礼拝説教要旨(2019.06.30)  
セムの祝福
(創世記9-18〜29) 横田俊樹師 

後にも先にも二度とない世界大の大洪水に一年の長きにわたって箱舟に閉じ込められる生活を経て、その後も荒れ果てた地を耕し、種を蒔き、世話をして、ようやく待ちに待った収穫を得たノアたち一家。どうやら生活のめども立ってほっと一安心と言ったところでしょうか。しかしそういう時に案外、人は失敗をしてしまう事があるものです。それまでの緊張、ストレスー相当なストレスだったでしょうーから解放されて、気の緩みからでしょうか、ノアも失態を演じてしまいました。ちなみにここに登場するノアの三人の息子は、セムが長男、ヤペテが次男、ハムが末っ子のようです(9:24, 10:21参照)。
<20−21節:お酒の問題。むしろ御霊に満たされよ>
ノアはかつて「主の心にかなっていた。」(5:8)「正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(5:9)と言われていました。そのノアが、意外や意外、ワインを飲み過ぎて裸で寝てしまい、末の息子にあざ笑われた事が記されています。お酒の問題について、以下、三つの事を述べてみたいと思います。
?最初にこう言う事柄を考える際に覚えておくべき大原則があります。聖書には絶対譲れない事というのがあります。全世界を造られた神は唯一であるとか、三位一体であるとか、イエス・キリストは完全な神であり人であるとか、キリスト以外に救いはないとか。これらのキリスト教信仰の根幹をなす事柄については妥協できないもので、これらからはずれたら異端とされます。しかしそれとともに、人それぞれ、自分の確信に従って行動すべき事柄というのがあります。ローマ14:5に「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」当時の安息日とか、他にも何かいわれのある日を特別だと考える人もいたし、どの日も同じだと考える人もいましたが、それはそれぞれが心の中で確信を持っていればいい事。他の人の事をとやかく言う事はないし、人と違うからと言って不安になる必要もない。お互いにそれぞれの確信を尊重して、各自が自分の確信に従って行動すれば良いわけです。またそのローマ人への手紙の所では他に肉を食べる、食べないという問題にも触れています。当時の市場では、肉は偶像に一旦捧げてから売られていたので、そんなものを食べたら自分も偶像崇拝に加担する事になってしまうと思って、肉を食べない人がいました。他方、偶像なんて本当はいないんだから、そんなものにとらわれなくていいと、これみよがしに食べる人がいました。けれども、これも互いに相手を批判するのでなく、お互いにそれぞれの確信を尊重して、各自が自分の確信に従って行動すればよいというのです。
お酒に関しても、人によって体質の違いなどもあり、事情はさまざまです。ある人にとっては何でもない事ですが、ある人には一滴たりとも禁物なものかもしれません。基本は、各人が神との間で、良心に従って決めるべき事です。そして互いにそれぞれの確信を尊重して、他人を裁かない事。お酒に限らず、伝道の方法にせよ、礼拝の持ち方にせよ、あるいは賛美の仕方にせよ、それぞれの確信に従って行えばいいのです。ある教派では詩篇以外、歌っちゃいけない、という所もあったり、ある方は、神学校に行ってチャペルの時間にその神学校では讃美歌を歌っていたんですが、その方の教会は聖歌しか認めていなかったんだそうで、それで「聖歌以外の歌を礼拝で歌う事が、神の御前に許されるのか?」と真剣に悩んだそうです。その方は今は、ギターやドラムを使った賛美を礼拝で捧げていて、そういう賛美の作詞までしています。変われば変わるものです。あと、個人の生活では、お酒の他に、仏式の葬儀でのふるまいとか、実生活には一概にこうでなければいけない、と決めてしまうのではなく、各教会や各人が神の御前に決めるべき事がほとんどです。日本人はとかくキョロキョロと周りを見て人と同じにしてないと不安という所があって、その裏返しで、誰かがみんなと違う事をしていると指さすのかもしれないんですが、それは窮屈というか、不自由な事だし、徳を建てる事にならないし、かえって争いの元になりかねない事です。聖書の原則や考え方の基本はしかるべき人が教えるにしても、具体的な自分自身のあれやこれやのふるまいについては、神の御前に自分で責任を持って決める。そんなふうにお互いに自立して、それぞれの自主性を尊重する交わりをパウロは勧めているのではないかと思います。
?上記の大原則を踏まえた上で、では、聖書はお酒についてどう言っているか、調べてみると、必ずしもお酒そのものを悪いものとはしていないようです。むしろ祝福として述べている箇所が多くありますし(創世記27:28、申命記7:13、詩篇104:15、箴言3:10他。)、主へのささげ物ともされている(出エジプト22:29他)。さらにパウロは弟子のテモテに対して、健康のための少量のぶどう酒を勧めています(第一テモテ5:23)。(ちまたには、酒は百薬の長、などと酒飲みにはうれしいことわざもあります。)カナの婚礼では、イエス様は水をぶどう酒に変えられました(ヨハネ2:1以下)。イエス様が、悪いものをお造りになるわけはないでしょう。
ですが喜ぶのはまだ早い。他方、飲み過ぎ、酩酊を戒める御言葉も聖書にはたくさんあるという事実にも目をつぶってはいけないですね。箴言20:1、21:17、ルカ21:34、第一コリント5:11、6:10、第一ペテロ4:3など多数あります。酔う事は、正常な判断を狂わせ、自制心・理性を失わせるので、別の罪の踏み台となる事がしばしばあります。ノアの場合も、自分の家で酔っ払って裸になって寝てしまったのが、罪かと言われれば、微妙かもしれませんが、ほめられることでないのも確かです。ハッキリ言えばみっともない姿でしょう。またハムに罪を犯させる機会にもなりました。やはりノアの失敗・失態とは言えるのかもしれません。ノアほどの人でも、お酒でこういう失敗をしてしまうのですから、ましてや私たちは無警戒で手放しで喜んでガブガブ飲むのは控えたほうが望ましいのかもしれません。
あと、微妙なのもあります。箴 31:6 「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。」後半部分は、パウロが健康のためにぶどう酒を勧めたのと同じ原則でしょうか。
また聖書には別の視点からの御言葉もあります。自分がお酒を飲む事によって、他の人のつまずきになる場合は、自制するという事です。隣人愛の視点からの自制です(ローマ14:19-23参照)。これも忘れてはならない大切な視点です。
?いろいろ書きましたが最後に心に留めたいのは、エペソ5:18「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」の御言葉です。お酒の力を借りて陽気にならなくても、御霊に満たされて喜びに満たされるほうがよっぽどいい。お金もかからないし、悪酔いしないし、二日酔いもない。しかしまた、飲まずにいられない心のむなしさ、やりきれなさ、心のすさみというのもあるかもしれない。心の深いところに受けた傷、どこにも持って行きようのない怒りやストレスというのも、酒に向かわせるものかもしれません。そういうものからの救いを、酒に求めるのでなく、それらを癒やして下さるキリストに求めるように!と願います。そしてキリストが与えてくださる聖霊に満たされる事によって、平安や喜び、きよい喜びに満たされたいと思うんですね。あたかも、あれもしてはいけない、これもしてはいけない、と戒めに縛られるように、酒を飲まない事が大事なのではなくて、酒がいらなくなる事が願わしいのです。ガチガチに戒めに縛られた修行僧みたいなのがクリスチャンの生活なのではなく、むしろ喜びに満たされた歩みです。お酒に救いを求めるのでなく、キリストに救いを求めて、御霊を満たされる生活を祈り求めたいものです。
<22−23節:愛は多くの罪を覆う。隣人を自分自身のように愛する事。>
ノアは酔っ払って裸の恥をさらしました。それは確かにノアの失態だったでしょう。しかし人は皆、失敗するものではないでしょうか。大切なのはそれに対してどう対応するか、です。人の失敗や恥となる事を、笑いものにする者もいれば、心を痛めて覆う者もいます。末の息子ハムは、前者でした。おそらく、あざ笑うような調子だったのでしょう。「親父ったら、普段、偉そうに命令したり、怒ったりするくせに、自分はどうなんだって。みっともねえ格好で寝てるから、兄貴たちも見て来いよ。」父親に対する愛も尊敬もない心。ハムは日頃から生活態度が悪かったのではないかと思われる節があります。25節のハムに対する宣告の重さも考え合わせると、彼は洪水前の堕落した世の影響もかなり受けていたのではないか。性的な奔放さや自制心のなさ、反抗心、そういう性質が見受けられ、それを叱ってくれる父親を逆恨みする思いがあったのではないか。そういう思いもあってこういう行動に出たのかもしれません。
人の恥を言いふらすのは、罪人には気分がいいものなのかもしれません。しかしそれは神が忌み嫌う邪悪な行為です。それは確かに事実かも知れませんが、事実なら何でも言い広めていいというものではないでしょう。自分がそうされたらどうか、考えてみればわかるでしょう。人は誰しも失敗します。(私、失敗しないので、というのは、ドラマの中だけの話です。)人の失敗をことさらに、不必要に言いふらしてはいけない。隠蔽しろと言うのではもちろんありません。明らかにすべき不正は、明らかにしなければなりません。しかし不必要に人の恥を言い広める事は百害あって一利なしです。このような心ない仕打ちによって苦しんでいる人がどれだけいる事かと思います。
これに対して、二人の兄、セムとヤペテは、父ノアの失態を自らも目にすることのないよう、注意深く後ろ向きに天幕に入り、そして着物でノアの裸を覆ったと言います。父親の失態を覆う心。これが神に喜ばれる心です。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ、という黄金律に照らして、自分の恥を、わざわざ人を呼び集めて見世物にされたくないのなら、自らもそれを見ず、それを覆うという事は、当然でしょう。自分たちも、見ないようにした、というところにも、セムたちの細やかさ、行き届いた配慮というのが、うかがわれるような気もします。素晴らしいと思います。
自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。自分がして欲しいようにあなたの隣人にもしなさい。自分がして欲しくない事は、隣人にもしないように。幼子にもわかるこの隣人愛の大原則を改めて心したい。それが安心していられる共同体、コミュニティであろう。教会の交わりの場は、そういうところでありたい。
<24-27節:セムの祝福、霊的祝福。>
「カナン」はハムの子です。「しもべらのしもべとなれ」は強調表現。ここで「カナン」がことさらに取り上げられているのは、後にセムの子孫として生まれるイスラエル人たちが、道徳的に乱れきったカナン人に取り囲まれる事になるため、これを読むイスラエル人たちが信仰的にも道徳的にもカナン人に影響され、支配されないようにとの警告と励ましの意味があったのかもしれません。
これはノアが腹立ち紛れに呪った言葉ではありません。ハムがたまたまこう言う事をしたから、呪われたというのも正確ではないでしょう。先に触れたように、ハムは、元々、こういうふるまいをするような性質・性格だった。それが今回の一件に顕著に表れた。その邪悪な性質は、神の呪い(というより、裁きか)を招く事になります。邪悪な者が上に立つのは、悲劇です。横暴な君主、横暴な主人。正義によらず気分で当たり散らされるのは、しもべにとってはたまったものではないでしょう。また自制心もなく肉の欲のままに振る舞う主人のもとでは、しもべたちは不安と恐れの日々を過ごす事になるでしょう。それで自分の子孫たちがそんな悲惨な事態にならないよう、ハム的な性質の者は健全な権威の下に置かれる事がふさわしいので、このように祈ったのでしょう。
他方、セムとヤペテには祝福が宣言されます。注解書では、セムがリーダーシップを取ってヤペテが従う立場だったのでしょうと言われます。良きリーダーシップを発揮したセム。聖さと愛のわざを促し、ともに行うリーダーシップ。この良き霊的感化、霊的リーダーシップは、上に立つにふさわしいと思います。神の国はこのようなリーダーのもとに営まれるものなのでしょう。
これは、ただ単にセムの生まれ持った性質・性格から来るものではありません。神から来るものです。すべてのよきものは、目に見えるものも見えないものも、ただ神からのみ、来る。だからノアは、セムをほめたたえるのではなく、「ほめたたえよ。セムの神、主を。」と主なる神をほめたたえた。マタイ5:16 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」セムを、このようにきよく保って、良い行いをさせたもうた神は、ほむべきかな、と言う事です。
人間にとって、本当の祝福とは何でしょうか?「セムの神、主」と呼ばれる事自体が、実はとてつもない祝福ではなかったでしょうか。全宇宙を造られた大いなるお方、聖なる聖なるお方が、自分のような罪に汚れた者の神となって下さったという。これは、想像を絶する恵みです。そのために、尊い御子の血潮が流されなければならなかったほどの、大きな、深いギャップが本来、あったのです。本来、そんなことはあり得ない話だった。それを、神は私たちを愛するその大きな愛によって、御子を遣わし、御子の十字架の贖いの御業によって、私たちをご自分のもの、ご自分の民、ご自分の子としてくださったのです。そしてきよい歩みをするようにと御言葉と聖霊を下さって、そして永遠の御国に至るまで私たちを守り、支えてくださる。神に心変わりはありません。神が、一度、私たちの神となってくださったからには、その絆は決して何物によっても断たれる事はない。死によってさえも途絶える事はありません。死を突き破って、その向こう側にも、永遠に続くのです。決して色あせる事のない永遠の輝きを放ち続ける祝福なのです。この事をよく心に刻んでおきたいのです。
ヤペテは、このセムの祝福のもとで世界に広がる事が示されています。ヤペテとは、広がるという言葉(ヤプテ)との語呂合わせだといいます。インドーヨーロッパ語族や、おそらく我々東洋人もこの子孫と思われます。「セムの天幕に住まわせ」とは、セムの子孫であるイスラエル人の子孫としてお生まれになった御子イエス・キリストが建てられた神の家すなわち教会に入れられて、の意味。ヨーロッパの人々がキリスト教のもとに身を寄せて、セムの神、主を礼拝し、また世界中に広がった歴史を言い当てているようでもあります。
 もちろん、ハムの子孫であるカナン人の中にも、たとえば遊女ラハブはイスラエルの神への信仰のゆえに、神の祝福をともに受け継ぐ者となりました。逆にヨーロッパの人々の中にもキリストを信じない人もいますし、イスラエル人の中にも偶像に走った者たちもいますから、ノアのこれらの言葉によって機械的にすべてが決まってしまうというのではなく、一人一人が主なる神に対して心を寄せるならば、どの民族であれ神の民とされるのは言うまでもありません。
そんな中で、今朝は、私たちもその神の民の祝福にあずかるものとされている事を改めて覚えたく思います。私たちは何の気なしに「私たちの神様」と口にしやすいですが、そう呼ぶ事を可能にするために、神様はとてつもなく尊い犠牲を払われた。決して気安く口にできる言葉ではなくて、本当に心からの感謝と賛美の思いを引き起こされずには口にし得ない言葉だったと改めて思います。私たちは、自分がいかに大きな祝福を受けているかを、見失いがちです。神がすでに与えて下さった祝福・特権を、あってもなくてもいいようなもののように軽んじ、さげすんでしまってはいなかったか。世界中の宝を全部集めたよりも、はるかに尊い宝を、ゴミの山のようなものに埋もれさせてしまってはいなかったかとも探られるのです。
最後に、今日の招詞で読んだ箇所をもう一度よくかみしめたいと思います。エペソ1:3−6。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。