礼拝説教要旨(2019.09.22)  
汝、盗むなかれ  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:110〜111
(ルカ 6:27〜38) 柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:十戒について               第42主日

問110 第八戒で、神は何を禁じておられますか。
答  神は権威者が罰するような
    盗みや略奪を禁じておられるのみならず、
    暴力によって、
    または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、
    利息のような合法的な見せかけによって、
    あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、
    わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとする
    あらゆる邪悪な行為また企てをも、
    盗みと呼ばれるのです。
   さらに、あらゆる貪欲や
    神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。
問111 それでは、この戒めで、神は何をあなたに命じておられるのですか。
答  わたしが、自分になしうる限り、
    わたしの隣人の利益を促進し、
    わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、
    わたしが誠実に働いて、
    困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。

 「十戒」の第八戒も、「汝、盗むなかれ」(文語訳)と明解である。新改訳聖書は「盗んではならない」(出エジプト20:15)と訳す、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」に続く、隣人との関係における戒めである。神が一人一人を尊い存在として覚えて下さっている事実を踏まえていても、私たち人間の日々の生活においては、実に様々な問題が次々と迫ってくる。人の命を尊び、隣人を心から愛して生きることが大事と分かっていながら、ちょっとした事柄で人と人との良い関係が壊れ、争いさえ起きてしまう。今日、人間関係の破綻に止まらず、国と国の関係も壊れ、世界中が緊張に包まれる状況である。私たちはしっかりと、「十戒」を心に刻んで歩むことの尊さを思い知らされる。第八戒では、どんなことが禁じられているのか、問答110〜111は答を明らかにしてくれる。

1、「十戒」の後半は、「隣人を愛しなさい」という「隣人愛」に関わるものである。「禁止命令」の形が続いているが、禁じられていることを守れば「良し」でなく、むしろ、第六戒は、積極的に「命を尊ぶこと」、第七戒は、「結婚の神聖さを覚えること」が求められていた。第八戒も、同じように「盗み」を禁じつつ、隣人の益のために生きることこそ、この戒めの目指すところである。けれども、そのことを見失う位に、今日の社会は複雑なものになっている。「盗み」そのものが巧妙になり、本来、神が良いものとして私たち人間に備えて下さった生活が、知らず知らずの間に蝕まれてしまい、富の不平等がまかり通っている。日本でも格差が広まり、世界中のどこの国でも、「貧困」が大きな問題となっている。「盗んではならない」という第八戒は、全人類に関わる戒めであり、私たち自身の生き方を問う戒めである。今一度、自分の生活を省みて、神が求めておられること、そして禁じておられることは何かを、よくよく心に留めることができるように。先ずは次の言葉を覚えたい。「神は人を創造された時にエデンの園を設け「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ」られました(創世2:9)。見るからに食欲を殺ぐような味も素っ気もないものではなく、心も体も喜ぶようなものを神は用意してくださったのです。神によって備えられた生活を喜び楽しむことは、人間に与えられた特権です(1テモテ4:4)。「盗んではならない」という第八戒は、そのように神が一人一人に備えておられる生活を侵すことです。したがって「盗み」は、単に隣人の生活を物質的・精神的に損なうだけでなく、その人に注がれた神の恵みへの侵害なのです。」(※吉田隆師:「ハイデルベルグ信仰問答」の学びより)

2、「神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず、暴力によって、または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって、あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。さらに、あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。」このように信仰問答110は明言する。この世には、ありとあらゆる不正があり、ごまかしによって利益を上げようとする企てがある。利息さえ合法のようで、過払いが発生している。詐欺被害にあわないようにと、毎日のように警告されていても、次々と新手が出て来る。その中で、私自身の生き方はどうか・・・が問われる。私たちの課題は、自分では直接関わっていなくても、間接的に、富の不平等に加担したり、貧困の原因を作ったりしていないか、そのような心遣いが大切ということである。不正なことはしていなくても、「あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます」と言われていることを心に留め、神に良しとされる生き方を実践することである。それには、主イエスの教えに従うこと、それが一番となる。(27節以下)

3、主イエスの教えを覚えながら、問答111に耳を傾けたい。問「 それでは、この戒めで、神は何をあなたに命じておられるのですか。」答「わたしが、自分になしうる限り、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。」この答えは、主イエスの教えから導き出されている。「・・・すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはなりません。自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。・・・」(・・・30〜32節・・・)私たちは自ら誠実に働きつつ、「困窮の中にいる貧しい人々を助けること」をどれだけ心に留めているだろうか・・・と、反省させられる。「わたしが、自分になしうる限り、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い」との前段も同様である。他の人の益を第一とする生き方、その生き方を主イエスに倣ってするには、なお一層、主に従う他に、道が開かれるのは難しい。しかし、だからこそ主イエス・キリストを仰ぎ見て、この方に従うことを祈らされる。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(36節)この教えに従えますように・・・と。

<結び> この世に「富の不平等」があることについて、無関心のまま通り過ぎることのないよう自戒したい。今日、この日本で「自己責任論」が幅を利かせている。しかし、この風潮には、注意が必要と思う。貧困の背後に不正があり、多くの人の犠牲の上に、一部の富める者の繁栄があるのは、世界で自明のことと認識されている。私たちは主イエス・キリストにあって、罪を赦され、永遠のいのちを与えられ、神の恵みの内を生きる者とされた。そのキリストに倣う者とされた私たちは、キリストが歩まれたように歩むことが求められている。私たちも、他の人の益のために、与える者となって生きること、自分中心でなく、困難の中にある人のために仕えることを喜べるように。そのようにして神に栄光を帰すことができる者とされるように。この祈りを真剣にささげることが導かれるように。十字架の主、イエス・キリストをいつも仰ぎ見て今週も歩めるように。(ピリピ2:6-8、Uコリント8:9)