『第三部 感謝について:十戒について 第36主日
問101 しかし、神の御名によって敬虔に誓うのはよいのですか。
答 そのとおりです。
権威者が国民にそれを求める場合、
あるいは神の栄光と隣人の救いのために、
誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。
なぜなら、そのような誓いは、神の言葉に基づいており
旧約と新約の聖徒たちによって 正しく用いられてきたからです。
問102 聖人や他の被造物によって誓うことはよいのですか。
答 いいえ。
なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、
真実に対してはそれを証言し、
わたしが偽って誓う時には
わたしを罰してくださるようにと呼びかけることであり、
このような栄光は、
いかなる被造物にも帰されるものではないからです。
「十戒」の第三戒は「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)である。「主の御名を、みだりに唱えてはならない」と命じられているが、大事なことは、むしろ、主なる神を信頼して、いかなる時にも「主の御名を呼ぶ」こと、「神を呼び求める」信仰に進むよう、苦難のときこそ、主を呼び求めるよう招かれていると学んだ。と同時に、この第三戒は、やはり、神の前に、私たちが誠実に誓うことの尊さを教えてくれる戒めである。
1、問101「しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。」答「そのとおりです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。なぜなら、そのような誓いは、神の言葉に基づいており 旧約と新約の聖徒たちによって 正しく用いられてきたからです。」私たち人間の言葉に、常に真実が宿っているのかと問うなら、答は否であろう。誰かと約束したことは必ず守ると、決心したとしても、それを完全に守れる保証はない。では「真実」はどこにあるのかと問うても、答はどこにあるのだろうか。私たち人間は、はなはだ心もとない存在である。恐らく人類は、言葉を持つ人間として、何とかして語る言葉に真実を込め、人と人との関係をより良く保つため、また自らの言葉を確かなものとするため、誓約することを身に着けたのかもしれない。ところが現実は、願いとは裏腹な「誓約」がはびこり、誓約によって神の御名を冒涜することになってしまった。だからこそ「神の御名によって敬虔に誓うことはよい」とされ、もし誓うなら「神の御名によって敬虔に誓うこと」こそ、私たちが祈り求め、また果たすべきことなのである。そのようにして誓うのは、「誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合」であって、世に在って求められることがあり、また教会の中で「神の栄光と隣人の救いのため」に求められることがあり、聖書の中で、そのような誓いが「正しく用いられてきたからです」と言われる。私たちの教会生活では、洗礼式や就職式における誓約がそれに当たる。また結婚式においても。
2、問答102「聖人や他の被造物によって誓うことはよいのですか。」答「いいえ。なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと呼びかけることであり、このような栄光は、いかなる被造物にも帰されるものではないからです。」主イエスは、律法学者やパリサイ人たちの偽善を鋭く指摘したうえで、偽りの誓いを厳しく戒めておられる。(13〜19節)当時のユダヤ人の社会で、人々は果たさねばならない誓いと、必ずしも果たさなくてもよい誓いを区別し、抜け道を設けようとしていた。正当な誓いは「ただ独り心を探る方である神」に対して誓うものであることを、はっきりと知らせるためであった。(20〜22節)真実を述べるべき時は、心からそれを証言することが求められいる。そして真実な誓いには、もし誓ったことを果たせない時は、「わたしを罰してくださるように」と呼びかける、祈りが込められることになる。ただ生ける神だけが、私たちの心の内を知っておられるからである。ただ独り、心を探る方である神に向かって、神の御名によって、誠実に誓うことの尊さをしっかりと覚えたい。
3、それにしても、私たち人間の言葉の軽さや卑しさ、また恐ろしさを思い知らされることが多い。世界中で、真実と偽りの区別がつき難くなり、ニュースを聞き分けること、見分けることが、ますます難しくなっている。教会はこのような時代の中で、キリストの福音、よきおとずれを宣べ伝え続ける使命を与えられている。その使命を果たすために、私たち自身が語る言葉に心を配ることは、今の時代にとても大事と思われる。誓う言葉はもちろん、常日頃の言葉、家で交わす言葉や社会で人と会話する言葉、それら全てにおいて、神の前に誠実に語ることを心に留めたい。聖書には、語る言葉に注意を促す教えが満ちている。旧約聖書にも新約聖書にも。主イエスご自身も使徒たちも。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことをいうくちびるをあなたから切り離せ。」(箴言4:23-24) 「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。・・・」(マタイ5:22)「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人を呪います。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」(ヤコブ3:9-10)「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)
<結び> 「主の御名を、みだりに唱えてはならない」との戒めは、やはり私たちが語る言葉を真実なものとするように、誓約をする時には、神の御前に誠実に誓うようにとの教えである。世の多くの人々の言葉が乱れ、誓約においても真実が失われている状況は、実に痛ましく悲しいことである。だからこそ、私たちキリストを主と信じ、この方に従って歩もうとする者は、一層、神の御前に真実に生きることを導かれたい。誓約をする機会があるなら、神の御前に誠実に歩めますよう、導いて下さいと、祈りを込めて誓約することができるように。失敗はしません!必ず実行します!とばかりに、無理な約束をする必要はなく、私を支えて下さい、誠実に歩ませて下さいと、祈りを込めて誓約することが求められている。その祈りを聞いて下さり、実現させて下さる聖霊なる神がおられるからである。初代教会において、聖霊が確かに目に見える形で弟子たちに降ったのが、ペンテコステ(五旬節)の日であった。今日、教会の暦で「ペンテコステ」の日であることを心に留め、私たちの語る言葉が聖霊に導かれるものとなるよう祈り、この週も主に委ねて歩ませていただきたい。
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