今年も7月の第一週を「世界宣教週間」と覚え、今朝の礼拝は「宣教礼拝」として迎えた。海外で奉仕しておられる宣教師の方々を覚えつつ、主イエスの約束の言葉に耳を傾け、福音宣教の働きの尊さを心に刻みたい。「世界宣教」または「海外宣教」という言葉を聞くと、宣教師の働きを思い描き、自分とは余り直接の関わりがないと思うかもしれない。もちろん祈りや献金によって関わり、常に覚えて祈っている方もおられるに違いない。けれども、私たちの信仰生活、また教会の歩みは、自分で気づいている以上に広範に渡るものである。主イエスの宣教の御業は、私たちが思う以上にスケールの大きな働きであることを覚えたい。使徒の働きの冒頭に記されている教えに、しっかりと耳を傾けてみたい。
1、私たちの救い主イエス・キリストは、十字架で身代わりの死を遂げられ、墓に葬られた。けれども、三日目に死からよみがえられた。この十字架の死と死からの復活の事実こそが、私たちの信仰の中心である。あえて言うなら、復活こそである。なぜなら、「復活」は人間の常識では考えられず、全く有り得ないことだからである。その意味で、クリスチャンは「信じられないことを信じる、常識はずれの人々」と言える。そうだからであろうか、イエスは弟子たちのため、彼らが復活を信じられるようにと、「四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分か生きていることを使徒たちに示された。」(3節)復活を信じることは、復活のイエスにお会いした弟子たちでも難しいことだからであった。主イエスは、弟子たちを復活信仰に導くために、時間をかけ、丁寧に聖書を説き明かして語りかけられた。と同時に、はやる心を抑え、また静めるように、「父の約束を待ちなさい」と語られた。「聖霊のバプテスマを受けるから」と。やがて約束の聖霊が遣わされる日が来るので、その時を待ちなさい、と言われた。(「聖霊のバプテスマ」より、「聖霊によるバプテスマ」と訳すと、聖霊が一人一人に注がれることを指すと理解し易い。)弟子たちはみな、「復活の証人」として遣わされるのであるが、父なる神の定められた時を待つよう命じられたのであった。(4〜5節)
2、イエスの復活を信じられるようになり、自分たちに託された務めを理解し始めた弟子たちは尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(6節)彼らの心は、やはり「今こそ」とはやっていた。主イエスは、もう一度、父なる神の時を待つよう語られた。それに加えて、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われた。(7〜8節)聖霊が一人一人に臨む時、弟子たちは力を受け、エルサレムから近隣の地方に遣わされ、遂には地の果てにまで、イエスの復活の証人となるのである。これは、聖霊の力づけなしには起こり得ず、また聖霊の力づけによるなら、必ず起こるとの約束であった。主イエスは、この約束の言葉を残して天に昇って行かれた。弟子たちがどのような顔をして天を仰いでいたのか、興味深い場面である。ポカンとして、見上げていたのか、分かりましたと、口を結んでいたのか、どちらであろうか。幾らか呆然としていたに違いない。み使いが現れ、彼らが見ていた同じ有様で、主イエスが再び来られると告げた。(9〜11節)弟子たちはエルサレムに戻り、「泊まっている屋上の間に上がった。」いつもその場所が彼らの泊まる所だったようである。そこで彼らは、心を合わせて祈った。はやる心を落ち着かせるよう祈りに専念して、約束の実現を待つことができた。(12〜14節)
3、待つこと十日、ペンテコステ(五旬節)の日に、約束の聖霊が弟子たちの上に、目に見える形で止まり、彼らは、「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」彼らはイエス・キリストのこと、「神の大きなみわざ」について大胆に語った。(2:1-4、11)キリストの福音がいよいよ全世界へと宣べ伝えられる、その第一歩が力強く踏み出された。弟子たちは聖霊の力に押し出されていた。ペテロは「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしている聖霊をお注ぎになったのです」と語った。(2:32-33) ペテロをはじめ弟子たちは、以前とは全くの別人のように変わっていた。それは聖霊を注がれ、力を受けたからによる。聖霊によって語る言葉を受け、導かれ、力強く語ることができた。彼らはみな、それぞれが「復活の証人」となった。このようにして、福音は「地の果てにまで」届けられることになった。私たちが聖書に触れ、イエス・キリストを信じる信仰に導かれたのは、この一歩があり、聖霊によって力づけられた人々が次々に起こされ、その繋がりの中で福音を聞くことになったのである。父なる神は、そのようにして私たちに罪の赦しを与え、また私たちをも聖霊によって力づけ、復活の証人として遣わして下さっている。福音は私たちも証人として生きること、歩むことを通して、更に広げられることになる。
<結び> 私たちが今、信仰を持って歩んでいる事実は、聖霊が私たちの上にも注がれ、その力をいただいて生きているからに他ならない。礼拝に集うのも、家にあって祈るのも、聖霊の力づけがあってこそである。神が私たちを愛して、私たちの罪を赦すために御子を遣わして下さったと、心から信じることができたのは、聖霊の導きによることである。神は、そのようにして救いに与らせて下さった私たちを、イエス・キリストを信じる一人の証人として、世に送り出して下さっているのである。
その自分を思うと、一体何ができるのか、はなはだ恐れと不安に包まれるのが普通、当たり前である。もちろん「私を遣わして下さい」と、心に熱い思いが湧き上がる人もいれば、たじろぐ人もいるに違いない。私にとっての慰めは、最初の弟子たちは必ずしも、勇ましい人たちでなく、逃げ出した人たちだったという事実である。その逃げ出した人々が聖霊によって力づけられ、思いもよらない働きをした。私たちも同じように弱さがあっても、聖霊なる神から力を与えられるなら、神にあって、不思議に用いられるに違いないと、そう信じることができる。福音宣教の業は、神ご自身の御業であって、神は私たちをも用いて、今も働いておられる。(※私たちが教会に連なっている事実は、それだけで世界宣教の大きなスケールの中にいることである。)弱く、また愚かで失敗を重ねるとしても、神は私たちをも用いて働いておられると信じる時、私たちは大いに慰められ、また力をいただくことができる。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」また、「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうとされたのです。」パウロが語った言葉は、聖霊の働きがなければ、誰一人救いに至ることがないことを言い表している。(コリント第一1:18以下)聖霊なる神が、生きて働いておられるので、私たちも力をいただき、福音宣教の業に関わらせていただいている。一人一人が、今いる所で、復活のイエス・キリストを信じる証人として生きることによって、福音は更に地の果てにまで届けられる。聖霊による力づけは、私たち一人一人に対しても、いつでも、どこででも確かであることを信じて、日々を歩ませていただきたい。
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