<今日の要点>
@隣人を覚えてとりなしの祈りを捧げましょう。
?導かれたら、信仰をもって従いましょう。
?信仰の従順を通して勝利にあずかったら、すべての栄光は神にお返ししましょう。
では、今日の所に入りますが、まずは文脈から押えておきましょう。
<文脈>
生まれ故郷をいっしょに出て、これまで行動を共にしてきたアブラム夫妻と甥っ子のロトだったが、カナンの地のベテルまで来た時、お互いの家畜が増えすぎて一緒に暮らすには狭くなり、トラブルが起るようになったため、ついに分かれて別々の所に住むこととなった。寛大なアブラムは、ロトに好きな場所を選ばせ、ロトは低地でよく潤ったソドムの近くに住むことを選んだ。アブラムは高地にあるヘブロンに住んだ。幼い頃からかわいがってきた甥っ子ロトの後ろ姿を心配そうにながめるアブラムの心には、自然とロトのためのとりなりの祈りがわいていたことだろう。というのも、ソドムは物質的には豊かであったが、道徳的には非常に堕落した町だったからである。そんなある日、大国とその連合軍がソドム一帯を襲撃し、ロトたちも捕らえられた。アブラムの心配は現実となった。その時、アブラムは、、、。
<1 隣人を覚えてとりなしの祈りを捧げましょう>
@とりなしは、聖書の義人の特徴:イエス様にもっとも似た姿
アブラムは、ロトのことを覚えて祈っていた。ロトの方はひと山当てることで頭がいっぱい、年老いたアブラム夫妻の事など忘れていたとしても、そんなロトのために(そんなロトだからこそなおさら)とりなしの祈りを捧げていたに違いない。
聖書の言う義人は、隣人のためにとりなすという事が、一つの共通した特徴のようである。義人ヨブも家族のために全焼のいけにえをささげ、助けが必要な人のために骨折っている姿が記されている。(ヨブ1:5、29:12-17等)。これらの高貴な姿のもとは、キリストにある。生ける神の御子キリストは、私たちを神の御怒りーそれは気まぐれな人間の不条理な怒りではなく、悪に対して正義が要求して決して妥協する事のない怒りであるーから救うために、天を蹴って世に下り、人間の姿を取って下さり、信じるすべての人の身代わりとなって、十字架上で刑罰を受けて下さった。そして三日目に死者の中から復活された。そのゆえに、私たちは罪をまったく赦され、神の子とされ、永遠のいのちを与えられたのである。さもなければ、永遠の滅びに落ちる運命だったのである。
隣人のために、気にかかる人のために、まず神の御前にとりなしの祈りを捧げる者であるように。また、教会の兄弟姉妹のためにとりなしの祈りを捧げよう。お互いにとりなしの祈りを捧げ合う群れほど、主の御目にうるわしいものはないだろう。またそれは、サタンにつけいる隙を与えない最強の防御でもある。意見の違う人、感性の違う人、境遇が違う人、いろいろな人が集まるのが教会である。それらの人々はみな、神が呼び集めたのである。たとえ自分とはいろんな面で違う人がいたとしても、それはそれとして置いておいて、まずは同じキリストの尊い血潮にあずかっている兄弟姉妹としてお互いに尊びあい、とりなしの祈りを捧げ合うべきである。教会は神の教会、神のものなのである。
さて、それでは本文に入りますが、最初に1-11節は飛ばして、12節を先に読みましょう。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
A心配が現実に?:悪にひきずりこまれるロト
12節の最後に「ロトはソドムに住んでいた。」とある。13:12ではロトは「ソドムの近くまで天幕を張った。」とあった。「近く」という事は、中には住んでいなかったのが、ここではソドムに住んでいた、すなわちソドムの中に住んでいた。最初はソドムの町の中には入らなかったが、徐々に引き込まれて、その中に入ってしまった。物理的な引力も罪の引力も、距離が近いほど力が強力になるのだろう。13:13に「ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と記されるほどの悪のるつぼに、ロトは取り込まれてしまったのである。その結果、ソドムの人々と運命を共にする事になってしまった。
Bロトの身に危険が。
そんな状況のロトだったわけですが、改めてこの時に何が起こったのか、1-12節に書いてあるんですが、簡単に言えば、ロトが住んでいたソドムやゴモラなどの王たちは、エラム(今日のイランのあたり)の王ケドルラオメルに12年間、貢ぎを納め仕えていたが13年目に背いたため、14年目に近隣の王たちと組んで4人の王たちからなる連合軍が攻めに来て、ソドムの王たち5名からなる連合軍と一戦を交えたというのである。シティムの谷(後の塩の海)で決戦となったものの、罪に酔いしれていたソドムやゴモラなどに、町の人々を守ろうというだけの気概も能力もなく、あっけなく蹴散らされて、瀝青(天然アスファルト)を掘削した穴に落ち込むやら、逃げ隠れるやらで、その町の人々も財産も根こそぎ奪われてしまったのである。そしてその戦利品として捕虜とされた人々の中にロトの姿もあったのである。
さて、ロトの運命やいかに?自業自得と見放されたのか、というと、そうではありませんでした。アブラムの執り成しの祈りが聞かれていたんでしょう。ここに神様が介入されて、アブラムを用いてロトを助け出されます。13-14節。
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。
<2 導かれたら、信仰をもって従いましょう>
@ロトの危機を知らされる:ひとりの逃亡者を通して
ロトが捕虜となってケドルラオメル軍に連れ去られた、との知らせはすぐにアブラムに届けられた。これも不思議な神の導きである。携帯はおろか、固定電話もない時代。神様は一人の逃亡者を起こされて、アブラムに知らせたというんです。ですから、ロトを知っている人、もしかしたらロトのしもべだったかもしれない、そしてアブラムの事も知っている人が、うまく逃亡する事ができて、そしてロトが捕らわれた事をアブラムに知らせに来てくれた。日頃、ロトのために祈っていたアブラムの祈りに神が応えて下さったのだろうか。とりなしの祈りをしていると、不思議とこういう導きが与えられる事がある。
A信仰をもって行う:勇気と知恵とをもって
この知らせを受けたアブラムは即座に対応した。盟約を結んでたマムレとその兄弟たちに援軍を要請し、自分のしもべたち、日ごろ訓練が行き届いていたのでしょう、すぐさま召集して、ケドルラオメル軍を追跡しました。ここで迷ったり、モタモタしていたら、ケドルラオメル軍に連れ去られてしまっていたかもしれない。こうしてすぐさま、即座に行動に移れたのも、日頃、ロトのために祈っていたから、迷いなくすぐに行動できたのかもしれない。
ある教会の兄弟が、毎日、100人以上いる教会の兄弟姉妹、全員のために祈っているという。それを聞いたそこの牧師と副牧師は、「これではどちらが牧師かわからないなあ」と顔を見合わせたが、話を聞いてみると、こうやって祈っていると、いざ突然、誰かが相談に来たりした時にも、どう答えたらいいか、わかるのだという。もちろん、わからない時もあるだろうが、ひとりひとりの事を覚えて祈る事には、こういう効果もあるのは確かである。
ところでアブラムは生来、思慮深く、慎重なタイプであった。慎重でありつつ、勇気もある人物だったのかもしれないが、人間的に見るならばそこには戦うのは無謀とも言える戦力の差があった。かたや4つの国からなる連合軍、ソドムなど5つの国からなる連合軍をこともなげに打ち破って勢いに乗っている。かたや言うならば地方豪族のようなもの。普通に考えれば、無茶であった。なので、宗教改革者のカルヴァンという人は、この時、アブラムは聖霊によって鼓舞されて、立ち上がったのだろうと注釈している。普段の自分には考えられないような事をして、後で振り返って、よくあんなことができたなあ、、と思うような事は、ないだろうか。主が導いておられると思ったら、勇気を出して一歩、踏み出すという事が必要である。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(ピリピ2:13-14)自分なんか、、、と思っても主が導いておられるなら、従ってみる。主は弱い者をも強くされる。主が私たちに求めておられるのはability(?A?r???e?B)ability(能力)でなくavailability(?A?”?F?C?‰?r???e?B)availability(どうぞ、いつでも何の御用にでも、お使い下さいと自分を主におささげする事。いつでも主がお使いになれる状態であること)と言う。そんな信仰の従順を学びたい。
ところで、アブラムは信仰によって奮い立ったとはいえ、まったく何も考えなしだったわけではない事が、ここのところから読み取ることができる。彼は地元の有力者であろうマムレとその兄弟たちと盟約を結んでいた(13節)。孤立状態はそれだけで標的になりやすい。平和を保つためにも盟約を組んでおくことが必要だった。また盟約を組むには、相手が誰でもいいというわけではないが、マムレという人物はソドムから離れて高地に住んでいた所を見ると、ソドムのようなあり方からは一線を画していた人物だったのだろう。またアブラムは、日頃から自分のしもべたちにも訓練を施していて、イザという時にはすぐさまアブラムの号令に従って行動できる規律と力があった(14節)。
そんな日ごろから備えをしていたアブラムは、夜陰に乗じて奇襲攻撃をかけます。15-16節。
14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
精鋭揃いのアブラム軍とはいえ、戦力のスケールからしたら、普通に戦ってはケドルラオメル軍に到底太刀打ちできないほどの差があったでしょう。とすれば勝機は、夜襲しかない(15節)。ケドルラオメル軍が戦いに疲れて、もう誰も追いかけては来ないだろうと油断していた所に、夜陰に紛れて急襲。延びきったその脇腹にかみついて、奪われていた人々を奪回する事ができた。
こうしてアブラムは見事に、ケドルラオメル軍に捕らえられた甥っ子のロトとその他人々、それに財産を取り返す事ができた。ソドム、ゴモラの人々は、ロトのおかげで、アブラムの救いにあずかった(16節)。
アブラムは、信仰さえあればあとは何もしなくていい、というタイプではなく、日頃からリスクに対してできる備えはぬかりなくしており、いざ戦いにあたっても冷静に知恵をもちいて臨んだ。信仰と知恵、思慮深さのバランスも身に着けたい。
<3 すべての栄光は神に:勝利はただ主による>
アブラムが凱旋した時に、二人の王が出迎えた。一人は、ソドムの王、他の一人はシャレム(平和の意。後のエルサレム)の王メルキゼデクである。
14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
14:18 さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
メルキゼデクは、「いと高き神の祭司であった」とあります。真の神に仕える祭司でもあったということです(18節)。ちなみに、メルキゼデクという名前のメルキが王、ゼデクが義。義の王、正義の王という意味です。彼は王としても、義をもって治める事をよしとしていたのでしょう。彼はキリストを象徴しているとも言われる。18節にはパンとぶどう酒を持ってきたとあるが、これは今日もこのあともたれる聖餐式で用いるもの、キリストの裂かれた肉と流された血をあらわすものとされた。このメルキゼデクは、アブラムを祝福しました。19-20節
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。
14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
@すべての栄光は、神にのみ!:勝利はただ主による
このメルキゼデクは、アブラムではなく、アブラムに勝利を与えた「いと高き神」をほめたたえた(20節)。アブラムもまた、それで何の不満もなく、感謝と誉れを主にのみ帰した。そして感謝と礼拝のあらわれとして、すべての持ち物の十分の一を捧げた。確かに戦ったのはアブラムである。しかし勝利は常に主による。
旧約聖書の伝道者の書という所におもしろいみ言葉がある。「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、・・・」(伝道者の書9:11)。普通は競争は、足の速い人が勝つし、戦いも普通は勇士が勝つのである。しかし必ずそうかと言うと、そうでもない。
2002年ソルトレークシティオリンピックでショートトラック1000mに出場した、ブラッドバリーという人がいた。彼は、準々決勝で最下位で走っていたのが、前の選手が転倒したり失格になったりして準決勝に進んだ。が準決勝でも終始最下位で走っていたが、最後の半周、ゴール直前で次々と3人が転倒して、2位でゴール。さらにその後審判団の協議で1位ゴールした人が反則で失格となって彼は1位で決勝進出した。さて、今度は決勝。準決勝の時よりも先頭集団から大きく遅れを取って終盤まできたが、またしても、ゴール直前の最終コーナーで前を走っていた全員4人の選手が接触して次々と転倒したため、ひとり、先頭集団について行けなくて離れて滑ってきたブラッドバリーだけが難を逃れて1位でゴール。転倒した二人の選手はいち早く体勢を立て直したものの、脇を悠然とすり抜けるブラッドバリーには追いつけずスライディングで足からゴールして2位・3位に終わったとの事。「競争は、足の速い人のものでなく」勝利は主の御手にあるという事を改めて知らしめる出来事ではないだろうか。勝負は下駄をはくまでわからない。捨てたもんではありません。
アブラムは、勝利が自分の日ごろの祈りや備えの賜物だとか、勇敢にいのちをかけて戦った自分の功績を誇るのでなく、勝利を与えたもう主なる神に、いっさいの栄光をお帰ししました。私たちも信仰の従順を通して主が勝利を与えられた時、いっさいの栄光を主にお返しする者でありたい。
Bソドムの王にはノー!:ただし良識的な分別も忘れずに。
さて、もう一人の王、ソドムの王のほうはというと、こちらは読みませんが、すべてが終わってから、のこのこと出てきて、恩着せがましく人々だけ自分に返してくれれば、財産はすべてお前にやると言わんばかりの態度だった。しかしアブラムはソドムの王の申し出に対してキッパリと断った。「私は、天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」と。あとからこういう事を言いそうな人物なのだろう。その時はいい事を言っても、あとで何を言うかわからない、信用できない人物。
いっさいを与えておられるのは、天地を造られた神。このお方にのみ、栄光を帰するというアブラムのいさぎよさ。気高さ。このすがすがしさも印象的である。どんな貪欲にも注意せよ、との主イエスの警告の言葉も聞こえてくる(ルカ12:15)。
ただし若者たちが食べてしまったもの、また自分と盟約を結んでいた人々に関しては、別。盟約を結んだマムレたちには相応の分け前を与えるように。と付け足す事も忘れない。自分に関してはいっさい無用だが、自分は自分、人は人。人の報酬を得る権利まで奪ってしまわないよう、良識をわきまえてもいるアブラムの姿も垣間見られる。信仰と常識、良識のバランスも大切である。
<結び まずとりなしの祈りを:伝道集会をひかえて>
アブラムは、離ればなれになったロトを覚えて祈っていた。その祈りに応えるようにして、主はひとりの逃亡者を備えてアブラムにロトの危機を知らせ、アブラムは日頃の祈りの備えと実際的な備えがあって、すぐさま行動する事ができた。その信仰の従順を主が用いて、ロトたちを強力なケドルラオメル軍の手から取り返させてくださった。そんな場面を見た。今日覚えたいことはまずは、執り成しの祈りを捧げる者であるように、という事。伝道集会をひかえて、私たちも心に覚えるあの人この人のために祈りを捧げる者でありたい。そして主の導きに従って、声をかけるとか、手紙を書くとか、行動を起こしたい。そして主の御業をみさせていただき、主に感謝と賛美をおささげする幸いにあずからせていただきたい。
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