礼拝説教要旨(2019.06.02)  
虹をかける神
(創世記9:8-17) 横田俊樹師 

 今はどうか、わかりませんけれども、昔は、田舎の人にとって東京というのは、一種独特なイメージがあって、あこがれる若者が多かったと思います。私も、青森で生まれの青森育ちで、正真正銘の田舎者なんですが、やはり東京にあこがれて、高校を卒業して東京の大学に進みました。で、いろんな地方から集まってくるので、時々、いろんな方言にお目にかかることがありました。私はテレビを見ていたせいか、あまり訛りはないほうだったようなのですが、ある日、千円札を小銭に両替しなきゃいけなくなって、私はすっかり標準語を話しているつもりで、友達に「1000円札砕いてくる」と言ったら、お前、金づちか何か、千円札を粉々にするのか、と大笑いされました。青森では、お札を細かいのに両替することを、砕く、と言うんですね。 で、他の地方ではどうか、わかりませんが、青森では、昔、親友のことを「けやぐ」と言っていたようです。私の世代ではあまり使いませんが、父親はそういう言葉を使っていました。けやぐ、というのは、契約のことです。それがなまって「けやぐ」。親友が、なんで契約なのかな?と思って考えると、契約の契という字は「契りを結ぶ」の契りと読みますから、それと関係があるのかもしれません。契りを結ぶというのは、ただの約束よりも厳かに、厳粛に結んで、これは固い約束、絶対に裏切らないという、堅い堅い約束だということをあらわしたい時に、契りを結ぶということをするわけですね。そしてその時に、そのしるしとして、杯を交わすとか、何かしるしを付け加えます。 聖書には、「契約」という言葉が、時々、出てきます。ちょっと意外かもしれませんが、元々、旧約聖書の旧約というのは、古い契約の意味で、新約聖書の新約は新しい契約という意味ですので、聖書全体が神様から人に与えられた契約の書、という見方もできます。全世界、全宇宙を造られた神様が、私たちと、「けやぐ」になろうと、仰ってくださっている、と考えてもいいかもしれません。今日の所も、神様がノアたちと契約を結ばれるという所です。契約を結ばれ、そして虹をしるしとされたわけですが、どんな契約かな?と思って、よくよく調べてみると、そこには、神様の、私たち人間に対する深いご愛があらわれていました。
場面は、今から何千年前か、古代も古代、ノアの時代の、大洪水の直後という場面です。ノアたち以外の人という人は、みな、神様に背を向けて自己中心の道を猛スピードで突っ走って、弱い者は虐げられ、いのちさえ踏みにじられ、地は暴虐、暴力であふれかえるようになっていました。そこには、虐げられた者、故なく血を流された者たちの、叫び、嘆きが渦巻いて、天にまで達していたでしょう。それで義なる神様は、地を一掃せざるを得なくなって、やむなく世界大の大洪水による裁きを断行されました。が、その事を誰よりも悲しまれたのもまた、神様ご自身。一方では裁きながら、他方では心を痛める神様でした。そして、傷心の神様が気を取り直して、再び、やり直そうと、ノアたちに祝福の言葉をかけられたのが、前回見た9:1-7でした。「生めよ、増えよ、地に満ちよ。野の獣、空の鳥―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これら全てはあなた方を恐れておののこう。私はこれらをあなた方に委ねている。」と、これは最初の人アダムたちに語られたのと、同じ祝福の言葉をかけてくださいました。もう一回、人類にやり直しの恵みを与えて下さった神様でした。そして今回、大洪水の後で不安、恐れを引きずっていたであろう、ノアたちに身の安全を保障して、安心させるために、神様は、契約まで結んで下さったというのが、今日の所です。それもこれから見ていくように、契約とは言うものの、ちょっと、というか、かなり、変わった契約、というより、あり得ない契約、人間の世界では、考えられない契約でした。8-11節。

9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」
契約(ヘブル語・ベリート)とは言っても、まったく一方的な契約。神様からノアと息子たち、それに9節を見ると、まだそこにいない子孫たち。さらに10節を見ると、動物やその他のすべての生き物たちとの間に立てる契約です。まだそこにいない子孫も、動物たちも、契約に同意する事はもちろんできません。ですから、これは契約とは言っても、相手が同意する、しないの余地のない、神様からの一方的な契約です。そんな不公平な、不平等条約ではないか!と早とちりしそうですが、よくよく見てみると、あれあれ?とクエスチョンマークが飛び出し、やがて「そうだったのか!」とエクスクラメーション・マーク、通称びっくりマークが出てくるのです。というのは、その契約の内容は、11節にあるように、「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」というものです。神様が一方的に、いわば押しつけた契約だけれども、神様の側が得することは一つもない。益を受けるのは、人間とその他の被造物、動物たちだけ、という契約なのです。別な言い方をすれば、契約とはいうものの、義務を負うのは神様のほうだけ。二度と、大洪水では滅ぼさないという義務を、神様は負います。他方、人間の側、動物の側は、何か守るべき義務はない。いくら目をこすって探しても、どこにも書いていない。何かを破ったら、罰を受けるという罰則規定もない。それでいて、大洪水によっては滅ぼされないという、いわば身の安全を保証されたのです。まったく神様の側が義務を負うだけ。神様は、自分で自分に制限をかけられたというふうにも言うことができるでしょうか。二度と大洪水では滅ぼさないと。自発的に、ご自分の正当な権利・自由を制限されたのです。愛する人間、被造物のために。契約というのは、気分に左右されません。あの時はああ言ったけれども、あの時は、あの時、なんて屁理屈は通用しません。契約は契約です。もちろん、神様の場合は、ただのことばだけでも、この上なく確かで100%の信頼を置くべきものですが、私たち人間の弱さ、不信仰のために、私たち人間が確信できるように、安心できるように契約という形を取って下さったのでしょう。まったくもって親心から出た契約なのです。
思うに、あれほどの大洪水を経験したノアたちは、自分たちは助かったものの、かなり大きなトラウマになっていたのではないでしょうか。今度、ちょっと激しい雨が降るたびに、またあの時のようになるのではないか、と洪水の光景が思い浮かんで。確かに、神様は、こう言う事もできました。「お前たち、人間が堕落したら、またいつでも同じように大洪水を起こして、滅ぼしてしまうぞ!」と威嚇することもできたでしょう。でも、もしそうしていたら、ノアたち、子孫たちも、ビクビク、オドオドして生きる事になってしまったかもしれません。雨が降るたびに、生きた心地がしない。恐れ、恐怖に支配されたような生き方、人生になってしまったかもしれません。それは、神様が望んでおられることではない。神様はむしろ、ノアたちに、決して大洪水で滅ぼすことはないからね、と安心を与えることを選ばれたのです。そのために、ご自分の正当な権利と自由を自発的に制限されてまで。なぜなら、人の心というのは、恐怖を感じる対象を、愛するという事はできないから、ではないか、と思います。恐れている相手を愛する事はできませんね。恐怖心から、服従させられる、屈従するということはあっても、愛して、喜んで相手のために自発的に従うということは、恐怖による支配からは決して生まれない。 もちろん、神様は、まったく裁かないと言うことではなく、悪に対しては裁きを行われる方でありますし、それはそれで必要なのですが、一番のベースにあるもの、根底にあるものは、愛であり恵みなのです。その上で、私たちが悪に進んでいきそうになる時、私たちを守るために懲らしめを与えられる。やすっぽい、うすっぺらな、見かけだけの愛ではなくて、私たちを守り、また生かすためには、痛みを与えることもある、真実な愛です。そして、私たちの心の内に、神様に対する信頼が生まれ、愛が生まれ、育まれていく、そういう関係を望んでおられるのです。だから神様は、こんな手間のかかることをされているんだと思うんですね。愛と信頼というのは、インスタントに、楽してできるものではないでしょう。ただ神様の言うことを聞く者を作りたいんだったら、ロボットかなにか、機械みたいなものを作れば、手っ取り早いでしょう。神様が求めておられるのは、そういうものではない。人格のある人間が、自由な心をもって、心から納得して、信頼して、そこに生まれる愛の関係を持とうとして下さった。だから、神様は力づくで、恐怖で、人を支配することは望まれないし、最終的には尊い御子の十字架の犠牲という方法をもって、私たちに罪の赦しを与え、神様の子として下さるという手間も犠牲もかかる方法をとられたのではないか、と思うのです。まず神様の側が、これでもか、というほど、これ以上ない、愛をあらわされたんだと思います。
 本文に戻って、神様はノアたちに、この契約の、目に見えるしるしまでお与え下さいました。12-16節。

9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
契約のしるしは、虹でした。一応、誤解のないように、この時初めて虹ができたというのではなくて、虹はもともとあったんですが、それが、この時から、神様の契約のしるしとして定められたという事だと思われます。目前の大空に大きく掲げられた、七色の虹。虹を見ると、何かこう、希望を抱かせるといいますか、明るい気持ちにさせてくれるのではないでしょうか。全地を襲った大洪水のあと、見渡す限り、殺伐とした、荒れ果てた大地。しかしその上には、ノアたちを励ますかのように、鮮やかな虹を掲げて下さる神様です。
虹は、英語ではrainbowで、レインとボウに分けると、雨の弓という意味。旧約聖書が書かれたヘブル語でもケシェットと言って、弓という語です。雲を背景に、弓形に大空にかかる、七色の虹。あたかも天と地をつなぐ架け橋のようでもあります。契約を行う義務があるのは、神様ご自身ですから、15節にあるように、このしるしを見て、二度と大洪水で地を滅ぼさない、と思い起こすのも、神様ご自身のほうです。ノアたちにはその義務は負わされていません。ただ、ノアたちも、虹を見るたびに、神様もこの虹をご覧になって、あの契約を思い起こして下さっているのだ、と思い出すことは、あったでしょう。しかし、たとえノアたちが、虹を見ても神様の契約のことをすっかり忘れていて、何も思い出さなくても、神様のほうはこのしるしをご覧になって、契約を思い起こし、契約を守られる。そういう意味でも、いっさいノアたちの行い、行動に依存しないと言いますか、ただただ神様の側がこの契約を思い起こし、守られるという、そういう意味でも一方的な契約です。そう考えると、一方的であることもまた恵みなんだなあ、と思わされます。もしこれが、ノアたち人間の側も、虹を見るたびに、この事を思い起こさないといけないと条件がつけられると、それもまた落ち着かない、ハラハラ、ビクビクというありさまだったかもしれません。私たちのほうが忘れてても、神様のほうが覚えていて、守って下さる。まったく恵み深い契約です。そして、神様はこの時、実際に天空にかかる鮮やかな虹をノアたちに見せて、仰ったのでしょうか。17節。

9:17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
虹は、昔から、天と地をつなぐイエス・キリストの象徴とされてきました(エゼキエル1:28、黙示録4:3,10:1)。それこそ、私たちのほうは、イエス様のことを忘れてしまうことがあったとしても、―忙しい日常のあれやこれやに追われて、大切なイエス様がどこへやら、という事のほうが多いとしてもー神様のほうは常にイエス様に目を向け、私たちを永遠の滅びから救い出し、私たちをご自身の愛する子として下さって、永遠のいのちを与える、という契約を覚えておられます。イエス様も、常に、私たちのために執り成しをしてくださっています。
今、尊い神の御子イエス・キリストの十字架のあがないの御業のおかげで、私たちは永遠の滅び、地獄から完全に免れています。大洪水によっても火によっても、他の何によっても、あなたは滅ぼされることは決してない。その事を保証して下さいました。その上で、懲らしめ、訓練はあります。しかしどんなときにも、神様の愛とご真実は疑うことなく、信頼してよいし、信頼すべきなのです。先日の家庭集会でも触れましたが、ロマ8:15 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」とある通り、私たちは、キリストによって、神様の子どもとされています。その事は、決してくつがえることはありませんし、失われることもありません。永遠に有効な契約です。
ある人は、この箇所を、次のように注釈していました。「罪の黒雲と、そこに射す神の光の間に美しく神の慈愛を示す虹なる救い主イエス・キリスト。厳かで、美しく、悲しく、やさしい。しかも、虹はしばしの間、現れて薄れ、消えてゆくものですが、十字架は消えない不滅のしるしでした。」今までは、夏の風物詩のように見ていた虹も、これからは、虹を見るたびに、その虹を架けられた神様を思い、そして天と地をつなぐ架け橋のようなその麗しい姿に、イエス・キリストを思って、神様をほめたたえる者でありたく思います。