今日は「創造者を知る幸い」というテーマでお話をさせて頂くわけですが、おそらく今日は用意してきたもの全部やると長くなってしまいますので、みなさんの心身の健康のためにところどころはしょりながら、適当なところで切り上げたいと思っています。もし、ここのところをもっと聞きたいとか、思われましたら、後でお声をかけて頂けましたら、別途、お話しさせて頂きますので、遠慮なくお声かけください。
<はじめに:先入観なしに、自然を見てみましょう。世界は神の作品です。>
さて、神は人類に二冊の聖書を与えられた、と言われる事があります。自然と、文字で書かれた「聖書」と、この二冊です。当たり前のように見ている自然も、先入観なしに改めて観察すると、神の力と知恵とそして慈愛とをあかししている。偶然だと言い張るには無理があるほどの精巧な仕組みがあり、絶妙な配剤があるのではないでしょうか。よくテレビ番組でも、人体のしくみとか、あるいは動物や昆虫や植物もあるでしょうか、そういう生き物の生態や構造を紹介しているのがありますが、それを見てやっぱり感動するんじゃないでしょうか。へえー、そんなうまく造られてるんだー、すごいね、いったい誰が造ったんだろう?素直にそう感想を言っていた人もいました。偶然と言い張るにはあまりにもうまくできすぎていて、誰かが、ちゃんと理性をもった存在が、理性を使って、最初からこういう生き物を造ろうと設計して、組み立てたと考えるほうが自然だと思います。
例えば、カメラがあるとします。それを目の前にポンと置いて、これは偶然にできたんだよ、と言っても、誰も信じないでしょう。何馬鹿な事を言ってるんだと、思うでしょう。百歩譲ってカメラに必要な材料は集まったとして、それを袋の中に入れてガチャガチャやってたら、カメラができた。何億年もガチャガチャやってたら、カメラができた。何て言っても、そんなこと信じられますか?あるいはサルにその材料を渡したら、何億回かやったらカメラができた、なんて信じられますか?誰も信じられないと思います。ところがこれが、誰かカメラを作る職人さんに渡したら、すぐに作れます。そしてこれはカメラ職人さんが作ったんですよ、と言ったら、そのままああそうですか、とそのまま信じられるわけです。ちゃんとカメラの仕組みとか構造とか、わかっている人じゃないと作れない。偶然じゃできない。それと同じように、カメラよりもはるかによくできた私たちの目、目の構造を調べてみると、感心します。これは明らかに最初から見るという目的のために設計されて、適切な材料を、適切な場所に配置して初めて「見る」という事ができるんです。私たちの目、これはカメラと同じような構造です。カメラのレンズにあたるのは、目では水晶体というもの。これが厚くなったり薄くなったりしてピントを合わせている。自動で焦点が合うように、オートフォーカスになってる。人間の身体の中でここと角膜だけが透明です。そのために、ここだけは細胞なんだけど血管が通ってなくて、周りの血管や涙液で栄養を与えたり老廃物を流したりしているそうです。あとカメラではしぼりにあたる、光の量を調節するのが、人間の目では虹彩というもので、暗いところに入るといっぱい光が入るように大きくなって、明るいところに出るとあんまり光が入りすぎないように小さくなる。猫の目が大きくなったり細くなったりするのも、それです。光の量を調節する機能が備わっている。あと、ビデオカメラ、昔のビデオカメラは、持って歩くと揺れてしまって、あとで見てみると画面全体が揺れてしまっていたんですが、最近のは手ぶれ補正機能というのがあって、ビデオカメラを構えて歩いても、多少の揺れは補正されて、あとで画面を写してみても揺れないんだそうです。すごいもんだな、と思いますが、人間の目は元からそうなんですね。たとえば5メートル先のものを見ながら歩いたときに、ゆれないでちゃんと見れます。歩くときの振動にあわせて眼球がなめらかにスムーズに動くようになってて、自動でぶれないように調整しているんですね。そんなこと、考えた事もなかったでしょう?目が見えるためには、それも快適に見えるためには、ちゃんと見るという目的のために設計されて、適切な材料が適切な場所に置かれて、はじめて機能するんですね。はじめから見るという目的のために設計されていないと、こうはならない。
心臓も、考えてみたらすごいですね。昔、高校の頃の生物で習ったんでしたか、随意筋と不随意筋というのがあります。随意筋は意志で動かす事のできる筋肉で、手とか足とかそういう所の筋肉。これは骨格筋とも言って、力が出るけど疲れやすい。不随意筋は自分の意志で動かすのでない、おもに内臓とか、そういう所の筋肉。これは平滑筋とも言って、腕や足のように大きな力は必要ないけど、その代わり疲れにくくて丈夫。内臓はそれでいいわけです。ところが心臓だけは、内臓なんだけれども大きな力が必要。全身に血液を送っていますから。しかも疲れるわけに行かない。ちょっと疲れたから1時間休みます、というわけにはいかない。寝てるときも24時間動き続けないといけない。ですから、心臓の筋肉だけは、全身に血液を送れるように力が強くて、しかも疲れないで長持ちする、その両方の性質をもった筋肉になっているんです。心臓ってすごいですよ。ネットで調べましたら、あるHPによると、人間の心拍は1分間に70回程度です。そこで、心臓が1日にポンプとして収縮したり広がったりしているのを計算すると、1日で10万回、そして、80歳までには約30億回の収縮と弛緩を繰り返しています。それと、1日でどれぐらいの血液を全身に送り出しているかと言うと、個人差はもちろんありますが、だいたい1分間に約5〜6リットルの血液を全身に送り出しています。そうすると、1日で約7,000~8,000リットルの血液を全身に送って、そしてまた戻ってくるということを繰り返していることになります。これを石油を運ぶタンクローリーにたとえると、大型タンクローリーにもいろいろサイズがありますが、7,000~8,000リットルのタンクローリー一杯分。だいたい給水車の2~3台分くらいだそうです。それくらいの量を毎日全身に送り出しています。ほんの握りこぶしくらいの大きさの心臓が。
で、心臓にしても、あと肺、呼吸にしても、生命を維持するために絶対必要な事は、私たちが寝ててもできるように造られていますね。自分の意志で動かしているわけではない。意識しなくても、動いててくれてる。寝てても。文字通り生かされているんですね。私たちは自分の力で生きているように思っても、生命を維持する一番肝心なところは自分の意志でなく、神様が動かしてくださっている。その上で私たちは好きな事をやっているわけです。
日本では、進化論がまるで、他の万有引力の法則や相対性理論のように、実証された事実であるかのように教えられていますが、とんでもない事です!と、私みたいなものがそんな事を言っても何の説得力もないでしょうが、二人のノーベル賞科学者が口をそろえて言っていると言ったらどうでしょうか。
文藝春秋から出ている「「大発見」の思考法」という本がありまして、iPS細胞で有名な山中伸弥教授と、もう一人素粒子の専門家の益川敏英教授という二人のノーベル賞受賞者の対談があるのですが、その最後の章が「神はいるのか」という題が付いています。益川さんは無神論者、それもただ自分が信じないというだけでなく、人が信じているのをやめさせようという積極的無宗教だそうです。でも彼が無神論者なのは、科学のデータに裏付けられて出した結論では全然ないんです。その本の中で言っておられますが、何が不思議な現象があった時に、神様がそういう風にした、と言ってしまうと、そこで探求する事がストップしてしまう。思考停止になってしまう。だから科学者として、どこまでも調べて、追及していく姿勢を大事にするために、神はいないと言ってるんだ、と言うんですね。だから、彼の無神論は、科学的な考察に基づいて言っているのでないわけです。自然探求の熱意を保つために、そういう事にしておこう、ということです。
対して山中さんは、クリスチャンかどうかはわかりませんが、切羽詰まったら苦しい時の神頼みで「神様、助けてください」と祈るそうです。そして山中さんは「生物学をやっていると、これは神様にしかできない、と思うようなことがたくさんある」と言っています。そして「ヒトはサルから進化したのか、それとも神が造ったのか、ときかれれば、日本人はなんとなく、サルから進化したというほうを信じますが、それは何の根拠もない事です」と言い、さらに一歩進んで「そのうち、ダーウィンの進化論は間違いだった、という事になるかもしれません。」とさえ、言っています。ここまで言うと言う事は、これは相当怪しいですね。進化論は。そして興味深いことに、ここが興味深いんですが、さっきの無神論者の益川さんも「日本人は進化論を信じないなんて怖いな、と思うかもしれないけれども、実は進化論を信じるのもある意味では怖い事だ」と言い、「人がサルから進化したということは、何の根拠もない」とバッサリ切って捨てています。進化論というのは、ただの仮説であって、科学的には何も証明されていないんだ、と私でなく二人のノーベル賞科学者が言ってるんです。しかもそのうちの一人は積極的無神論者だと言ってる人が。ですから、信仰とかそういう事は別にして、純粋に科学的見地から見ても、進化論ははなはだ怪しい。何にも証明されていない。だから進化論なんて無批判に信じるのは、考えないといけない。
あと、その本には触れていませんでしたが、進化論を信じるのもある意味でこわいというのは、適者生存という考え方、環境に適したものだけが生き延びて、そうでないものは滅んでいくという思想は、いのちの差別につながるからかもしれません。ヒットラーもユダヤ人虐殺を正当化するための思想的根拠として進化論を利用したと言います。進化論はそもそも、科学的に間違いなのですが、それを人間に当てはめると極めて危険な悪魔的な思想であることが明らかになります。弱者切り捨て、淘汰されて消えていくのが自然の理、と開き直られてしまいかねない。
それに対して、聖書は、海の魚も空の鳥も、地上の動物も虫けらたちでさえもが、一つ一つ、神様の手作りの作品。神様が慈しんでお造りになった神の作品なんですよ、と告げます。ファーブル昆虫記で有名なファーブルは、虫の体の構造や生態を調べていて、そこにあらわれている、いのちを支えるための精妙な構造、仕組みを見て、「私は神を見ているのです」と言ったと言います。虫の一匹にさえ注がれている神様の慈しみ。虫一匹でさえ、いのちを支えるための、驚くような仕組みが、それこそ細胞の一つ一つに至るまで、造られているんですね。そういういのちを支え、育む仕組みが解明されればされるほど、神様が命をいつくしんで、生かしておられるのがわかって感動します。
さっきは目と心臓でしたが、植物だってそうです。一粒の種から何十、何百と増える。だから人や動物が食べてもなくならない。むしろ増えていく。これも当たり前のように思っていますが、神様の素晴らしい知恵の産物です。食べても食べてもなくならない、うれしい仕組みです。しかもその植物のバラエティに富んでいる事!同じ土からそれぞれの種類に従ってそれぞれに必要な栄養分を吸い上げる。吸い上げられた栄養分は幹を通り枝を通ればアーラ不思議、おいしい果物になるという具合です。どういう化学変化が起こっているのか、門外漢の私にはわかりませんが、果樹をならせるそれぞれの木は、あたかも不思議な果物工場のよう。一本一本の木が、みかん工場、りんご工場、ぶどう工場、梨工場、、、。同じ土、同じ日光から、何十種類もの味も栄養分も違う美味な果物を作り出してくれる天然自然の工場です。身近なところにある奇跡です。神様は、いろんな味も香りも食感も見た目も、また栄養素も違う、いろんな種類の果物や野菜や穀物を与えて、私たちの必要を満たすと同時に、私たちの心を喜ばせてくださっているんですね。おいしいものを食べると、みんないい顔になるでしょう。これが、車にガソリンを入れるみたいに、味もそっけもないものをただ必要だからって言ってエネルギーを補給しないといけないとなったら、苦痛だと思いますね。神様は、私たちが喜んでエネルギーや栄養素を取れるように、おいしいものを用意してくださったんですね。
二宮尊徳「天は人を助けよう助けようとばかり思っている。」江戸時代中期の人です。背中に薪を背負って歩きながら本を読んでいる像の人です。今なら歩きスマホはだめ、と叱られそうですが。彼は、十四歳で父を、十六歳で母を亡くし、彼は父方の伯父の所に預けられたのですが、一日も早く二宮家を再興したいと願い、伯父の家を手伝った後、その方法を見つけるために夜遅くまで勉強しました。世話になっている伯父に迷惑をかけないために自分で燈油を得ようと、一握りの菜種を撒いたところ、七、八升(1升=約1.8リットルとして13〜14リットル)の菜種が採れました。また田植えが終わって捨て置かれている苗を集め荒地を耕して植えたところ、秋には一俵(約60s)あまりのお米を収穫することができました。この二つのことから、天は、人が勤勉に働きさえすれば、大きな実りを与えて、助けてくれるのだと思ったそうです。菜種を植えたら菜種油が取れて、稲の苗を植えたらお米ができる事を、当たり前だと思わないで、その事に感動できる心を持っていたんでしょうね。そしてそれが、後の彼の人生にとって大きな影響を与えたと言われます。天が味方していると思えたら、こんな心強い事はないでしょう。彼は後に、いくつもの藩の財政改革に呼ばれて、見事に建て直したと言います。
目が見えること、心臓が何十年も休まず動いていること、太陽が昇り、雨が降り、種類に従ってさまざまな食べ物が与えられている事、そういう事を当たり前だと思って何とも思わないで過ごすのか。それとも、いやまてよ、それって当たり前だと思っていたけど、当たり前じゃない。そのひとつひとつに目に見えないあるお方のご意志があらわされているんじゃないか、生かそう、生かそうと、喜ばそう喜ばそうとしておられる、目に見えないあるお方のご意志を汲み取るべきなんじゃないか、そこに気づき、認めるのか。神さまが私たちに必要な全てを備えて、人間を助けよう助けようとしておられるという事に気付いて、感動する心を持っていたいものだなあ、と思うのです。
以下、創造者を知る事から与えられる幸いをいくつかあげてみました。
1.私たちも神の作品です。神は私たちの全てをご存じで気にかけておられます。
親は私たちを「生んで」くれた。しかし母親の胎内で私たちを「組み立てた」のは神。造った方だから、私たちの全てを知っている。親はいくら産んでくれたとはいえ、子どもの全てを知っているわけではありませんね。でも造る、組み立てるとなったら、知らなきゃ組み立てられない。たとえば車を作る人は、車の構造とか何がどこにあって、どういう仕組みで動くのか、知ってないと作れないわけです。それと同じように、人間も、生むのではなくて組み立てるには、構造とか何がどこにあって、どういう仕組みで、というのを知ってないと組み立てられない。まあ、お医者さんならある程度は、知っているでしょうけど、それでも全部を知っているわけではないですよね。それこそ髪の毛の数なんかはわからないでしょう。でも、神さまは、一人一人の髪の毛の数までご存じだというんですね(マタイ10:30)。そんなの自分だってわからないですよね。皆さんの中で、自分の頭の毛の数、わかる方いらっしゃいますか?ゼロという方は、おわかりかもしれません。わかりやすくていいですね。
また心の中にある傷も神様はご存じだとあります(詩篇139篇)。心理学という学問もありますけど、まだまだ始まったばかりというか、わからないことだらけのようですね。人の心のことは、自分だってわからない。自分で意識できるのは、ほんの氷山の一角でその下には膨大な無意識というのがあるなんて言われますね。そうなるともう手に負えないと思いますが、神さまはそれもすべてご存じ。
神は、創造者として、ご自分が丹精込めてお造りになった作品である人間の、文字通りすべてをご存じであられ、そして慈しんでおられます。
2.この神に、私たちは祈る事ができます。
私たちの創造者として、私たち以上に私たちの事をわかっていて下さるこの神に、私たちは自由に心のままを祈る事ができます。訴える事ができます。心にある願いを知って頂く事ができます。助けを求める事ができます。四方八方ふさがっても、天は常に開かれています。ここをふさぐ事は誰にもできません。
もちろん、すべて私たちが願った通りになると、どこかの御利益宗教のような事を言っているのではありません。神の御心にかなった願いだけがその通りになるし、そうでないものはそうならない。しかし祈ってもそうならなかった事は、最善以下の事をなさらない神がそうされたのだと、別な形で神に信頼する事を学ばされます。
また祈りは、創造者なる神の御前に出て、向き合うと言う事でもあります。世にあって、回りに振り回され、激しい渦の中に巻き込まれて、空中分解しそうな時にも、自分を取り戻し、姿勢を建て直し、整える事ができる。創造者の前に出る時に、私たちは本来の自分を取り戻すことができ、立ち返るべき所に立ち返ることができる。軸を持つことができる。いわば楽器で言えばチューニング、車とか機械とかだったら点検、メンテ、ある場合は修理と言えるかもしれません。
そして、願い事だけでなく、神への賛美や感謝も祈りの一つの形態です。これらを神に捧げる事は、私たちに喜びをもたらします。創造者であられいのちの源であられる神をほめたたえ、喜ぶ事が、人間としての本分だから。そこには、世が与える事ができない喜びです。
昔、フーテンの寅さんという映画がありましたが、その中で大学教授夫婦と娘さんと、寅さんが食事をする場面があったそうです。奥さんと娘さんはクリスチャン、お父さんだけ違うという設定でした。で、そこの家では犬を飼っていたんですけど、食事の前にお父さんが感謝のお祈りをしないのを見て、その娘さんが「うちで食事の前にお祈りしないのは、ポチとお父さんだけね」と言っている場面があるんだそうです。確かに、餌を与えられて喜ぶという事は動物も人間も同じでしょうけど、そこから一歩進んで感謝という高等な感情、情緒を持つのは、人間だけなのかな、と思いますが、いかがでしょうか。
3.いつの時代にも変わる事のない確かな人生の指針・規準を持つ事ができます。
聖書は、神のことばと言われます。すべてのものをお造りになった方が、私たちにご自身の事を知らせ、またどのように生きたら良いのか、価値基準、判断基準を与えておられます。また大きな枠組みとしての世界観、歴史観を提供しています。この聖書を持つ事ができるのも、創造者を知った事の幸いです。
世の価値観は、時代によって変わる。時には180度ガラリと変わる事もある。かつては善とされていた事が悪とされ、悪とされていた事が善とされる事がある。戦中戦後を生きてこられた方は、そういう事を経験なさっておられると思います。
クリスチャン作家の三浦綾子さんもその一人です。今日は時間がないので述べませんが、戦時中と戦後とでガラリと180度価値観が変わる中で、何も信じられなくなりましたが、やがて聖書に出会い、そこにいつの時代にも変わることのない真実を見出しました。世の中は移り変わりますけれども、また人が作り上げた哲学や思想は、やがて古び、新しいものに取って代わられますけれども、神様のことばはいつの時代にも、どんなに世の中が移り変わっても、変わることがありません。それは、この全世界を造られた神のことばですから。永遠に変わることのない神様のことばですから。その事は、日本だけでなく、世界中で、また歴史を通して、証明されています。
4.神は私たちの同伴者、導き手です。
この神のことばである聖書を読み、神に祈りながら歩む生活は、神に頼り、神に導かれ、神に従う生活です。神は、聖書と祈りを通して導かれます。
また、聖書によると、イエス・キリストを信じる時、その人の所に神ご自身が来てくださいます。そしてその人の生活に伴ってくださり、導いてくださる、と言います。聖書では、神を羊飼い、私たちをその羊とたとえている(詩篇23:1)。山にも谷にも、良い時もそうでない時も、喜んでいる時も泣いている時も、得意の時も打ちひしがれている時も、どんな時にも近くにいて離れない同伴者であり、導き手です。
5.すべてに神の御心があります。
神は目的もなしに何かを造る事はありません。何となく、暇だから作ってみた、という事はありません。私たちも、イスならイスを座るために作るし、家なら家を住むために作ります。時間を計るために時計を作り、闇夜を照らすために懐中電灯を作ります。私たちもこの世界も、何の目的もなくたまたま自然発生したのではなくて、神が造られたのですから、神は私たちを造られた目的があります。
またすべての出来事も偶然ではなく、神の御心の内にある。神さまのお許しなしには、雀一羽、地に落ちることはない、と聖書に書いてあります。
13歳の愛娘を北朝鮮に拉致された横田早紀江さんという方の事をお聞きになった事があるでしょうか。最初は、北朝鮮が拉致したという事がわからなくて、もう何が何だかさっぱりわからなかったそうです。どうして突然、いなくなってしまったのか。事故の痕跡もない。何か事件に巻き込まれたのか、考えるといても立ってもいられなかったそうです。そんなある日、彼女は教会に行くようになったそうです。そして聖書を読んでいく内に、旧約聖書にヨブ記という所があるんですが、そこには、ヨブという素晴らしい人、困っている人を助け、家族のためにもいつも神さまの前にとりなしの祈りを捧げていた模範的な人がいたんですが、その人が何も悪いことをしていないのに、次々と災難に襲われた。それまで裕福だったのが、すべて失い、無一文になった。それまで幸せに暮らしていた子どもたち、息子たち娘たちをみな、一度に失った。そして自分自身も、全身腫物ができて、夜も寝られないほどになった。そういうことがみな、サタンの仕業だったんですが、それはサタンが勝手にそうしたのではなくて、神さまが、サタンにそうすることを許可されたと書いてあるんです。サタンは神さまの許可なくして勝手なことはできないんです。神さまのお許しなしには雀一羽、落ちる事はない、ですから。で、ある人はこれを読んで、脊髄反射的に「なんで!そんな神さまなんか!」と怒りをぶちまけるでしょう。ですが、横田早紀江さんという方は、賢い方ですね。知恵深い方です。彼女はむしろ、それを読んでそこに希望を見いだし、それを支えとしたというんです。どんな出来事も、神の手から離れて起るのではなく、単なる偶然でもなくー単なる偶然だったら、そこに何の救いもありませんー神のみ手の内にあるという、だったら、その事のゆえに希望を持つ事ができる!というのです。そうしてやがて彼女はクリスチャンになったそうです。そんな神さまなんか!っていって、怒りをぶちまけたくなる、その気持ちもそれはそれでわかります。でも、そうしたところで何の救いもない。彼女は、思慮深く、むしろそこに希望を見いだして、支えとした。
聖書という宝を、持ち腐れしてたらもったいないな、ちゃんとそこから希望を見いだし、力とする、そういう知恵を身につけたいな、と思わされました。
6.神は私たちのために永遠のいのちを用意しておられます。
神が最初に世界を造られた時、そこには死はなかった。人がいのちの源である神に背を向けて、自己中心の存在になってから、死が入ってきました。死はすべての人を有無を言わせず支配するものとなってしまった。死は残酷なものです。そして人々に恐怖と嘆き、悲しみ、苦しみをもたらします。
一休和尚は、臨終間際に、「何か言い残す事はないか」と問われて、「死にとうない」と応えたのだそうです。死を悟ったはずの人が、イザ、その時を迎えると、「死にとうない」だったのです。一休さんほどの人でも、いざとなると、そういう恐れに襲われたということです。サルトルという実存主義という哲学者は、死なんてどうでもいいことみたいな事を言っていたんですが、その時が来てみると恐怖に顔が真っ青になって引きつっていたそうです。イザ、その時になると、それまで押さえ込んでいた生存本能がいっせいに目を覚ますのでしょう。
しかし神は、イエス・キリストによって、永遠のいのちを用意して下さった。死の原因である罪を十字架の上で処分されました。キリストは信じるすべての人の身代わりとして、すべての罪を背負って、十字架の上で刑罰を受けて下さった。そして三日目に信じる者の初穂として事実、復活された。信じる者は誰でも無条件で、まったき罪の赦しを与えられ、永遠のいのちにあずかることができるようになったのです。神は永遠のいのちをまったくの賜物(プレゼント)として、与えられます。
先述の一休和尚とサルトルと対照的に、北海道の方の小学校2年生の女の子、白血病になってしまったんですが、イエス様を信じていた彼女は、最後の時も平安に静かに天にあげられたそうです。
私たちにとって、死は終わりではなく、天国への凱旋なのです。
7.神は私たちをこの上なく愛しておられます。
永遠のいのちは、私たちにとってはまったくの賜物(プレゼント)です。しかし神の側では高価な犠牲を払われました。生ける神の御子キリストが、私たちの身代わりに死を引き受けて下さったのです。その犠牲は父なる神にとっても御子キリストにとっても言語に絶する苦しみでした。
なぜそのような苦しみを自ら引き受けてまで、私たちに永遠のいのちを与えようとされたのか。それは私たちを愛しておられるからです。愛する相手を失いたくない、いつまでもいっしょにいたいと思うのは当然の事です。神は私たちを愛して永遠にともに生きる者として、お造りになったのです。
十字架は、神の愛の証しです。
8.世の終わりに神はすべての事を正しく裁かれます。
神はこの世界を造られて、あとはほったらかし、造りっぱなし、ではありません。すべてのものの造り主として、最後の最後にすべてを清算する時を用意しておられます。人知れず行った良い事も悪い事も、すべて隠されたままでおかれる事はなく、その日にはすべてがあきらかにされ、それにふさわしい報いが与えられます。
また、世の中には心を痛めるニュース、義憤に駆られるニュースも多いです。それらに対して、自分でできる事はすべきですが、時に無力さを感じます。また自分には知らない事情もあるかもしれないと思うと、簡単に人を裁く事もできません。ですが、すべてをご存じの神に誤解はいっさいなく、ごまかしも脅しも通用せず、全てを正しく適切に裁かれます。裁判制度は必要ですが、本当の意味で完全に正しく裁く事ができるのは、すべての事をーそれこそ一人一人の髪の毛の数までーご存じの方だけです。その時に、悪に対しては妥協なき正義が遂行され、犠牲となった人たちにはそれぞれに応じた慰め・報いが与えられるのでしょう。天国は、正義が住むところです(第二ペテロ3:13)。
この神の裁きがあるという事を知る事も、人間にとっていろんな意味で幸いな事だと思います。
9.最後は大ハッピーエンドになる。
この世界は、ただ偶然に発生して、どこへ向かうともなくただ漠然と進んでいるのではありません。創造者がはじめから目的を持って造られました。そのゴールに向かってすべての事がアレンジされ、向かっています。そしてそのゴールは、永遠に神を心からほめたたえ、神を喜ぶ神の国の成就です。私たちが神をほめたたえ、喜ぶと言うとき、それはやせ我慢や強がりでそうするのではありません。心にもないおべっかを神は喜ばれない。私たちが本当に心から納得して、心の中から自然とわきでてくるのである。地上ではなぜ、どうして、と疑問に思ってきたことも、その時はすべて納得して神の知恵と正義と真実と愛をほめたたえるのでしょう。その時には神は、ひとりひとりの涙をすっかりぬぐって下さり、すべての悲しみ、叫び、苦しみはあとかたもなくなると書いてある(黙示録21:3−4)。神を信じる者、神の真実を信頼する者を、神は決して失望させることがない。ご自身の栄誉にかけて、必ずその信頼に応えられる。
地上の生涯は人それぞれです。必ずしも良い事ばかりとは限らないのが現実でしょう。しかし地上の生涯がどうであれ、神が用意しておられる次の世、神の国に入る人は、一人残らず大団円を迎えます。そこではすべての事が了解され、感動と喜びがあふれ、神への賛美と感謝がやむことがない。ですから、神を恐れ、神の知恵の深さを思い、「こんな事がある以上、神などいるわけがない」などと先走って性急に決めつけない事です。
善なる神がこの世界を造られたのだから、最後は大ハッピーエンドが保証されている。偶然にできた世界ならそんな保証はどこにもないわけですが、神がお造りになった世界だから、その結末は定められている。信じる者は幸いです。
<おわりに:神ご自身を知る事が一番の幸い>
以上、他にもいくつか思いつく事はありまするが、創造者を知る事の幸いのいくつかを簡単に列挙しました。どれから一つでも心にとまった事があったら、続けて教会に来て頂ければ幸いです。
最後に、人間にとって一番の幸いは何か?それは、私たちにいのちを与えられた創造者なる神ご自身を知る事自体が、一番の幸いだと思います。これこそが、他の何にも代える事のできない喜びであり、幸いです。聖なるお方が、私たちを真実な愛をもって愛してくださった。人格を持つ人間は、人格と結びあう事によってはじめて、満ち足りるのではないかと思います。物とか事に夢中になることはありますが、それでは決して満たされない。ただ神を知り、神ご自身と私たちの間に、心と心の結びつき、人格と人格の結びつきが生まれ、育まれて、人の魂は深いところから満たされる。そしてその神と人との愛と信頼の結びつきは、死によってさえも断ち切られる事なく、死を突き破り、突き抜けて、永遠に続きます。そしてその事を誰よりも喜ばれるのは神ご自身です。
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