回は、アブラムは納得しませんでした。しぶとく食い下がります。2−3節。

アブラムの嘆きの深さは、2節3節と、わたしの跡継ぎは、奴隷がしらのエリエゼルになるんですか、と二度も繰り返している所にあらわれています。一回では収まらない。繰り返す。それも、彼の場合、ある程度、理解できるかもしれません。アブラムは、主の召しに応じてウルを出て、この地に来たのです。そして数々の試練に見舞われても、約束の成就を待ち望んでこの地にとどまったのです。従いもしないで、どうして神は!などと文句を言っているのではありません。生活をかけて従ってきたからこその疑問であり、訴えだったのです。だから主も、そんなアブラムを責める事なく懇ろに導いて下さるのでしょう。

ところで、子どもがいない場合、奴隷を養子にして跡取りにするという事は、合法的な事でなにも悪い事ではありません。なので、物事が当初の願い通りに行かない時、先が見えてしまう人ほど、先回りしてこういう妥協案で手を打ってしまいがちかもしれません。こういうことだったのだと、無理矢理つじつま合わせをして。ですが、そんな事だったら何も神の出番はないわけです。信仰を働かせなくても誰でもできる事。もし、アブラムに子孫が与えられるというのが、そんな事だったら、アブラムはがっくりと膝を落とし、両手を地面について、落胆したでしょう。ですが、主に信頼する者は、失望させられる事がない(ロマ9:33)。主はそんな方法ではなく、ハッキリとアブラム自身から生まれる者が後を継がなければならないと言われました。4節。
主は、時に妥協してしまいそうな私たちを軌道修正してくださるのです。

?主は自然界のものを用いて励まされる(5-6節)
@演出効果抜群の視覚教材
そして、御言葉だけでは納得できなかったアブラムを、主は、今度は手を取るようにして外に連れ出します。5−6節。

主に外に連れ出されて、アブラムは「いったい何をなさろうというのだろう」と思っていると「さあ、天を見上げなさい」と言う。言われるままに満天の星空を見上げるアブラム。さらに「あの星を数える事ができるなら、数えてみなさい」ととんでもない事を仰る。アブラムが驚いて、一瞬、戸惑っているところに、一言。「あなたの子孫は、このようになる」言われて、二度ビックリ。神様がお造りになって天にちりばめられた視覚教材を用いて、アブラムの弱った信仰を励まされました。このへんの演出は抜群で、効果的に、約束の結果、与えられる祝福を印象づけました。
 事実、これは効きました。アブラムはこれで主を信じる事ができた。そしてそれを主は、彼の義と認められたと言います。こうして読んでくると、これは主が手取り足取り、あの手この手でアブラムを何とか信仰を失わないようにと励まし導いて下さった賜物以外の何物でもない、と思われるところですが、主はそれでもこれを「彼の」義と認められたというのです。何と恵み深い主か、と思わずにいられません。

Aキリストの復活も
主の復活も同様です。キリストは、十字架につけられて三日目に実際に復活された。すごいな、主はよみがえられたんだ、と驚いていると、一言。「信じるあなた方も、このようになる」と言われているのです。復活の栄光の身体、完全な身体をもって「このようになる」とイエス様は、事実復活して見せて下さった。その証人は一人二人ではなく、大勢いて、その証言集である聖書の福音書を注意深く調べるとますますその証言の信憑性がわかるのですが。実物教育というか、デモンストレーションしてみせて、本当に死者は復活するんだよ、それもゾンビみたいに気持ち悪い姿でなく、栄光に満ちた姿で、と理屈でなく事実で示して下さった。それが、あの復活の主に出会った後弟子たちの力強さ、死をも、殉教をも恐れない強さになったのでしょう。信じるあなた方は、このようになる、と。
 
 アブラムは、こうして天然の視覚教材を用いての励ましを受けて、主を信じる事ができました。そしてその事を、誰よりも喜ばれたのは、言うまでもなく、神様の方です。
 
 そして7節以下、長くなるので読みませんが、子孫に関しては星空を見せて確信させましたが、土地の所有に関しては、主は当時行われていた契約を結ぶ儀式を用いて、アブラムに確証を与えました。

?主は、契約をもって励まされる(7-21節)
@契約の儀式
9節以下、何やら不思議な、幻想的な記述は、古代の契約締結の儀式と言われます。三歳の雌牛と雌山羊、三歳の雄羊を二つに切り裂いて、半分になった身体を互いに向き合うように置く、というのは、この契約を破った者は、このように切り裂かれるという、当時の契約締結の儀式です。どうも、我々農耕民族にとっては、こういう動物の解体作業というのはちょっと苦手かなと思いますが、当時の向こうの生活ではこういう習慣だったのでしょう。

A契約の説明
そして13-16節には契約の説明のようなものが記されます。全部説明していると長くなるので省きますが、要するに、アブラムの子孫がすぐにこのカナンの地を相続するのでなくて、400年以上後の事だと仰っています。出エジプトと言われる出来事です。それは調べてみると、ちょうど、イスラエルがエジプトに下ったヨセフの代から四代目のモーセの時代の事になります。

B契約の締結・契約の条文
17節の「煙の立つかまどと燃えている松明」は、主の臨在をあらわすもの。それが切り裂かれたものの間を通ったという事は、もし契約を破ったら、このように引き裂かれても文句はない、ということを承諾して、契約を結んだという事です。
その契約の条文(内容)は、18−21節に記されている地域をアブラムの子孫に与えるという事。これは時代が下って、イスラエルの領土が最大だったソロモンの時代に成就しています。

ところで契約と言っても、ここでは契約の内容は、アブラムにとってメリットがあるだけ。主の側が得する事は一つもありません。以前学んだノアとの契約の時もそうだったように。契約の内容はと言えば、アブラムの子孫がこれこれこの地域を受け継ぐ事になるという事だけ。神の側は、この契約によって受けるメリットは何かありますか?というと何もない。なのに、もし契約を破ったら切り裂かれるという罰則規定だけを、神様だけが負われた。まったく割に合わない契約です。そんな契約を何のために結んだかというと、すべてアブラムが信じられるように、とアブラムの信仰を励ますためだったのです。ここにも、神様の深い親心があらわれています。

<結び 信仰こそ、神との関係において決定的に大切な事>
以上、ざっと見てきましたが、最後にもう一度6節。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)新約聖書でも何度か引用されている大切な聖句です。アブラムとて完璧な人間ではありません。これまで見たように失敗もあり、罪深さも見られた、私たちと同じ生身の人間です。ですが主は、彼が主を信じたというこの一事をもってアブラムを義と認めて下さった。足りないところだらけでも、主を信じる、信頼するというここの大本の所があるならば、他の事は赦されるのです。神様との人格的な関係はその土台の上に立って続けられます。そして、私たちが主を信頼するという土台に立って、主は私たちをきよめ、導き、主を愛する愛を育んで下さる。信頼関係なくして、愛は築かれない。

主は私たちの信仰を尊ばれる。私たちを愛して、私たちと関係を結びたいと切望してられるからこそ、私たちの信仰、神様への信頼を大切にされます。この時のアブラムに対してそうだったように、くすぶる灯心を消す事もなく、痛んだ葦を折る事もなく、励まされる。だから、辛くても信じる。泣きながらでも信じる。主に叫びながらでも信じる。そばにおられる主に励まされて、信じ通す。その道を歩み続けて、最後に受ける報いは非常に大きい。
この主に信頼して人生の旅路を歩んでいきたいものです。