『第三部 感謝について:十戒について 第39主日
問104 第五戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしがわたしの父や母、
またすべてわたしの上に立てられた人々に、
あらゆる敬意と愛と誠実を示し、
すべてのよい教えや懲らしめには
ふさわしい従順をもって服従し、
彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。
なぜなら、神は彼らの手を通して、
わたしたちを治めようとなさるからです。
「十戒」の第五戒は明解である。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト記20:12)これは、十戒の前半、「わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきか」の教えと、後半の「わたしたちが自分の隣人に対してどのような義務を負っているか」の教えをつなぐ、大切な戒めである。前半は「神を愛せよ」との戒め、後半は「隣人を愛せよ」との戒めとまとめられることがある。どのようなまとめ方をしても、二つは第五戒によってつながれている。すなわち、私たちのこの世での生活の全てが、神にあって成り立っているのであって、他の人々との関係も、神にあって成り立っている。この事実を決して見失ってはならない。全ての人にとって、先ず、神との関係を見出し、その関係を正された上で、他の人々との関係があると知ることが大事である。
1、神がモーセを通して、十戒をご自分の民に告げられた時、この戒めを守るなら、「あなたがたを祝福しよう」と仰せられたわけでなかった。エジプト脱出という救いに与った民に向かって、神ご自身との幸いな交わりの中を歩むよう、戒めを告げておられた。第五戒の後半部分、「あなたの神、主があたえようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」は、祝福の約束と言うより、祝福の再確認である。神の民としての祝福が、一層長く続くため・・・と。問答104は、父母だけでなく、私たちがこの世で経験する人間の縦の関係について、「神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさる」と言う。「あなたの父と母を敬え」には、「またすべてわたしの上に立てられた人々に」と言って、「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」ことまで含まれていると説く。両親を敬うこと、両親に従うこと、こうした教えがなぜ大事なのか、また厳しく教えられねばならないのか。それは、神が人を造られた時、男と女に造られて、この二人から子どもが生まれるという定め、秩序を定められたからである。この秩序を通して、人は両親への敬意と従順を学ぶだけでなく、神への敬意と従順を学ぶように、神が定められたのである。(1〜3節)
2、けれども、私たちが住むこの地上の社会は、親がいて子どもがいるだけで成り立っているわけではない。社会の秩序を保つために、様々な制度があり、神によって立てられた権威が存在する。神の民がこの世にあって、どのように生きるのか、その時々によって、様々な経験を積み重ねて歴史を刻んでいる。私たちが「あなたの父と母を敬え」との戒めを思い返す時、生まれる前から、神の永遠のご計画の中にあって、今、この地上にあって生かされている恵みを感謝しつつ、この社会の中で、多くの人の見守りや助けのあることを忘れてはならない。「すべてわたしの上に立てられた人々に・・・」とは、私たちの人生には、実に数えきれない位の多くの人の支えがあって今があること、この地上の社会の成り立ちの不思議をも、神を信じて受け入れ、感謝することの大切さを教えてくれる。私たち一人一人が、「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従」すべきは、両親にだけでなく、この社会にあって多くの人に対してのことである。その時、私たちは、ただ服従を強いられているのでなく、「彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」との意味を、しっかり心に留めることを忘れてはならない。完全で、模範的な親だから、また模範的な主人だからではなく、神がこの戒めを守るように願っておられることを知って、心から従うことが大事となる。パウロが語る教えには、そのような視点が含まれている。(1、4〜9節)
3、「子どもは自分で親を選べません。すでに生まれる前から、神の不思議な導きと配剤によって備えられています。それ故、両親への敬意と従順とは、そのような神の摂理に対する敬意と従順に他ならないのです。」(吉田隆師「ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び」問104)「私たちは両親を愛すること、敬うことを通して、神を愛すること、敬うことを学ぶのです。また私たちは両親から愛されることを通して、神さまから愛されていることを知るのです。・・・」(ダビデ・マーチン師)この二つの言葉は、第五戒を理解する大切なカギを教えてくれる。天地を造られた神がおられ、私たちがいること、生かされていることの理解は、何事を考えるにも、大事な出発点である。哺乳類の中で、生まれてから歩けるようになるのに一年もかかるのは人間だけと言われる。しかも大人になるのに時間がかかる人間は、それだけ他の人との関わりなしには生きられない、そんな存在と気づかされる。だからこそ、命の始まりに目を向け、両親への敬意と従順を尊ぶことによって、神がおられ、神が一切を支配しておられることを知り、神への信頼を深めることを学ぶなら、神への敬意と従順を一層増し加えられるのである。私たちが生かされているのは、私たちが心から神の御手の守りを信じ、また感謝して生きるためである。そのことを見失わないよう、この第五戒を心に留め、日々の歩みを続けることができるように。
<結び> 最後にもう一度。私たちが、自分のこととしてこの第五戒を心に刻もうとすると、先ずは皆、子どもの立場で思い巡らすに違いない。自分にもう親はいないとか、親に対して、素直な気持ちを抱く人もいれば、素直になれない、と複雑な思いの人もいるかもしれない。「上に立てられた人々」にまで広げて考えると、一層、心が騒ぐ人がいるに違いない。時には苦い思いがよみがえったり、私たち人間の心の中は実に複雑である。信仰のことで両親とぶつかることがあり、この世の権威とぶつかることも、時に避けられない。「彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」との指摘を、神からの教えと聞くことが必要となる。何事においても、神への信頼と服従が、一層大事と心したい。パウロは、「子どもたちよ。主にあって両親に従いまさい。これは正しいことだからです」と言い、また「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と言った。奴隷たちには「キリストに従うように・・・地上の主人に従いなさい」と命じた。主人たちにも、主に従う者としての振舞いを命じた。子どもの立場でも、親の立場でも、どんな立場であっても、私たちは主に従うことを基本として生きるよう求められている。イエス・キリストを救い主と信じ、戒めを心に刻み、キリストに倣って生きることが、何よりも大事となる。キリストの十字架の御業に現わされた神の愛に触れる時、私たちの生き方の模範がそこにあると知るからである。(※ピリピ2:1-8)
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