<序 1節 世界にたくさんの言葉がある理由は?>
前回の10章では、たとえば5節などに、それぞれの氏族ごとに、それぞれの国々の国語があったと、当然のように書かれていました。が、(お気づきの方はおられるでしょうか)考えてみれば、どうしていろいろな言葉ができたのか、疑問に思う方もおられたかもしれません。というのは、元々、神が最初に造った人間はアダムとエバで、彼らの間で通じる言葉を話していたはずです。それを仮にアダム語としておきましょう。やがて子どもが生まれて子孫が増えても、当然、彼らはアダム語を使っていたはず。ノア一家も、その同じアダム語を話していたし、洪水の後も三人の息子たちも同じアダム語を話していたはずです。それがどうして、いつから、国ごとにいろんな言葉に分かれたのか、その疑問に答えるのがこの11章というわけです。
聖書は、その原因はバベルの塔事件だったと教えています。しかし、ここには単に言葉が分かれたいきさつというだけでなく、すべての時代の人類に向けてのメッセージも記されているようです。
では早速、読んでいきましょう。1-3節。
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
<@ 2-3節 神は人に、すばらしい能力と可能性を与えておられる。>
ここには名前は出ていませんが、バベルの塔を建てる時にリーダーシップを取ったのは、前の10:8で、最初の権力者となったと言われていたニムロデと言われています。(ノアから見てひ孫にあたります。)それまで、大洪水の後、アララテ山に漂着した後、ノア達8人は、しばらくはそのあたりに固まって住んでいたのでしょうか。何しろ、広い地球上に、人間はたった8人しかいませんでした。バラバラになるより固まって住んでいた方が心強いし、実際、助け合っていかなければ生き延びる事もできないでしょう。洪水の記憶も生々しく、少しでも高い所の方が安心な気がして、山をおりるのもためらわれたのかもしれません。しかしやがて三人の息子に子どもが生まれ、さらにその子どもが生まれ、と洪水を知らない世代が増え、また生活も落ち着いてくると、人々はより生活に便利な低地におりていったのでしょう。彼らは、シヌアル(メソポタミア地方南部から中部、今日のイランのあたり)によい平地を見つけ、定住しました。
それまでは目先の生活でいっぱいだったのが、少し余裕ができてくると、農業以外の事に関心が出てきます。彼らは建築技術の革新を起こしました。この地方は、建材になるような石がないのでレンガ。それも天日では弱いので焼き固めるという技術を発明したようです。瀝青(天然アスファルト)を接着剤として使用し、堅固な建造物ができるようになりました。高くそびえる塔を作れる技術を手に入れたのです。
また3節に「彼らは互いに言った。」とあるように、彼らはお互いに知恵を出し合い、知恵を結集して、新たな技術を生み出しました。4節でも「我々は町を建て、頂が天に届く塔を建てよう。」とみなが一致団結して、事に当たる姿が描かれています。知恵を出し合い、力をあわせる事で、良くも悪くも、人は一人では思いも寄らなかったパワーを発揮する事になります。よく言われる事だが、バラバラの100人の部隊よりも、一致団結したチームワーク抜群の10人の部隊の方が強いと言う。1たす1が2でなく、3にも4にもなる。そしてちょっと飛んで6節には「彼らがみな、一つの民、一つの言葉で、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」とさえ言われています。集団心理、群集心理というのは、良くも悪くもものすごいパワーです。いったん群衆が一つの方向に動き出すと、手が付けられず、止める事もできない巨大な力となります。
神は、人類に、とてつもなく大きな可能性を与えておられます。神は人を神に似せて、神のかたちに造られた(1:26-27)のですから、当然と言えば当然かもしれません。人間の創意工夫する力、知識や技術を習得する力、コツコツと地道に忠実に作業をする力、忍耐強く訓練し、才能を磨き上げる力、そしてそれらすべてをつなぎ合わせ、組み合わせて、一致団結する事のできる能力。これらはとても大きな力となりうるものです。
それだけに、人に与えられた責任は大きいと言えるでしょう。その大きな力を、どう使うか、です。彼らは残念な事に、間違った方向に進んでしまいました。4節。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
<A 4節 技術革新のもたらす副作用:高ぶり、傲慢。>
新しい建築技術をもって、次々と立派な建物を造り、高さを競い、誇るようになっていったのでしょうか。建物だけでなく彼らの心もズンズンと高くそそり立つようになってしまったようです。天に届く塔というのは、自分を神と等しい地位に置こうというのでしょうか。思えば、エデンの園でサタンがエバをそそのかした言葉も、その禁断の木の実を食べるその時、あなたは神のようになる、というものでした。古いユダヤの言い伝えでは、この企ての首謀者ニムロデ(その名も「我々は逆らおう」の意)は、洪水が来てもビクともしない塔を建てて、神の裁きなどもはや恐れない。やれるものならやってみろ、と挑みかかるように、この塔を建てたといいます。
「全地に散らされるといけないから」といいますのは、神が「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福された言葉に対する反逆でしょうか。神は、自分たち人間が力を結集して、神に逆らう事を恐れているから、そうさせないために、地に満ちよ、と命じているのだ、そうはさせるか、俺たちは力を合わせて、天にまで達する塔を建てて、目にもの見せてやる!と。下衆(げす)の勘ぐりとはよく言ったもので、神の祝福の言葉も、ひねくれた罪人はそのようにねじ曲げてしまう。自分が日頃、そういう魂胆を持って言っているから、他人が言う言葉もそのように自分の考えに合わせて受け取ってしまうのでしょう。
そしてこんな勇ましい事を言っているのも、その動機はというと「名をあげよう」というものです。名を挙げる。名誉心。もちろんこれも使い方次第で、全否定する必要もないだろうと思います。ほめられて伸びるタイプもいるでしょう。ただ、それが行きすぎると副作用が出てきます。こういうものは、励み程度にしておくとよいでしょうが、それが主な動機になってしまうと、間違ってしまう。極端な例ですが、ある所で、友達が川で溺れかけたので、一緒にいた女の子がすぐに大人に知らせに行って、事なきを得ました。それでその子は偉かったね、とたくさんの大人からほめられました。ところが日が経つと、誰もほめてくれなくなる。そこでその子はもう一度ほめてもらうために、わざと友達を川に突き落として、大人に知らせに行ったという、そんな話を読んだことがあります。子どもばかりではありません。大人でも、つまらぬ名誉・世間体・人からの評判のために、道を誤ってしまう事、罪を犯してしまう事があるのではないでしょうか。
人は、力がついてくると、高ぶり、傲慢になる傾向があるようです。それが人に道を誤らせる事もあります。人より高い所に身を置きたい、いや神と等しい地位にまで、、、。それは癒やしがたい、人間の魂の病である。
5-9節まで。
11:5 そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
11:6 【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
11:8 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
<B 5-9節 人の悪をも善のために転用される。>
人間が精一杯高くそびえ立つ塔を作ろうとしても、神はそれをご覧になるために、降りてこなければならなかったという、強烈な皮肉だと言われます。神はいと高き天におられ、人は地を這いつくばって生きているに過ぎない事を思わされます。地上から見れば高くそびえる富士山も、飛行機から見れば公園の砂場のお山みたいなもの。世界一高いエベレスト山(標高8,848m)も、地球全体から見ればなきに等しいものです。たとえば直径1mのボールを地球とすると、エベレスト山の高さはわずか0.7mmにも満たないのです。誤差の範囲のようなもの。気の遠くなるような宇宙を造り、今も治めておられる神の偉大さの前に、人はへりくだらなければいけません。
神は、最終的な裁きをせざるを得ない所まで行き着く前に、先手を打ちました。力尽くで滅ぼしてしまうのでなく、言葉を混乱させるという事によって、彼らの企みをくじいたのです。この事によって、当初のご計画通り、人々を全地に散らす事にもなりました。そして散らされた先で、時代とともにさまざまな文化、文明が花開くようになります。いろんな民族が個性をはぐくみ、バラエティに富んだ世界になりました。。
このように、神は、人間の悪や失敗をも良い事のために転用されるというのは、聖書を貫く一つのテーマであるように思います。この後ヨセフ物語というのが創世記の後半で出てきますが、そこではより明確に、人間の企てた悪をも、神は良いことのために用いられる事が記されています。
そしてその最たるものが、十字架です。人間が神の御子を十字架につけてしまったという最悪の事態も、神様は、人間の救いのために用いられました。私たちの人生の後悔、あんなことをしなければ良かった、ああしておけば良かった、最悪と思われる事がある方も、もしかしたらおられるかもしれない。しかしそれも、神の大きなご計画の中にある事を思いたい。そんな事、信じられないと思っても、神の知恵は私たちの思いを遙かに超えている。自分のちっぽけな頭で考えられないからと言って、神の知恵まで否定してしまうのでなく、へりくだって、全宇宙の造り主であり、今も全宇宙を統べ治めておられるお方を信じ、信頼するという態度を保ちたいものです。
<結び へりくだりにおいて愛を示された神を思って。>
以上、一通り見てきましたが、読み返して印象に残るのは、やはり天にまで届く塔を建てようとした人間の姿です。この塔が、人間の自我のようにも思えても来る気もします。宇宙に放り出されたら5分と持たないのが人間です。地球という素晴らしく恵まれた環境を与えられているから、守られ、息ができ、生活できる存在に過ぎない。なのに、少しばかり力がついたからと言って、おごり、高ぶり、まるで神なしに生きていけるかのように錯覚する。さらには神と等しくあろうとして、天にまで達する塔を建てようと企てる人間、、、。
しかしここで思うのは、それとは正反対の事をして下さった神の御子キリストの事です。全宇宙をお造りになった、永遠に存在される方でありながら、ご自身に牙をむく罪人を救うために、天の栄光を蹴って地上に下り、人間と同じ肉体を取って下さった神の御子。そして私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかり、私たちの罪に対する刑罰まで受けて下さった神の御子。そしてよみにまで下られた神の御子。身の程知らずにも、どこまでも高く成り上がろうとする人間と、そんな人間のために、天の栄光を捨ててどこまでも低く低く下られた神の御子と。向いている方向が正反対。目指している方向が正反対なのです。人を愛してやまない神様の御心が、このキリストのお姿にあらわれています。ピリピ書2:3-9
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
栄誉なら、この栄誉を、です。何事にも移ろいやすく、昨日ほめそやしたかと思えば今日は手のひらを返したようにけなす事も珍しくはない、人の世の評判や名誉といったものではなく、真に尊い事、真実な事、価値ある事に栄誉を与えられる神からの栄誉に励まされる者でありたい。地上を去る時、去った後の神の裁きの時には、人間の世界で評判など何の役にも立ちません。ただ神の目に尊いものだけが、残ります。
そして教会はーキリストを信じる一人一人はーこのキリストをかしらとして頂く、キリストのからだであると言われます。このキリストに従う事において、それぞれに与えられている賜物を活用し、愛するキリストに従い、仕える事において心を一つにして、この地で力を発揮したい。この地で主にお仕えすることにおいて、また主の御心を行う事において、私たちの教会も大きな可能性を与えられていると思います。この地域には、まだキリストのもとに導かれていない神の民が、たくさんおられるように思います。ともにおられる聖霊に励まされ、導かれて、キリストをあかしする教会であり続けたいと思います。
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