聖書の一番最初、創世記を順番に見ていますが、今日の所はご覧の通り、司会者の方に読んで頂くのが申し訳ないような、カタカナの羅列。読んでも読んでもカタカナばかり、という所になりました。ある人は、水の洪水の後は、カタカナの洪水、そしてこれはほとんどが人の名前ですから、人間の洪水になりました、とうまいことを書いていました。
たぶんひとりで読んでいたら、読み飛ばしてしまうと思いますがー一回はマジメに読むかもしれませんが、二回は一個も飛ばさずに読もうと思わないでしょうがー考古学的には大変貴重な資料だそうで、ここに出てくるいくつかの民族の名前や都市の名前などは、他の古代の文書にも見られるものだそうです。昔、世界史の授業で習った古代の民族、都市名も出てきて、関心のある人には、へえーとちょっと感動するものもいくつかあります。ノアの洪水の所でも言いましたが、聖書は基本的に、おとぎ話や神話の類ではなくて、れっきとした歴史書、事実を書き留めた記録である事が、そんな事からも証しされるのです。
ま、ただ、考古学的な価値はともかく、私たち一般人にとってどんな意味があるのか、これも神様の御言葉である聖書に入れられているからには、何か意味があるのだと思いますので、少しでも、励ましとなるもの、益となるもの、霊的な栄養となるものを汲み取らせていただけますように、と願ってご一緒に読んでいきたいと思います。
まずは10章全体の見出しとなる、1節をご一緒に読みたいと思いますが、さすがに今日は全部を読むのは大変ですので、最初の1節と最後の32節だけにしますので、ご安心頂きたいと思いますが。では1節。
10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。
@神様の祝福の確かさ。→信仰、信頼を確かに。恵みに基づいている事を理解して。
最初に、「セム、ハム、ヤペテ」という、この三人の名前が一緒に登場する時には、必ずこの順番で出てきます。ですが、実は、セムが長男(10:21)なのはいいとして、次男はヤペテ、最後に書かれているヤペテが次男。そして真ん中に来ているハムは末っ子(9:24)のようです。で、どうしてこの順番で書いているのかというと、この後、聖書はセムの子孫から生まれるイスラエルの歴史が中心になりますから、まずセムが最初。次に、そのイスラエルと地理的に近くてより関係が密接だったのがハムの子孫だったから、次にハム。そしてヤペテは地理的にも少し遠くで、イスラエルとの関係も薄かったから、これが三番目、という事だろうと言われます。ですが、実際に2節以下、今度はそれぞれの子孫を書く段になると、逆にヤペテの子孫から始まって、ハムの子孫、セムの子孫という風になります。これは聖書の書き方の特徴で、関係の薄い方から書き始めて、本筋であるセムの子孫は一番最後に持ってくるという、そういう書き方をするようです。神様が約束して下さった救い主は、セムの子孫、イスラエルの子孫としてお生まれになりますから、それが本筋、真打ちは一番最後に登場させるのが、聖書の書き方という事です。
さて、大洪水で地上の全面が一掃されたあと、わずかノアと奥さん、それに三人の息子とその奥さんたちの、計8人だけが、生き延びました。大洪水で荒れ果てた大地に、わずか8人で立ち尽くすノアたち一家。たった8人で、大丈夫かな?と心細く思うでしょう。増えるどころか、この8人すらも生き延びていけるのだろうか。無理をして身体を壊したり、病気になったりしないか、そもそもちゃんと毎年、食糧が手に入るのかとか。不安材料にばかり目を留めていたら、それだけで参ってしまいかねない、そんな状況かもしれません。そういう時に、心のよりどころが必要です。私たちの心を支えるよりどころ。目に見える環境、状況にかかわらず、私たちを支えてくれるよりどころが必要です。その点、ノアたちは幸いなことに、何よりも確かな神様の祝福の御言葉がありました。神様のみ言葉を持っているという事は、本当に感謝な事、幸いなことです。み言葉は、裏切りません。そして力になります。前の9:1で「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と神様は祝福しておられました。天地を造られた神様の祝福の言葉は、単なる気休めではありません。神様が祝福されたら、本当に祝福されるのです。事実、彼らたった8人から、増えに増えて、今や70億人とも言われています。(国連の2011年版「世界人口白書」によると、2011年10月31日に世界人口が70億人に到達したと推計されている。)8人から70億人へ。数字が大きすぎて、実感が湧かないですが、ともかく現在の全ての人間が、このノアたち8人から出たという事です。神様の祝福のお言葉通り、全地に満ちるまでになったのでした。
8人から70億人に増えたという、この事実から、神様の祝福の確かさを改めて覚えたいと思います。神様に不可能なことはないし、神様は真実な方。神様に信頼するものは失望させられることがないという御言葉を、もう一度よく思い巡らしたいと思います(ローマ10:11)。もしかしたら、私たちは、信じる事に対して、臆病になっていないでしょうか?自分自身を含めて、そう思う事があります。信じて、そうならなかったらがっかりする。傷つく。そんな恐れる心があるから、イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)と仰ったのでしょう。確かに、自分の思っていたとおりには、いつも成るとは限りません。だけども、だからといって、主に信頼する事をやめてしまってはいけない。基本的に、神様は、祝福の神様です。神様は祝福するためにこの世界を造られました。罪が入る前の、神様がお造りになった世界は、祝福で満ちていましたし、今でも自然は、神様の多くの祝福を残しています。一粒の種が、何十倍、何百倍もの実を実らせる。季節が巡って、たくさんの収穫が得られるように自然をお造りになって、そのようにしておられます。神様は、祝福を与えたい神様。祝福するために、世界を、また私たちを造られたんですね。
でも、自分なんか、、、とか、とても自分のような者を神様が祝福して下さるとは、思えない、、、という気持ちも、もしかしたらどこかにあるかもしれません。特に、日本人はマジメですから、特に意識はしていなくても、心のどこかに深く、そういう自分には価値がないという思いがある方もおられるかもしれません。それはそれである面、正しいです。聖書によると、私たちは確かに、みな、聖なる神様の御前では罪ある者で、良い物を受けるに値しない者です。けれども同時に、神様は恵みに基づいて、祝福して下さるんですね。恵みとして、ただで祝福をあげたい、ただ私たちを愛しておられるから、ただ良い物を与えたいから与える、そういう神様です。「恵み」というのは、良い物を受けるに値しない者に、その良い物を与えるという事です。それが「恵み」ということです。自分にそうしてもらうだけの功績があるからとか、価値があるからとか、そういうこちら側がどうこうではなくて、ただ神様の側が、与えたい、祝福したいという思いがあふれ出て、そして与えて下さるもの。それが恵みというものです。ですから私たちは、自分が何か立派だから、とか、毎週礼拝に来ているから、たくさん奉仕をしているから、何か良い物を受けられるとかではなくて、―私たちの側が何をした、かにをした、ではなくてーただ恵み深い神様を信じる、その信仰によって、信頼によって、神様が与えたいと願っておられる祝福を受け取る。そういう事です。よく言われることですが、信仰とは、神が恵みによって備えておられる良き物を受け取る手である。手を指し延ばすことを拒んでいる限り、いくら神様が与えたいと受け取ることはできない。私たちは、信仰という、恵みを受け取る手を神に向かって差し伸べる勇気を持っていたいものです。キリストを信じるひとりひとりは、祝福を受け継ぐために召されたという御言葉もあります(第一ペテロ3:9)。私たちは、祝福を受け継ぐために、召されたんですね。恵みとして。一方的な恵みとして。その事を改めて深く心に覚えたいのです。私たちはよく「恵み深い神様」というんですけれども、これはただの枕詞みたいな、あまり意味のない決まり文句みたいなものではなくて、本当に恵み深いお方だということを思いながら、この言葉を使うようにするべきですね。この恵みの神様を覚えること、神様は、恵みとして祝福しようと願っておられる事。その点で神様に信頼する信仰生活を送らせて頂きたいです。恵みとして、神様がともにおられる。恵みとして神様が私たちの人生を、歩みを祝福してくださる。そう信頼して、前に進むための希望と力を得て、励まされて、そして主にお従いさせて頂きたい。主にお仕えさせて頂きたいものです。
祝福と言っても、時に試練を通らされることもあります。神様の祝福は、その辺のご利益宗教のような、安っぽい、うわべだけの祝福とは、一味も二味も違います。人生には確かに試練もあります。今年の修養会は、ヨブ記がテーマですが、筆舌に尽くしがたい試練、経験した者でないとわからないような試練を、神はご自身のしもべであるヨブにお与えになりました。けれども、しかしその後には、最後には大きな慰めを与えて下さいました。受けた苦しみに倍する慰めを与えられました。本来は、神様はそうする義理も義務もないんですが、それも恵みによって、そのようにご自分のしもべであるヨブを慰めずにはいられない。労をねぎらわずにはいられない。そのように、主はご慈愛に富んだお方だと言うことです(ヤコブ5:11)。
主は、恵みによって、私たちに真に良き物を与え、祝福したいと望んでおられるお方です。恐れずに主に信頼して、キリストにお従いする人生を歩むことができますように。ヘブル 11:6 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には(恵みによって)報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
Aそれぞれの歴史を紡ぐ三兄弟の子孫たち。
それから次に、ざっと三人の息子の子孫を見ていきます。細かく見ていくと長くなってしまいますので、ざっと。2-5節ヤペテの子孫。6-20節がハムの子孫、そして21-31節がセムの子孫というふうに分かれています。同じノアから生まれた息子たち、子孫たちですが、それぞれ個性があり、役割があり、それぞれに異なった道を歩み、異なった歴史を紡いでいくことになります。
ヤペテの子孫、海沿いに→神様のご計画と環境と賜物が一致するように。
最初は2-5節のヤペテの子孫ですが、こちらは、今日のトルコの北の方、西はエーゲ海から東に向かって黒海、そしてカスピ海にかけて分布した人々のようです。もちろん、そこからさらに時代とともに広がっていくのですけれども。2節「ヤワン」はイオニヤ人のことで、これはギリシャ人を構成する一集団だそうです。そして5節をみると「これらから海沿いの国々が分かれ出て」とあります。前回見ました9:27に「神がヤペテを広げ(てくださるように)」というノアの言葉がありましたが、その影響でしょうか、彼らは海沿いに住んで、そこから舟で遠方まで出て行ったのでしょうか。
大きく広がる、という神様のご計画の中で、彼らはふさわしい所に置かれました。ノアを通して語られた神様の祝福の言葉と、それにふさわしい場所と、そしておそらくヤペテの子孫自身も、そういう賜物といいますか、性格と言いますか、フロンティア精神(開拓精神)に富んだ性質の人たちだったのでしょう。神様の言葉と、置かれている場所・環境、それにその人の性質。この三つがピッタリ合うと、豊かに良い実を結ぶことになるのでしょう。祈りをもって、神様の御心の所に身を置くこと、そして主に信頼して、与えられた賜物を積極的に活用する事。神様のご計画の中にあって、それぞれの役割を喜んで果たさせて頂きたいものです。
ハムの子孫、霊的にはカインの系列。この世的な繁栄と罪の蔓延、堕落。
お次は、6-20節のハムの子孫です。こちらは、ほとんどのちにカナンの地と呼ばれる地方、今のイスラエルやヨルダンやレバノンといった国々のある地方と、メソポタミヤ地方、チグリスーユーフラテス川のあたり、それから南の方はアフリカの北部、リビア、エジプト、エチオピアといったあたりと、アラビヤ半島にかけて広がったようです。前回見ましたように、ハムは、洪水前の堕落した世の影響を強く受けていて、肉の欲のままにふるまい、反抗的で、邪悪な心で、ノアから呪いの言葉を受けていました。ところが、です。ここを見てみると、彼らは栄えているのです。それも半端なく栄えているのです。6節のクシュは、エチオピア。古代、栄えていた国です。そして次のミツライムは、あのエジプトの事。泣く子も黙る古代の大帝国エジプトです。ピラミッドみたいな巨大な建造物を造るほどの力と富とを誇った国です。
そして8節のニムロデに至っては、「地上で最初の権力者になった」とさえ、言われています。ニムロデという名前は、何と「我々は逆らおう」という意味の名前です。こう言う名前を子どもにつけるクシュという人物、自ずとどういう人間か、思い浮かぶでしょう。10節に彼の王国のはじめが記されています。バベル:次の11章に出てきますが、バベルの塔で有名なバベルです。今のイラクのあたりです。次のエレクはウルクという都市で今のイラクの国の名前の元になったとも言われます。アカデはアッカドと呼ばれる所。これらはシヌアルの地と呼ばれる、いわゆるメソポタミヤ地方の南部から中部にかけて、に建てたようです。そしてニムロデの勢いは留まるところを知らず、そこから更に北上してアシュル、これはいわゆるアッシリヤのことで、そこに進出して、ニネベ(ヨナ書に出てくる大きな町)など大きな町々を建てました。そして12節には、ニネベとケラフの間のレセンを建てて、それは大きな町であった、と記されています。ニムロデの勢力は広範囲に及び、いったいいくつの町を建てたのか、いくつもの大きな町からなる一大ニムロデ帝国を築き上げたのでした。
以下、全部解説していると長くなるので省略しますが、シドンは地中海貿易で栄えた有名な港町。ヘテは世界史ではヒッタイト人として習いましたが、鉄器文明を最初に築いた民族になります。最後に19節にはこれまた物質的には栄えながら、道徳的にあまりにも堕落して、天からの火が下って滅ぼされたソドムとゴモラの名前が記されています。
以上、見ましたように、ハムの子孫は、この世的には繁栄しました。地上で最初の権力者ニムロデに始まり、ミツライム(エジプト)のような古代の大帝国まで登場しました。しかし、ここには神様に裁かれたソドム、ゴモラの名前もありました。物質的には繁栄していながら、霊的には堕落していく、というのは、4章で見たのと同じパターンです。弟殺しのカインの子孫が力に任せて人々を虐げ、略奪して、幅をきかせるようになり、華々しくこの世の春を謳歌していたのと、同じパターンです。彼らは力を増し加え、人を人と思わぬ横暴な者になっていった。そしてノアの洪水にいたってすべてが滅び去ることになりました。神様の本当の祝福というのは、こう言うのとは違うものなのではないか、と思わされるわけです。
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セムの子孫、霊的にはセツの系列。
それと対照的なのは、21-31節に記されているセムの子孫です。こちらはおもに、中近東一帯に広がったようです。21節の「エベル」は、「ヘブル」の事と言われます。元々「向こう側」という意味の言葉で、何の向こうかというと、ユーフラテス川の向こうあるいはヨルダン川の向こうから出た表現と思われます。
25節に、「ペレグの時代に、地が分けられた」とありますが、「ペレグ」というのは、分かれるという意味の言葉なのですが、ここの「地が分けられた」というのを伝統的には、次の11章で、それまで一つだった言葉が、ある事件を契機にたくさんの言語に分かれたことが記されますので、その事だというふうに言われるようです。
そしてこのエベルの2人の息子ペレグとヨクタンのうち、ペレグの家系がのちにイスラエル、ひいてはイエス様につながる重要な家系なので、これは後回し、11章で紹介されることになりまして、ここでは先に、ヨクタンの家系を記します。30節を見ると、彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯 : 主にサウジアラビアの地域だったようです。高原地帯というのですが、なぜ高原に行ったのか?生活は不便になるでしょうに。もしかしたら、ハムの子孫の横暴さ、暴力、悪に追いやられて?嫌気がさして?高原に追いやられたのか、、?この世は悪い者が支配しているという御言葉も思い合わされます(第一ヨハネ5:19)。
しかし高原は、なんとなく凜としたものを感じさせます。清冽な山の空気。何となく、天を思わせてくれる雰囲気があるように思います。ハムの子孫が、肥沃な低地で、収穫は増え、蓄えもでき、お酒もごちそうも好きなだけ飲み食いできるようになって、かえって罪のあだ花を咲かせ、肉の欲の腐臭を放ち、罪の巣窟となったのと対照的。高潔な感じ。そういえば、後に出てくるアブラハムと甥っ子のロトが分かれる時、ロトの方がよく肥えた低地を選びましたが、アブラハムはベテルのあたりの山地に住みました。ちなみにこの教会のあたりも調べてみましたら、結構標高があって78.8mだいたい80mという事でした。うちでも、窓を開けると、時々山の空気の匂いのする風が入ってきて、けっこうそれも気に入っているんですが。
前回見たセムの祝福を思い返したいのですが、私たちが、神様の民とされている事自体が、何にも勝る祝福であるということを、もう一度、よく味わいたいものです。神様を、私たちの神様と、お呼びできる事、そういう関係に置かれているという事。また私たちが、神様の民と呼んで頂ける関係に入れられているという事。これは何にも代えられない尊い事。その関係は、死によってさえ途絶えることのない、永遠の関係であることを忘れてはいけません。この祝福を実現するために、尊い神の御子が人となって十字架にかからなければならなかったほどの犠牲を払って、はじめて可能となった祝福です。お金をどれだけ積んでも買うことのできない高価で尊い祝福であることを、しっかりと今日も心に刻みたい。神様が、それほどの犠牲を払ってまでして、与えてくださった祝福。それだけの価値のある祝福なのです。仮に地上の祝福がすべて取り去られたとしても、この神の民とされているという祝福だけで、喜んでいるべきだという、そんな祝福です。
<結び>
さて、以上、ざっと10章を見て参りましたが、最後に結び、32節。ご一緒に。
10:32 以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。
以上セム,ハム,ヤペテの子孫として挙げられている名の総計は、数えてみますと全部で70になります。70という数字は、聖書では完全数と言って、地上のすべての民がセム,ハム,ヤペテから分れたものであることを示しています。
最後に、新約の時代の教会は、わずか11人の使徒たちと、そのほかの弟子たちから始まりました。そして迫害されて、風前の灯火という状況にもなりました。しかし福音の火は消えず、むしろその迫害によってさらに福音は広がり、西へ、東へ、北へ、南へと広がって、今日、世界中に広がっています。ブリタニカ国際年鑑2017年版によると、全世界のキリスト教人口は、32.9%、およそ24.5億人です。一握りの使徒たち、弟子たちから、24.5億人へ。確かにここにも神様が祝福されて豊かな実を結んでいる事がわかります。しかしまだ福音が届けられていない少数民族もアフリカや東南アジアなどにあります。先週、世界宣教礼拝でしたが、今週も、この増え広がるノアの子孫たちのイメージに重ねて、全世界に広がる神の国をイメージし、励まされ、またさらに前線に立っておられる宣教師の方々とともに私たちも祈りをもってともに宣教の業に励みたいと思います。
また、週報の中の右側のページ、四角い囲いの中に使徒の働きの御言葉を書きました。「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」(使徒17:26-27)
今という時代に、この日本の地、所沢の地に住んでおられる多くの人々にも、神様は、ご自身を求めさせたい、知って欲しいと願っておられます。私たちも、聖霊の風を受けて、何よりも神様の民であることを心から喜び、キリストにあって恵み深い神様をあかししていく者でありたいと願います。
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