礼拝説教要旨(2019.10.19)  伝道集会T
知恵の初め
(箴言 9:10) 柳吉弥太師 

 新会堂を与えられ、二回目の伝道集会を迎えた。今回は「創造者を知る幸い」をテーマとして、横田牧師と一回ずつ担当することになった。聖書の教えに耳を傾け、改めて私たちの生き方を見つめ直すことを導かれたい。昨年、私たちの日々の生活は、普段、余り極端な変化はないまま、案外、淡々と過ぎるもの・・・と言った。しかし、この一年を振り返ると、決してそうではなかった。日本列島は、次から次へと思いもしない災害に見舞われ、至るところで多くの人が右往左往させられている。教会も、また個人の家も、昨年の10月に台風の被害があった。個々人の生活においては、どうして自分だけがこんなに苦労しなくてはならないのか・・・と、恨み言を言いたくなる時があったに違いない。「私たちをお守り下さって有難うございます」と、感謝の祈りをささげるだけで、本当に良いのか・・・?と、心の内を問われることが多い私たちの日々である。だからこそ、どんな状況になっても、立ち止まって、自分の生き方はこれで良いのか、自分は何のために生きているのかを問い直すのは、いつもいつも何よりも大事なことである。聖書は、その大事なことについて、この世の人々の考えとは違う視点を教えてくれる。その教えに耳を傾けてみたい。

1、「賢さ」「豊かさ」「強さ」「栄誉」等々、人は誰でも、これらを好ましいものと追い求めている。聖書は、これらを追い求めることを戒めてはいない。聖書が教え、また勧めるのは、「本当の賢さ」であり「本当の豊かさ」「本当の強さ」、そして「本当の栄誉」である。箴言の言葉、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(9:10)は、聖書の中心的教えの一つである。人は「賢さ」を求め、「知恵」や「知識」を追い求める。知識を増し加え、知恵に富むことに憧れる。「あの人は博識がある」と称賛されると、自ら喜び、その人の周りにいる人々も喜ぶ。しかし、箴言は繰り返し、本当の賢さや知恵は、真の神を知ること、神を畏れ敬うことから始まる・・・と言う。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(1:7)「主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ。」(15:33)そして、次のように言う。「神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(3:4〜7)「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」(8:13)

2、私たち人間は、いつの時代も、知識を蓄え、知恵に富む者となりたいと、ごく自然に思い、願っている。親は自分の子どもに、「勉強しなさい!」と言い続けているに違いない。そして、知恵や知識に富むことより、この世で富み栄えるためにこそ、勉強して「良い学校」「良い仕事」に就くように、というのがこの世での成功であり、幸せであると、多くの人は信じて止まない。自分の生い立ち、また自分を取り巻く現実を思い返し、私たちはどう思い、どう感じているだろうか。私自身のことで言えば、戦後の混乱の時期に、社会全体が行く手を見失っていた時、親せきや近所の人の多くが、何故か教会に行き始めるということが起っていた。戦前の価値観が否定されて、人々は思いを新たに歩み始めていた、1950年頃である。人々の心を掴んだのは「キリストの福音」であった。先ず叔母がクリスチャンになり、叔母を通して、いとこたちや祖母また祖父に「福音」が届けられ、私にも届けられた。イエス・キリストの十字架によって、罪を赦された人は永遠のいのちをいただけるという「福音」を、私は単純に信じることができた。「イエスさまを信じたら、死んでも死なない」という信仰である。病気がちで、天井を仰いでは天井板の模様やしみを見て、時間の経つのを待つばかりの時、死の恐怖があったと記憶している。その恐れと不安は、キリストを信じること、また祈ることによって取り除かれた。その信仰の理解は、年齢が進むにつれて深められ、天地を造られた神がおられ、その神が私を生かしていて下さると分かるようになった。
3、造り主なる神、創造者である神を、ほとんど何も疑うことなく信じて歩むことができたのは、一体どうしてだろうかと、よくよく思い返すことがある。学校の教科書は「進化論」なのに、聖書は「創造論」なので、戸惑うことはなかったかと問われることがある。私自身は案外冷静だったかな・・・と思い出す。進化論によると、あらゆる生物は、「単純なものから、より複雑なものへと進化した」と言われ、なるほど、と多くの人が納得しても、疑り深い私は、進化の過程のほとんど全ての生き物が、今、同時に生きている事実は、聖書の創世記に記されている通りと、かえって聖書を信頼することになった。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」この言葉は本当だ!創造主を知ることこそ、あらゆる知識や知恵の源であると確信できた。その確信をもとに、18歳の春に洗礼を受けることが導かれた。はっきりイエス・キリストを信じますと、信仰を言い表す祈りをしたのは中学生の時であった。それから数年、洗礼を受けるまで時間がかかったのは何故なのか、神はどうして、そのように私を導かれたのか、いろいろ考えてしまう。その数年の間に、喜んで教会に行けない時があった。確信が揺らぐことはなかったが、フラフラしていたのは事実である。そのような時、神は私のために、クリスチャンの友人を備え、私が信仰から離れないよう手を差し伸べていて下さった。それは驚くべき神の御手の守りである。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また、「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)「わざわいの日が来ないうちに・・・」とは、人の一生の内には、必ず、生きる意欲や喜びを見失う時のあること、そのような時の来ることが暗示されている。だから、今という時、今、いろいろ考え、行動を起こせる「あなたの若い日」にこそ、「あなたの創造者を覚えよ」と命じられている。この勧めに従い、創造主を知って生きるなら、私たちに大きな喜び、また幸いを約束してくれると、私自身の経験によって私自身が励まされている。

結び  まだ物心つく前、幼い時にイエス・キリストを信じ、また創造主である神がおられると知って歩むように導かれたことは、私にとって大きな喜びがあった。言い方を変えるなら、何よりの安心であった。生きることは、思いのほか大変なことである。病気がちであることは、いつも死に直結している感じがしたもので、いのちは神さまのもの、との理解は安心の根拠であった。しかも、その安心の根拠に、罪の赦しがあるので、創造主を知って、その神が遣わして下さった救い主キリストを信じて歩みたいと、心から思うようになった。私には、自分の信仰を振り返る時、いくつかの賛美歌が心に響いている。原点となるのは、字のない本の歌である。「@ わが心は 罪にまみれ、墨のごとく 黒きときに、主はわがため 死にたまいて、その血をもて 清めたもう。 A わが心の 罪は去りて、雪のごとく 白くせらる、こがねの道を 主イエスととも 歩ませたもう そのみ恵み。」(救いの聖歌集3番)
 もう一つは、信仰告白の祈りをした時、その頃、その教会で盛んに歌われていた賛美歌である。「@ ああうれし、わが身も 主のものとなりけり。うき世だにさながら、あまつ世のここちす。 ※うたわでやあるべき、救われし身のさち、たたえでやあるべき、み救いのかしこさ。A のこりなくみむねに まかせたるこころに、えもいえずたえなる まぼろしを見るかな。 B むねのなみおさまり、こころいとしずけし。 われもなく、世もなく、ただ主のみいませり。」(讃美歌529番)この賛美歌の響きは格別であった。「うき世だにさながら、あまつ世のここちす。」
 それともう一曲。「@ ああ主のひとみ、まなざしよ、きよきみまえを 去りゆきし 富める若人 見つめつつ、なげくはたれぞ、主ならずや。 A ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を いなみたる よわきペテロを かえりみて、ゆるすはたれぞ、主ならずや。 B ああ主のひとみ、まなざしよ、うたがいまどう トマスにも、み傷しめして「信ぜよ」と、のらすはたれぞ、主ならずや。 C きのうもきょうも かわりなく、血しおしたたる み手をのべ、「友よ、かえれ」と まねきつつ 待てるはだれぞ、主ならずや。」(讃美歌243番)主イエスは、今日も、今、御手を伸べて、私たちを信仰へと招いて下さっていることを、しっかり心に留めることができるように!!