『第三部 感謝について:十戒について 第35主日
問96 第二戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、
この方が御言葉において命じられた以外の仕方で
礼拝してはならない、ということです。
問97 それならば、人はどのようなかたちも造ってはならないのですか。
答 神は決して模造されえないし、
またされるべきでもありません。
被造物については、それが模造されうるとはいえ、
人がそれを崇めたり またはそれによってこの方を礼拝するために、
そのかたちを造ったり所有したりすることを、
神は禁じておられるのです。
問98 しかし、画像は、信徒のための書物として、
教会で許されてもよいのではありませんか。
答 いいえ。わたしたちは神よりも賢くなろうとすべきではありません。
この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、
御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。
「十戒」の第一の戒め、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」は、生ける真の神が、ご自分の民に「わたしだけを信頼しなさい」と、心を込めて語っておられる戒めであると覚えた。神は、私たちが神との親しい交わりの中で、神の救いと祝福の中を歩むように願っておられる。ところが、その親しい幸いな交わりを揺さぶるもの、壊そうとするものがある。それは「偶像礼拝の罠」であるので、信仰問答は、問95で「偶像礼拝とは何ですか」と問い、「御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです」と答え、私たちの思いを目覚めさせてくれる。十戒は、真の神と神の民との交わりが、いささかも乱されることのないために、神を愛して神と共に歩むには、神を相応しく礼拝することと教えてくれる。そのような視点で、第二の戒めが続いている。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・」(出エジプト記20:4〜6)
1、第二戒で、神が望んでおられることは明白である。「わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない、ということです。」目には見えない、霊なる神を礼拝するのに、人はついつい、自分の都合で見える形を求めてしまう。そして何かしらの形ある物を礼拝の対象としようとする。けれども大事なのは、「御言葉において命じられた以外の仕方」で礼拝してはならないと、心に刻むことである。それでも「それならば、人はどのようなかたちも造ってはならないのですか」と問い直すほどに、私たち人間の思いは揺れ動くことがある。真の神、霊である神は、「決して模造されえないし、またされるべきではありません。」神に造られた物(被造物)は「模造されうるとはいえ、人がそれを崇めたり」してはならず、たとえ神を礼拝するためと言っても、何かを形造ったり、それを所有することを、神は禁じておられる。ただ一人の神、万物を造られ、これを治めておられる神を、ゆめゆめ、被造物と並べる過ちを犯してはならない。「あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。・・・あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。・・・」(18・・・26節)
2、信仰問答は、なおも次のように言う。問98「しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか。」答「いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。」キリスト教会の歴史において、偶像礼拝とは区別して、何らかの画像が信徒のために有用とする考えがあった。聖像も聖画も「信徒のための書物」として用いられた。「信徒のため」と言って、子どもたちを含めて多くの信徒たちに、より効果的に聖書を教える手段として画像が重宝された。しかしプロテスタント宗教改革運動において、教会堂の中にあった聖像や聖画は、かなり徹底的に廃棄されたと言う。そのような状況の中で、なお「信徒のための書物として・・・」と、好意的に考えられもした。けれども、答は「いいえ」であり、「神より賢くなろうとすべきではありません」と明言し、教会が拠って立つのは、「物言わぬ偶像」ではなく、「御言葉の生きた説教」であると言って、「聖書」の尊さを説いたのがプロテスタントの立場であった。神は「御自分の信徒」すなわち「教会」を、「御言葉の生きた説教によって」教えようとしておられるのである。神の御言葉にこそ、私たち人間が生きる力の源があるからである。
3、「御言葉の生きた説教によって」との言い方に、教会が教会として立つ一番の根拠はここにありという、プロテスタント教会の神髄が言い表されている。私たちは「聖書は信仰と生活の唯一の規準」と信じて、「聖書」を大切にし、これによって養われている。そして、主の日ごとに礼拝において、「御言葉の説教」に耳を傾け、これによって養われている。(※「御言葉の生きた説教」と言われると、一瞬ドキッとする)教会の命の源は、「御言葉の説教」にあり、御言葉に養われ、私たちが御言葉に聞き従って歩むなら、それによって私たちは、神に栄光を帰すことになる。その時、神は私たちの教会の歩みを喜んで下さり、私たちを祝福して下さるに違いない。牧師たちは、説教を語ることに心を傾け、また、語られる御言葉に耳を傾ける信徒たちがいて、教会はこの地上で歩み続けるのである。実際のところ、私たちの教会、所沢聖書教会は、そのようにして、今日、「教会設立40周年記念礼拝」を迎えている。神が御言葉によって、私たちを養い、導いて下さったと、感謝に溢れるばかりである。これからも「御言葉の生きた説教によって」教えられ、導かれる教会であるよう、また「神より賢くなろうとする」過ちから、しっかり守られるよう祈りたい。
<結び> 最後に、1979年5月20日の「教会設立」当時のことを思い出してみたい。これまでも度々触れたように、当教会の所沢の地での伝道開始は1957年の秋頃である。その後、1968-9年に星の宮会館で教会学校と礼拝をするようになり、それ以来、なぜか星の宮近辺で集会所を移り変わり、1971年4月、私が招かれた時は元町の民家を借りての礼拝であった。やがて星の宮1丁目に移転し、1975年2月に長老教会に加入した頃から、自分たちの会堂を求めるようになった。祈り始めると、主の導きが次々と明確になり、1978年に土地と会堂が与えられ、4月と12月の二度の献堂式を経て、1979年5月20日に三名の長老と一名の牧師によって小会を構成する、長老政治における「教会設立」を導かれた。会堂の建設と連動するように、霊的な意味での「教会設立」を導かれたのである。心したのは、「所沢聖書教会」の名のごとく「聖書」に聞き従うこと、すなわち、神の「御言葉」に従うことであった。私たち人間の願いや努力、また熱心さが大事になるとしても、それ以上に大事なのは、神ご自身が生きて働いて下さることに拠り頼むことと言い聞かせつつである。使徒パウロが語った言葉を心に留めて歩み続けた。「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)また、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(テモテ第二4:2)今後も御言葉によって教えられ、養われる教会として歩めるように、また惑わされることなく御言葉に聞き従う教会となるよう祈り求めたい。天の御国に入る日まで、確かな信仰が養なわれ続けるように。
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