礼拝説教要旨(2019.05.12)  
やり直しの恵み
(創世記9-1〜7) 横田俊樹師 

イースターと、それから今年度の年間聖句の説教と二回続けて創世記から離れましたので、3月31日以来、一ヶ月ちょっと間が空いたことになります。ノアの洪水の所を見てきて、前回は、大洪水によって全地を裁かれた後、ノアのささげた礼拝を受けての神の心の中で語られた言葉を見ました。ちょっと振り返ると、天地創造の最初、地を治めるように、と地を人の手に委ねたものの、神から離れてしまった人間は自己中心の道を猛スピードで転げ落ちる一方。「生めよ、増えよ、」の言葉通り、人数は増えたかもしれませんが、地は暴力、暴虐で満ち、恐ろしい無法地帯となってしまいました。力こそすべて、強い者のやりたい放題の好き放題。その背後には彼らの餌食・犠牲となった無数の人々の叫び、嘆きがありました。そのため神様は、やむなく全地を裁かれたのですが、それでも、まるで悔やむかのように、もう二度と、このようにすべての生き物を滅ぼす事はすまい、と誰に言うともなく言葉が出てくる神様なのでした。まるで傷心の神様が涙をぬぐいながら、つぶやくかのようです。そしてこの9章、気を取り直すかのように、もう一度、かつてアダムに向けて語られたのと同じ祝福の言葉(1:28)を、ノアたちに向けられるのです。1,2節。
9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
9:2 野の獣、空の鳥、--地の上を動くすべてのもの--それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。
天地創造の最初、1:28では、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」という御言葉でした。それと内容的にはほぼ同じ祝福です。少し違うのが「これらすべては、あなた方を恐れておののこう」と動物たちが人間を恐れておののくようになるという言葉です。動物たちが危害を加えないようにという神様のお計らいでしょうか。ともかく、ただ数が増えればいいというのでなく、神様のかたちを持つ人間が全地に満ち、全地が神様の臨在に満ちた、生ける神様の神殿となって、神様の栄光をあらわすように!神と人とが共に生きる神の国のビジョンを遠く見据えて、その日を夢見て、なお人間をあきらめない神様なのです。ご自身に背いた人間をもなお、愛と忍耐をもって、祝福をやり直してくださる神様なのです。
そして、言葉の内容はほとんど同じでも、込められる思いは、あの裁きの後だけに、いっそう力がこもり、思いが込められていたでしょう。今度こそ、と。
そのために、ここで神様は新しい定めを与えられました。肉食の許可と死刑制度です。これはいのちの繁殖・繁栄と、いのちの保護のためです。まずは3,4節。
<いのちの繁殖・繁栄>
9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
最初、アダムたちには「種を持つすべての草と、種をもって実を結ぶすべての木」を食物として与えられていました(1:29)。それがこの時から肉食が許されました(3節)。個人的には、よかったな、と思います。焼き肉、とんかつ、牛丼、、、こういったものへの道が開かれました。もしかしたら、洪水で畑も果樹園も全滅していたこの時、肉食はどうしても必要だったのかもしれません。また肉類は高タンパクで必須アミノ酸を多く含み、またエネルギー源としても、穀物や果実よりはるかに優れていると言います。専門家でないので詳しいことはわかりませんが、素人の頭で考えても、荒れ果てた地をこれから耕し、畑や果樹園としていくには、スタミナが必要だったでしょうし、身体を酷使した後は筋肉がダメージを受けているそうですから、それを修復する上でも肉食が有効だったのかな、と思います。ともかく、こうして神様は物質的にも有効な備えをくださいました。
で、ここで、二つの注意事項が記されています。いわば神の民のテーブルマナーといいましょうか。一つは「生きてうごいているものはみな、あなたの食物」(3節)つまり、死骸はダメという事。洪水後、あちこちに動物の死骸があったでしょうが、それはダメと。これは実際に、衛生上よろしくないという事があったでしょうが、また、のちにモーセ律法でも、死骸は汚れたものとされたので、聖い神の民にはふさわしくない、そんな物は犬にくれてやれ、という定めがありました。良い意味での、神の民としての誇りを持つ、というのも、案外、大事な事なのかもしれません。良い意味での誇りというのはしばしば、私たちを悪から守る助けとなります。日本人はセルフイメージが低いと言われますから、なおさら「神の恵みにより、私は聖なる神の民とされたのだ!」と自分に言い聞かせるのも、よいのかもしれません。そうしてそれにふさわしい歩みをするようにと自覚を促されれば、よいと思います。
それから肉食の注意事項の二つ目。「肉を、そのいのちである血のままで食べてはならない。」(4節)。これは、動物の肉は食物のため、その血は贖いのため、と区別する事が必要だったのだろうと言われます。旧約聖書によると、血には特別な意味がありました。いのちそのものとさえ、言われています。それで、人が罪を犯した場合、身代わりとなるいけにえの動物が血を流す(=いのちをそそぎだす)事によって、その人のいのちが贖われるとされました(レビ記17章11節参照)。他にも、旧約聖書の律法には、血が、いのちを贖うという原理が教えられています。ですから、キリストが血を流されたというのも、血が象徴するいのちをそそぎだされた事を意味するんですね。罪なき神の御子のきよい、尊いいのちがそそぎされた。それは、キリストを信じるすべての者のいのちが、一人残らず、滅びから贖われるためだった。その大切な、聖なる原理を教えるため、食用の肉と儀式用の血とは区別される必要があったのでしょう。
続いて、次はいのちの保護のために与えられた制度です。5,6節。
<いのちの保護>
9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。
前に4章で見た、カインが弟アベルを殺した時は、カインは誰からも殺される事なく、生き延びるようにされました。本来、神のかたちに造られた人間は、死刑制度などなくても、善悪をわきまえ、人の命を奪う事など、決してしてはならないとわかっていたはずです。ところが実際には、人間は良心が麻痺し、全地が暴虐、暴力で満ちてしまったため、神の裁きを招いてしまいました。それでここからは、殺人を犯した者は「人の手によって」血を流される事が定められました。つまり、神は人の血の価を要求する権威を、人に与えたのです。制度として、殺人罪に対する死刑を定め、その刑罰に対する恐れによって、悪を抑制しようとされたのです。これは公的な権威の始まりとも言われます(ローマ13:1-5参照)。
それは、「人の手によって」行われますが、本質的には、5節に「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。」とあるように、神ご自身が要求する事でした(5節)。獣にでも要求するというのは、それほど人間のいのちは尊いという事でしょう。また5節に「兄弟である者にも」とわざわざあるのは、カインの件が念頭に置かれているのかもしれません。他人のいのちを奪った場合は死刑に処せられるが、兄弟の場合、身内の場合はよいのだ、カインが弟のアベルを殺しても神が守られたように、、、などと言わせないため、兄弟であっても例外なく、と念を押しているのかもしれません。
なぜ神ご自身が、人のいのちを奪った者に対して、いのちを要求するのか。それは、神は人を神のかたちにお造りになったから、と言われています(6節)。人の堕落後も、神のかたちは残されているのです。罪の影響により、だいぶダメージを受けてはいますが、それでも人間は人間、サルになったわけではありません。人間をやめたわけではありませんから、神のかたちは残っているのです。ですから、人をあやめる事は、神ご自身のかたちを損なう事。神ご自身に対する冒涜、反逆、殺意とみなされるのです。それゆえ、神ご自身が(人の手を通して)報復されるのです。どんな小さな、弱い者のいのちも、神ご自身が復讐者となられると宣言しているのです。人のいのちの尊さは、全世界の造り主が、あたかも自分のスタンプを一人一人に押して、保証しているかのようで、それは神聖不可侵、絶対的なものなのです。
死刑制度については、今日、いろんな議論があります。しかし人のいのちが、神のかたちを宿す神聖不可侵なものであり、これを奪う者に対しては神ご自身が報復者となられるほど、尊いものであるという事は、心に銘記しておかなければならないでしょう。
 こうして、彼らが地に満ちるための実際的な備えとして、肉食の許可、そして死刑制度という、いのちを保護する制度を与えられて、最後にもう一度、祝福のことばを繰り返します。7節。
<やり直しの恵みこそ、福音!>
9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
 「生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と、天地創造の時に、最初にアダムたちに与えられた祝福が、そのままここでも繰り替えされたのでした。ここで、私なんかは改めて考えさせられるのです。変わらないという事のありがたさを。以前通りの同じ祝福を与えられる事のありがたさを。ダメだったから、失敗したから、さっさと捨てる、ではない。人が罪を犯し、背き、裁きを身に招いたら、もう終わりだ、と私たちのほうは思うかもしれない。もう以前のようにはなれない、と。確かに、全く同じと言う事はないかもしれません。傷跡は残るかもしれません。それでも、神はなお、以前と変わらない同じ祝福を与えて、実際的な助けも備えてくださって、やり直しの恵みを備えてくださるのです。
ある意味、これは聖書に繰り返されるパターンかもしれません。キリストは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われました。そして彼らに罪の赦しを与え、神の祝福を与え、やり直しの機会を与えられました。いや、考えてみれば、教会の土台となった使徒たちからして、揃いも揃ってみな、目も当てられない醜態をさらしました。主の御名を宣べ伝えるべき使徒ペテロは、官憲が怖くて、主の御名を三度も「知らない」と拒んでしまいました。他の使徒たちもみな、同様に、主を見捨てて逃げてしまいました。ヨハネ・マルコは、パウロとバルナバとともに大事な伝道旅行の際、つらくなったのか、何か面白くない事があったのか、途中で放り出してさっさと一人で帰ってしまいました(使徒13:13)。4-5世紀のアウグスティヌスという人は、若い頃、放蕩生活をしており、当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と著書「告白」の中で述べています。それが、である。あれほどの主に対する裏切り行為をしてしまったペテロをも、なお変わらず使徒として立たせ続けました。そしてそんなどん底から立ち上がることを許されたペテロは、今度は、今度こそは、民の指導者、権威筋に取り囲まれて、議会の中に立たされて責められた時に、「人に従うより、神に従うべきです。」ときっぱりと言い放つまでに変えられたのでした。そしてその後、30数年でしょうか、使徒としての務めを全うしたのでした。あの、伝道旅行を途中で投げ出した、根性なしのヨハネ・マルコは、のちにはパウロが投獄されていた時にパウロとともにいるようになり、パウロ晩年にはすっかり頼りにされる存在となりました(第二テモテ4:11。そして彼は、今日、私たちの手元にあるマルコの福音書の著者となりました。アウグスティヌスは、カトリックからもプロテスタントからも尊敬される古代教父となり、後代に多大な影響を与えました。
?今日でも、イエス様は変わることのないご真実を持って、御心のままに、人々を召してくださっています。神学校時代に、ある先生から伺った話ですが、ある時、同じ教団の若い伝道師だったでしょうか、が、罪を犯してしまいました。具体的にはおっしゃいませんでしたけれども、教職者として決して許されない罪だとおっしゃっておられました。それでその先生は、その教団はもちろん、キリスト教年鑑で調べて、他教派にも、日本中の教会に、「この男はかくかくしかじか、罪を犯しましたので、決して貴教会においても、教職者として受け入れないで下さい。」と手紙を出したそうです。徹底的にやる方でしたのでそこまでされたそうです。ところが、数年後、その先生がたまたま東北地方の片田舎にある教会に行った時に、あの若い伝道者がはしごに登って、教会堂の看板を取り付けている姿を見掛けました。その姿は、主に御仕えできる喜びで、嬉々としていました。「おい、おまえは何でこんな所に居るんだ」と問いただすと、たまたま不思議な導きで、そこの教会の方から招かれて、そちらにくるようになったということでした。あの神学校の先生は徹底的に、キリスト教年鑑で調べて全部の教会に手紙を出したと思ったのが、たまたま抜けがあったのだろうとおっしゃっておられました。そしてその若い伝道者は、もう二度と、自分は伝道者として教会に仕えることはできないと思っていたのに、こうしてもう一度チャンスを与えられ、主に仕えさせて頂けるなんて、夢のようです、と涙を湛えて言われたそうです。その光景を前にしては、さすがのその神学校の先生も、もうそれ以上、何も言えなかったということでした。真実に悔い改めたもの、砕かれたものには、主御自身の方からまた召してくださり、立ちあがらせてくださる、というあかしでした。
ドキュメンタリー番組やドラマでも、挫折を経験して、もうダメだ、と言うところから再起したストーリーこそが感動を与えるでしょう。そしてそういうのが人を励まします。挫折もなくトントン拍子のサクセスストーリーは、何の感動も呼ばずに、へたをすると単なる自慢になりかねない。人に励ましを与え、希望を与えるのが、福音にふさわしいストーリーなのでしょう。天国に行ったら、きっとそういう、でもバラエティに富んでいつまでもあきることのない「あかし大会」が永遠に続いて、神様を褒め称え続けるのかなあ、、などと、これはわたしの勝手な空想ですが。。。
自分は、ペテロのような失敗も挫折もない、という方もおられるかもしれません。そういう場合でも、私たちはアダムの子孫として、みな、永遠のいのちを受けるに値せず、死すべき者、永遠の滅びに向かう者だったのが、キリストの十字架のみわざのゆえに、神様が最初から私たちに与えたいと願っておられた祝福を頂けるようになったのです。そのゆえに、神様に感謝を捧げましょう。
私たちを祝福にあずからせようという神様の召しは、決して変わる事がありません。その事を信じて、良い時も悪い時も、希望を持って、歩む者でありたいものです。