『第三部 感謝について:十戒について 第43主日
問112 第九戒では、何が求められていますか。
答 わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、
誰の言葉も曲げず、陰口や中傷をする者にならず、
誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。
かえって、あらゆる嘘やごまかしを、
悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、
裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、
正直に語りまた告白すること。
さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを
わたしの力の限り守り促進する、ということです。
第九戒は「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」(出エジプト20:16)である。文語訳は「汝その隣人(となり)に対して虚妄(いつわり)の證據(あかし)をたつるなかれ」、新改訳2017では、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と、偽りの証言が戒められるのは、隣人に対してのこと、隣人の尊厳が侵されることないようにとの視点からである。第八戒が、隣人の生活を尊ぶ視点があったのに加えて、隣人の目に見えない人格そのものを心から尊んでいるか、そのことを問う戒めと考えられる。実際のところ、第九戒を子どもたちに教えようとすると、「嘘を言わないように」と語ることになるが、私たち人間は、いつでも自分中心となり、自分を守るために、ついつい「嘘」に頼ることが多いからである。しかし、本当の意味で「嘘を遠ざける」のは、隣人を愛することにこそ心を配るように、と十戒は教えてくれている。今朝も信仰問答を通して学びが導かれるように。
1、それにしても「嘘」や「偽り」、また「ごまかし」が世に満ちてしまったと実感する、この地上の日々である。日本が特に酷いのか、世界中で同じようなのか、いたたまれない位の実情がある。(※「ご飯論法」というものがあるとのこと。国会の委員会などの質疑応答において、今朝、ご飯を食べましたか、と質問された時、食べていません、と答えて、質問をはぐらかすことが横行している現実がある。パンは食べたが、ご飯は食べていない、と答えて、本当のことは言わずに、はぐらかしてしまう作戦とのこと。)私たちは、全てのことを見ておられ、私たちが語る言葉の全てを聞いておられる神がおられると信じている。その神が、第九戒によって、私たちに求めておられることは何か、それは次のことである。「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉も曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。」誰かのことで証言する機会とは、公的な裁判の席であったり、私的なことでは、何らかの問い合わせに答える時が考えられる。けれども、実際に改まった形で証言する機会は、それほど多くはなく、むしろ、日常生活において、その場にいない人のことが話題になる時など、そのような時こそ、この戒めを思い出すことが大事と痛感する。私たち一人一人が神の前に尊い存在であるということは、その場にいない隣人もまた、神の前に尊い一人であって、その人の信用や名誉を、軽々しく損なうことは慎まねばならないことである。
2、「偽りの証言」ということで、心から離れないのは、公の裁判において「冤罪」が避けられないことがある。聖書の中では、エジプトで牢にいれられたヨセフの例があり、主イエスは、神のご計画であったにせよ、偽証によって十字架刑へと引き渡されている。私たちが心すべきは、自分が語る言葉を真実なものとすることにある。主イエスの教えは、「偽りの誓い」を戒めつつ、私たちが、自分の語る言葉をどれだけ真実なものとするのか、そのことに目を留めよ、と命じている。(33〜37節)信仰問答も触れている。「かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。」「あらゆる嘘やごまかし」は、悪魔の業そのものである。私たちは、そこまで自覚しているだろうか。故意に隣人を貶めようとしていなくても、自己弁護するあまり、正直に語ってはいないことがあるのではないだろうか。真実な神は、そのような言葉を決して良しとはされない。嘘やごまかしを遠ざけること、真理を愛し、正直に語り、また告白することを望んでおられるからである。
3、その上で、「 さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する、ということです」と言われること、「隣人の栄誉と威信」のために、最善を尽くすことが求められている。これは、他の人のことを「隣人」として、心から受け入れ、尊重し、愛をもって赦し合うことがなければ、とてもできないことである。すなわち、自分自身が、主イエスの十字架の御業のゆえに、罪を赦され、神との親しい交わりの中に入れられている幸いを、心ら喜び、感謝の内にいるかどうかが問われることになる。恵みによる救いを、本当に理解して、喜びの内にあるだろうか。また感謝に溢れているだろうか。先週の聖書個所の最後に、「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と言われていたことは、第九戒の教えにも通じている。(ルカ6:37)語る時には、人の徳を高める言葉を発すること、人を裁くのは、ただ一人、生ける真の神のみと心して、私たちは、「隣人の栄誉と威信」とを、「力の限り守り促進する」ことに努めるべきなのである。(エペソ4:29-32、コロサイ3:12-17、ペテロ第一3:8-9)
<結び> 私たちが日常生活において語る言葉に注意を払い、隣人を尊び、その栄誉と威信を決して傷つけることなく話すには、一体何を、どのように気をつければよいのだろうか。「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。・・・舌を制御することは、だれにもできません。・・・」とも言われている。その私たちの舌を制御して下さるのは、生ける真の神のみであり、聖霊によって導かれることが、私たちには必要である。聖霊によって、確かに導かれるのは、主イエスの教えに従うこと、イエスの歩まれたように私たちも歩むことよってである。「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上は悪いことです。」(37節)このように言われた主イエスは、十字架の前に不当な取り調べを受けた時、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」それは、私たちの罪をその身に負われるためで、私たちが罪を離れ、義に生きるためであった。(ペテロ第一2:23-24) 主イエスに倣って、偽りを捨てること、嘘やごまかしを遠ざけて生きることを導かれたい。私たちも、必ず守られ、支えられることを信じて。
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