礼拝説教要旨(2019.05.26)  
苦難の日にはわたしを呼び求めよ  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:99〜100
(詩篇 50:7〜15) 柳吉弥太師 
 
 =ハイデルベルク信仰問答= 問答:99〜100       (詩篇 50:7〜15)

『第三部 感謝について:十戒について               第36主日

問99 第三戒は何を求めていますか。
答  わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、
    不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく、
    黙認や傍観によっても
    そのような恐るべき罪に関与しない、ということです。
   要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは
    神の聖なる御名を用いない、ということです。
   それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、
    わたしたちのすべての言葉と行いによって讃えられるためです。
問100 それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、
   それをできうる限り阻止したり 禁じたりしようとしない人々にも
   神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。
答  確かにそのとおりです。
   なぜなら、神の御名の冒涜ほど
    この方が激しくお怒りになる罪はないからです。
   それゆえ、この方は、
    それを死をもって罰するようにもお命じになりました。

 「十戒」の前半の四つの戒めは、「わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え」ていると、問答93にて語られている。それは生ける真の神に対して、神を相応しく礼拝することについてである。第一戒は「わたしだけを信頼しなさい」と民を招き、神の民が神との親しい交わりと喜ぶようにとの教え、第二戒は、偶像礼拝の罠を避けること、「御言葉の生きた説教」によって神の民は養われることの尊さが説かれていると学んだ。そして第三戒が続く。「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)神に礼拝をささげ、神との親しい交わりの中で生きる時に、「主の御名を、みだりに唱える」ことがあるとすると、それはどのようなことを指すのであろう。神を神として崇め、神に向かって祈り、また神を賛美する時、何を心掛けることが大事なのかと戸惑うこともある。問99「第三戒は何を求めていますか。」

1、答「わたしたたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を冒涜または乱用することなく、黙認や傍観によってもそのような恐るべき罪に関与しない、ということ、要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。」神には「名」があること、それが旧約聖書の時代の人々の考え方であった。従って、「神の名を呼ぶ」とは、「神ご自身を呼ぶこと」そのものである。すなわち「主の御名を唱える」とは、「主」という名の「神を呼ぶ」、または「呼び出す」ことにほかならず、主なる神に向かって祈ることの他、主を呼び出して誓うこと、また主によって他の人を呪ったりと、人は自分を権威付けるため、神を持ち出すことを、当たり前のようにすることがあった。信仰問答は、正しくそのような行為を戒めている。私たちが、他の人に対して自分を正当化するため、「神に誓って間違いがない」などと、決して言うことがないように、そして、私たちが、畏れと敬虔によって、心から神を礼拝し、神が生きて働いて下さるよう祈り求めるよう教えるのが第三戒である。神への信仰を言い表し、神に呼びかけ、祈り、私たちのすべての言葉と行いを通して、心から神を褒めたたえるようになるためである。

2、問答100で、具体的に触れるのは、神の御名を「冒涜」する罪についてである。神の御名を冒涜することのないよう心している人であっても、またそうでない人であっても、神の御名を冒涜する罪に対して、神は「激しくお怒りになる」と言われている。死に値するとまで。(レビ記24:16)神の御名を冒涜するとは、神ご自身を冒涜することになるからである。そのことを恐れてイスラエルの民は、モーセに告げられた神の名、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)を意味するヘブル語の四文字「YHWE」(新改訳「主」)について、聖書を読む時、声に出して読むのを躊躇い、遂には、何と発音するのか分からなくなった事実がある。(エホバ、ヤハウェ、ヤーウェ・・・)戒めを守ろうとする余り、文字通りに守り行い、本来の意味を見失うという、典型的な実例である。神ご自身がご自分の「名」を民に知らされたのは、「わたしはある」であった。「わたしは、いつでも、あなたと共にある」「あなたと共にいる」と。いつでも、どこでも、どんなことがあっても、「わたしを呼べ」、「わたしに頼ってよい」との招きそのものであった。冒涜する罪の恐ろしさを忘れることなく、肝心なことは、神ご自身に頼ること、心から神に祈る者であるようにと、神はご自身を現しておられたのである。

3、詩篇の多くは、神に対する祈りであり、祈りや賛美への招きである。祈りは祈りでも、激しい呻きの祈り、時には、不平や不満さえも神に告げる祈りが多くある。民の不信仰を責める神から叱責もはっきりと告げられながら、祈りへの招きが示されるという意味で、50篇にはいろいろな要素が満ちている。全てのことを支配し、善悪全てを裁かれる神がおられると告げながら、儀式的な礼拝に傾く民に、真心からの礼拝をささげるよう勧めるのが7〜15節である。「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(14〜15節)動物のいけにえや、一見いかにも礼拝をささげているように見える、外見的な礼拝より、霊とまことによる心からの礼拝を、神は望んでおられるのである。神への感謝をもって、神の御前に出るように、神に願って、心に決めたことがあるならば、その心に決めた通りに果たすように。そして、何よりも「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と、神は、私たちが神に頼り、神に助けを求めることを待っておられる・・・と。私たちは、「苦難の日」に、自分を頼り、また人を頼り、物やお金に頼ろうとしていることはないだろうか。「苦難」を苦難として認めることさえしないで、「苦難」のない日々を求めたりしている。「苦難」はできるだけ避けたく、「苦難」のないことを感謝し、しばしばぼんやりと、「安逸」の中で過ごすのを良しとさえしてしまう。それで良いのだろうかと、気になるところである。

<結び> 「主の御名を、みだりに唱えてはならない」との戒めは、自分の都合で神を呼び出すのでなく、すなわち、神の御名をみだりに唱えて、神を冒涜するのでなく、むしろ、神がいつも傍近くにおられ、私たちに手を差し伸べ、私たちを助けようとしておられると、心から信じて歩むようにとの勧め、また教えと覚えたい。常日頃、安易に「助けて下さい」と祈ることの多い私たちかもしれない。困った時の神頼みである。どんな些細なことでも祈るよう教えられ、「絶えず祈りなさい」と励まされている私たちである。その割に、本当に困った時に、果たして真剣に祈っているかと問われると、反省するばかりである。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」「苦難」の時こそが、私たちが神に立ち返り、神を仰ぐ時、神の御手が差し伸べられている時と覚えていたい。神が私たちの目には見えなくても、神ご自身は私たちに目を留め、私たちの心の内も見通して下さっている。そのような神、全知にして全能な神に、私たちは見守られている。私たちが生活している全ての場面で、神は、私たちの語る言葉や行いを全て見ておられる。「わたしはある」という神がおられる。その神を信じ、その神に祈りをささげることのできる幸いは計り知れない。生ける真の神の御名を呼び、救い主キリストを通して祈り、日々の生活において、語る言葉と成す行いとを通して、神を讃えることが導かれるよう祈りたい。日々御名を呼び、真実な祈りを導かれつつ。