『第三部 感謝について:十戒について 第38主日
問103 第四戒で、神は何を望んでおられますか。
答 神が望んでおられることは、
第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、
わたしがとりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、
神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、
公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする、ということ。
第二に、生涯のすべての日において、
わたしが自分の邪悪な行いを休み、
わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、
こうして永遠の安息を
この生涯において始めるようになる、ということです。
「十戒」の第四戒の主文は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」で、以下の言葉が続いている。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は、安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8〜11)安息日を守るよう命じるとともに、そうすべき理由は、天と地と海を造られた神の御業と関連していると告げられている。神ご自身が、七日目には休まれた。だから、あなたがたも、六日間働いて、七日目は「主の安息である」ことを覚え、「聖なる日とせよ」と言われる。
1、私たちは、七日ごとを一週間とするカレンダーを、ほぼ当たり前に使って生活している。人間の生活のリズムがピッタリ合うのが「7日」だからとか、いろいろの意見があるらしい。これと言う根拠はなかなかないとも言われている。それと同時に、一番の根拠は、聖書にあるらしい・・・と言われる。聖書には、六日に渡る神の創造の御業と、七日目に神が休まれたとの記述があり、この御業と関連するものとしての「安息日」の決まりが、はっきりと定められている。その戒めに従って、旧約時代の神の民は、七日ごとに休み、また、キリストを信じる人々も、七日ごとに安息日を尊ぶ習慣を守り続けて今日に至っている。旧約聖書の時代、神の民イスラエルは、週の七日目を「安息日」として神に礼拝をささげていた。けれども、神が救い主として遣わされたイエスを退け、十字架に付けてしまった。そのイエスが十字架の死からよみがえられたのが、週の初めの日であった。その事実を記念して、イエスをキリストと信じる人々は、週の初めの日を「主の日」、「主イエスが復活された記念日」として、その日を「安息日」すなわち、日常の仕事から離れ、神に礼拝をささげ、また、自らの身体の休みの日として過ごすようになったのである。このような、聖書を信じる人々の生活習慣が、世の多くの人々にも広がっている事実は、案外見落とされたままのようである。
2、この世界を造られ、人間をご自身のかたちに似せて造られた神は、私たち人間の根源的な必要を知っておられる。私たち人間は、神との親しい交わりの中で生きるものとして造られている。創造の始めにおいて、神が安息日を定めておられ、神との親しい、特別な交わりは設けられていた。しかし、人類が神に背いたことによって、その交わりは損なわれたため、人は、自分からは神に心を向けることがなく、背きの道を行くばかりとなった。けれども神は常に道を備え、交わりの回復がなされること、民の心が神に向くことを願われた。十戒はそのような意味で、神の御心が示され、民が神と共なる歩みをするようにとの指針である。そして、この第四戒は、七日の内の一日を、神礼拝のために過ごすことの大事さを示すに止まらず、人が人として、本当に心が平安で生きるためには何が大事なのか、何を思って生きることが大事なのか、そんな大切な教えが込められている。プロテスタント宗教改革以前の教会では、一般の人々が教会の礼拝に集う習慣は失われていたとのことである。だからこそ、主の日を「安息の日」として「神の教会に熱心に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする」ことを、神が望んでおられる第一のことと言うのである。教会はそのためにこそ、説教の務めを果たし、教育活動を維持するのである。
3、けれども、もっと心すべきこととして、第二のことが言われているものと思われる。「生涯のすべての日において、わたしが自分の邪悪な行いを休み、わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです。」天地創造の御業において、神が七日目に休まれたのは、神がお疲れになったということは、全くなかった筈である。むしろ、神自らが休まれることを通して、人に休むことを教えようとされたのではないだろうか。神は七日ごとの休みとは別に、畑の耕作についても、七年ごとの安息を命じておられる。「七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。」(レビ25:4) 放っておくと、休みなしとなる人間の性格をご存知の神は、自ら休むことによって模範を示し、また戒めを通して導いて下さっている。何よりも、神と共にある永遠の安息のあることを思い巡らし、その永遠の安息に入る望みをもって生きるよう促して下さるのである。週の一日だけでなく、「生涯のすべての日において」、「自分の邪悪な行いを休む」こと、そして、御霊の働きによって、「永遠の安息をこの生涯において始める」ことができるからである。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」と言われるのは、私たち人間には、肉体的にも霊的にも「安息」の必要があることを、神は重々ご存知だからである。イエス・キリストを信じて、永遠の安息に入れられる望みに生きる時、私たちは、この世にあって心に平安をいただくことができる。この地上の日々に、多くの思い煩いがあり、恐れや不安があっても、心を神に向け永遠の安息を仰ぐことによって、私たちは主と共に生きることができるのである。
<結び> 「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことがないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。・・・」(1節以下)旧約聖書の時代、救いへの神の招きを退けてしまった人々がいたことに触れながら、今、イエス・キリストの福音を聞いている人々に、躊躇うことなく「神の安息に入るように」、このへブル人への手紙は呼びかけている。「神は再びある日を『きょう』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない』と語られたのです。」(7節)私たちの信仰は、確かに、やがて天の御国に入れられる望みをもって生きるものである。この地上の生涯を終えると、これまでの労苦を解かれ、魂は天に引き上げれ、肉体はちりに帰り、朽ち果てる。けれども、主イエスが再び来られる日に、私たちは栄光の身体によみがえることになる。しかしまた、主イエスをキリストと信じて生きる日々は、今、既に永遠の安息を生きる日々であることも覚えたい。私たちにとっては、この地上において、永遠の安息を得て生きる生涯を歩み始めているのである。主イエスを信じて歩む日々こそ、真に安らぎのある幸いな日々である。この安息に入るのを躊躇わず、またこの安息を喜び、感謝して歩めるように。
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