礼拝説教要旨(2019.10.27)  
日々新しくされて生きる =ハイデルベルク信仰問答= 問答:114〜115
(ヨハネ第一 1:8〜10) 柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:十戒について              第44主日の2

問114 それでは、神へと立ち返った人たちは、
   このような戒めを完全に守ることができるのですか。
答  いいえ。
   それどころか最も聖なる人々でさえ、
    この世にある間は、
    この服従をわずかばかり始めたにすぎません。
   とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、
    神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、
    現に生き始めているのです。
問115 この世においては、だれも十戒を守ることができないのに、
   なぜ神はそれほどまで厳しく、
   わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。
答  第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、
    わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、
    それだけより熱心に、
    キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。
   第二に、わたしたちが絶えず励み、
    神に聖潔の恵みを請うようになり、
    そうしてわたしたちがこの生涯の後に、
    完成という目標に達する時まで、
    次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです。

 キリストによって救いを与えられた者たちに、感謝の日々を生きる指針として与えられている「十戒」は、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を指し示しつつ、私たちの生き方を導いてくれる大切な戒めである。行いにはよらず、信仰により、恵みによって救いに与った私たちが、感謝をもって戒めに従い、救われるためでなく、救って下さった神への感謝の応答として、戒めを守り行うことを、神ご自身が喜んで下さるのである。罪を離れ、義に生きることを、心から慕い求めることができるのは、聖霊なる神が働いて、私たちを導いて下さるからである。けれども、だからと言って、戒めを完全に守ることができるのかどうか、モヤモヤするのも事実かもしれない。その疑問について、問答114と115が、十戒の最後のまとめとして触れている。

1、戒めを守るなら救われるのでなく、救われた者の感謝のしるしとして戒めを守るのであったとしても、しかも、新しいいのちを与えられ、聖霊が助け主として導いて下さるなら、「それでは、神へと立ち返った人たちは、このような戒めを完全に守ることができるのですか」と、誰しもが問いたくなる。この人は正しい人です、と自他ともに言えるようになるのか、それとも、どうせ皆同じ、守れる人なんかいないと諦めるのか、人の心にある思いは複雑である。答「いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません。とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。」私たち人間が判断する完全さは、神ご自身の規準に照らして、完全とは決して言えない。神が良しとされる服従を、「わずかばかり始めた」に過ぎないことである。けれども、その人の歩みは、聖霊の助けによって、神の戒めを真剣に追い求めるものとして、「現に生き始めている」と、神ご自身が認めて下さるのである。それは、以前は気づかずにいた罪に気づく歩みであって、しばしば罪に悩まされることになる。しかし、それこそが、戒めに従って歩もうとする、真実な歩みの一面である。神はキリストにある者を守り導き、必ず支えて下さることを、決して忘れないように。

2、しかし、十戒を心に刻み、いつもいつも、自分の罪を認め、欠けがあることを知って歩むのは、それでまた、実に悩ましいことでもある。問115「この世においては、だれも十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまで厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。」答「第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです。」この問と答えは、完全に守ることは到底できない戒めを、なぜ繰り返し繰り返し教えられなければならないのか、もっと慰めや励ましに満ちた教えが欲しい等々、そんな思いへの言葉である。すなわち、罪の自覚が促される度に、人の心は、うなだれるばかり・・・との嘆きに対して、いや、それでも戒めを通して、キリストにある私たちは、いよいよ神のかたちへと新しくされて行くこと、そのことを神が望んでおられると明言している。(8〜10節)カギは、「次第次第により深く知り」、また「次第次第に、いよいよ神のかたちへと」である。戒めに対して、「服従をわずかばかり始めたにすぎない」としても、「現に生き始めている」服従の歩みは、全生涯に渡って続く。その過程において、自分の「罪深い性質を次第次第により深く知る」ことによってのみ、私たちは「より熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになる。」それなしに私たちは、きっと横柄な歩みをするのみとなる。

3、「・・・完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです。」この言葉は、自分の罪を示され、罪に気づいた者が、悔い改めて、罪の赦しを与えられ、心安らかにされて日々歩むなら、その先に、救いの完成の時があることを告げている。すなわち、キリストを信じる者の地上の歩みは、必ず終わりの日の完成を目指している!と。その完成は一足飛びでなく、一歩一歩であり、「次第次第」また「いよいよ」と言うように、徐々に進むものである。従って、この地上において大事なことは、戒めに聞き従いながら、ますますキリストの十字架の身代わりの死を必要とする自分に気づくことである。「いよいよ神のかたちへと新しくされてゆく」とは、「いよいよキリストに似る者となる」ことである。キリストが十字架で死なれたように、私たちも罪に死に、キリストが死からよみがえられたように、私たちも神にあって義に生きること、キリストが十字架の死にまでご自分を低くされたように、私たちもへりくだりを身に着けることである。十戒を心に留めることを通して、十字架のキリストをいよいよ仰ぎ見る信仰へ進むことを、神ご自身が願っておられるのである。

<結び> 「謙遜になる」「へりくだる」「心を低くする」。これらの言葉は、「キリストに似る」ことのカギになるものである。(ピリピ2:5-8)この世にあっては、決して完全なものとはならず、完成は、天の御国での救いの完成の日まで待たねばならない。けれども、その日の完成は約束されている。この世では未完成であっても、完成を目指して、「次第次第に」、また「いよいよ」という歩みを、私たちは聖霊なる神の恵みと導きを頼りとして、日々新しくされて生きることになる。私たちの目に、「日々新しくされる」という実感はないかもしれない。実感がないので、何も変わらない・・・のではなく、むしろ、神の目に、私たちは日々新しいいのちを与えられ、生かしていただいていることを覚えたい。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)天の御国に入るまで、私たちは「日々新しくされて生きる」ことを心に留めて歩ませていただきたいと思う。次第次第に、しかし、いよいよキリストに似る者とされて。