今からもう30年以上前になりますか、神学校には、説教演習という授業があるんですが、今日のこの箇所の16節「いつも喜んでいなさい」は、私が初めて説教演習で割り当てられた、思い出の箇所です。先生たちが、それぞれの学生に説教箇所を割り振るわけですが、私にはここの16節が割り当てられたわけです。そして時を隔てて30数年後の今、また柳先生からこの箇所を割り当てていただきました。神学校の先生方と柳先生と、共通して教育的配慮といいますか、愛を感じる次第です。
中学生の頃、私はムスッとしている、怒っているように見えていたようで、ある時、一念発起して笑顔にしてみたのですが、その場にいた女の子に「作り笑いは良くないよ」とアッサリ言われて撃沈した思い出もあります。大学生の頃には、私は空手部だったのですが、なぜかその日は、今日はソフトボールやろうぜ、という事になって、私は中学の時は野球部でしたし、結構楽しんでやっていたのですが、1ゲーム終わって、じゃあここで一応、解散にしてあとは残りたい奴だけ残ってソフト続けよう、という事になりました。それで私は楽しんでたので残ってやる方に回ったのですが、そしたら「おまえ、つまんなそうな顔してて、結構楽しんでたんだな。」と言われた思い出もあります。どうも、私は喜んでいても顔に出ないタイプというか、むしろ怒っているように見えるタイプなんだな、と改めて思った次第です。でも、ここに来て、再度、この箇所から説教する機会が与えられたのは、神様がもう一度、この御言葉を深く掘り下げてみるように、という御心で、もしかしたらちょっとだけ、変身するチャンスになるのかもしれません。
さて、個人的な話が長くなってしまいましたが、今日の説教題は、ストレートに「喜び、祈り、感謝」。これらはイエス・キリストが与えてくださった救いの「実」と言えるのではないかと思います。キリストの救いは、私たちのうちに尽きる事のない喜びを湧き出させ、聖なる神の御前に確信を持って祈る事を可能にし、すべての事について感謝すべきなんだという事を保証するものであります。
ここには「いつも」「絶えず」とありますが、文字通り24時間365日喜び続け、祈り続ける事は不可能です。ここはそういう「行為」というよりも、「状態」の事だと理解した方わかりやすいのではないかと思います。喜び、祈り、感謝といった事が、その人の基本的な霊性となっているように。そういう霊的特質を持つようにと。その人の生活の基調が喜び、祈り、感謝である状態です。 では順番に見ていきます。まず16節。
<いつも喜んでいなさい:救いの喜び>
5:16 いつも喜んでいなさい。
神様は喜びの神様です。神様が最初に私たちをお造りになった時、私たちを苦しめようと思って造られた、なんて事はありません。創世記で見てきたように、神様は私たち人間を喜びで満たそうと思って世界をお造りになりました。親が子どもの笑顔を見たくてあれこれとするように、神様はご自分の子たちである人間の喜ぶ顔を思い浮かべながら、目を細めてこの世界を非常に良い物として造られたのでしょう(創世記1:31)。人間が罪を犯した後でさえも、神様は豊かな食物をもって人の心を喜ばせてくださっていると使徒パウロもあかししています(使徒14:17)。また私たちの父なる神様は、世の初めから、私たちと永遠に喜びのうちに住むための、とっておきの御国さえも用意しておられます(マタイ25:34)。神様は、喜びを与えるために人をお造りになったとさえ、言ってもいいでしょう。ご自分の子どもである人間が喜ぶ事が、神様にとって何よりの喜びなのでしょう。
ところが、その喜びを奪い去るものが現れた。罪です。神様への不信、疑い、さらには神様に背を向け、反逆する心です。この罪によって、あらゆる善の源であり、喜びの源であり、そしていのちの源である神様との間に隔ての壁が生じてしまい、代わってあらゆる悲惨が世に満ちるようになってしまったと聖書は教えています。その最たるものが死です。死は、罪の結果です。罪があるから、死がある。罪がなければ、死もないんですね。そして死は、現実として否応なく例外なく、すべての人を支配しています。死はまぎれもない現実となってしまいました。死がまぎれもない現実であるという事は、罪もまぎれもない現実としてある、という事です。罪とか死とかというのは、何かとらえどころのないような感じがするのですが、実体のあるものとしてイメージしたほうがいいかもしれません。この罪と死の現実は、人が意識するしないにかかわらず、深く人の心に重くのしかかっているのではないかと思います。
しかし私たちを愛してやまない神様は、御子イエス・キリストによって、その十字架の死によって、罪の実体を粉々に粉砕し、跡形もなく消してしまいました。罪の実体が消え去ったので、死という実体も粉々に粉砕されて、もはや全く無力にされた。無効にされた。そのあかしが、キリストが現実に復活した事です。もはやキリストを信じる者には、死は完全に無効になった、無力化された、死の力は粉々に粉砕されて、もはや私たちを支配しない、死は私たちから消え去ったという事です。もちろん、肉体はやがて滅びます。しかし人間の本質である霊は、神のもとに引き上げられ、全くきよくされ、神の懐で憩い、肉体の復活を待ちます。ですから、クリスチャンにとっては、いわゆる死というのは、天国への凱旋なんですね。死はもはや死でなくなって、はるかにすぐれた場所への引越しなんですね。
この救い(罪と死を完全になくしてしまわれた事)がわかると、心の深いところから喜びが沸き起こるんですね。使徒ペテロは次のようにあかししています。(ペテロの手紙第一1:8-9)
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
ここを読んで、正直、まだこのように大きな喜びを得ていない人もいるかもしれません。それでもイエス・キリストを信じているならば、救われているので、その点は心配しなくて大丈夫です。ただ、この救いをハッキリと現実の事としてわかればわかるほど、喜びは大きくなるように思います。パウロは弟子のテモテに「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(第二テモテ2:8)と書きました。ダビデの子孫として、現実に人となってこの歴史の中に生まれ、そして実際に現実に死を無力・無効にして復活されたという事実を思う事が、私たちのうちに喜びを大きくし、力を与えてくれるカギなのかもしれません。
こうして救いを喜ぶ事は、私たち自身の信仰生活において大きな益をもたらします。使徒パウロは、ピリピの教会に向かって何度も「喜びなさい」と書きましたが、それは彼らの「安全のためにもなること」だと言いました(ピリピ書3:1)。普段はもちろん、目に見える状況が良くない時でも、試練の時でも、いやむしろそういう時こそ、試練の波に飲み込まれてしまわないよう、救いの喜びを思い起こす必要があります。救いの喜びは、目に見える状況にかかわらず、変わる事のない喜びです。とはいえ、もちろん、悲しむ事や怒る事を一切してはいけないと言う事でもありません。時には長い時間、悲しみ、嘆きのうちを歩まされる事もあります。それはそれで必要な時でもあるんですね。喜怒哀楽という感情は、神様が与えたものであり、それぞれに意味があり役割があります。悲しむべき時には心から悲しんでよいし、怒るべき時には怒って良い(キレるのではなく。理性を保ちつつ。)。すべての営みには時がある(伝道者の書3:1-8)。ただ、私たちの人生の土台にはイエス・キリストの救いにあずかっているという事実を据える事。そして時至ったならば、またそこに立ち返る事。そしてその救いの泉から尽きる事のない喜びの水を汲み続ける事が、神様の御心なのです。
この喜びは、誰も何物も奪い去る事ができない喜びです。そのゆえに、殉教者たちは喜びのうちに天に凱旋していったのでしょう。 それでは次に17節。
<絶えず祈りなさい:天は常に開かれている>
5:17 絶えず祈りなさい。
祈りも、イエス・キリストのあがないの御業のゆえに、開かれた恵みです。聖なる神様の御前に、罪という隔ての壁が立ちはだかり、神様と私たちの間の交わりを閉ざしていたのですが、キリストの十字架の御業のゆえに、その隔ての壁が木っ端みじんに吹き飛んで、霧が晴れるように天が開けたのです。祈る事が許されている事自体、大きな恵みです。そればかりか、全世界の造り主をわが父とお呼びして、信頼して、祈る事が許されている。いや、そう祈りなさいと招かれているのです(マタイ6:7-9)。神様はむしろ、私たちがもっと祈りのうちに御前に頻繁に来るのを、首を長くして待っておられるのではないか、と思います。このように愛されている子として、全宇宙の造り主なる神様を父とお呼びして祈る事ができるのは、キリストの救いにあずかった者の特権です。
「絶えず」というのは、もちろん24時間絶やす事なく祈り続ける事ではありません。祈りながら、並行して仕事をする事も難しいでしょう。祈りながら寝ることはもっと難しいでしょう。しかし折に触れて、生活の端々に祈る事は可能ではないでしょうか。Instant Prayerとかと言ったりもするようなんですが、とっさの祈り、みたいな感じでしょうか。たっぷりと時間を取っての祈りでなく、とっさの短い祈りですね。旧約聖書のネヘミヤ記という所に出てくる、ネヘミヤという人は、ペルシャの王のそばに仕える立場になっていて、王と会話をしていていましたが、ある時、とてっも大事な事を言おうとした時に、一瞬、神様に祈ってから、口を開いた(ネヘミヤ2:4)というふうに書いてあります。たっぷりと時間を取って祈る時も有益ですが、とっさの、短い祈りも神様は聞き逃さないんですね。そのほか、たとえば、道を歩いていてきれいな花を見て、「主よ、あなたの創造の御業を賛美します。」と祈ったり、電車の中、どこかで赤ちゃんが泣いて困っているお母さんの声が聞こえたら、「主よ。彼女たちを助けてあげてください。」と祈ったり。あるいは、心にかかる心配事とか、なぜだかずっと引っかかることとかあったりしたら、小さなものでも大きなものでも、神様の御前に持ってきて、祈る。静まって時間を取って祈れる時はそのように祈り、そうでなくても歩きながらでも電車の中でも、折に触れて祈る。神様にとって大きすぎる事もなければ、小さすぎる事もありません。
天は常に開かれているのです。 次に18節の最初。
<すべてのことについて感謝しなさい:十字架にあらわされた神の愛と真実のゆえに>
5:18 すべての事について、感謝しなさい。
「すべてのことについて」です。神様がすべての事を支配しておられ、その同じ神様は私たちを御子を下さるほどに愛しておられるという事実のゆえです。神様の許しなしには雀一羽、地に落ちる事はない。私たちの髪の毛一筋さえ、数えられている。そして神様はキリストの十字架において、私たちへの断固たる愛を示された。私たちのためにはどんな犠牲でも払うという強い意志を示された。神様は、私たちに対する真実を示されました。この真実を疑う事は、絶対にあってはならない事です。
「人間万事塞翁が馬」ということわざがあります。一見、災いに見えた事も、後になってみるとその事があって良かった、となる事があります。物事は、どう転ぶかわからないのです。しかし私たちにとっては、すべての事が益となり、すべての事が感謝となる事が保証されています。先の事は、具体的にはわからない。ましてや永遠の視点から見た時に、何がどうなるのか、私たちの頭では理解できない事がほとんどでしょう。地上に住む私たちには隠されていることもあります(ヨブ記1,2章)。でも一つの事は確かです。神様が真実な方だという事。十字架に引き渡された無残なキリストの姿に、その神様のご真実はあらわれています。そのことが、私たちの支えとなります。
そして、神様は、最悪をさえ最善に変えてしまわれる方です。神様の最愛の御子を十字架につけて殺してしまうなど、人類にとってこれほど最悪な事があるでしょうか。ないでしょう。しかし神様はそれをさえ、人類の罪の赦しのため、救いのための恵みとされました。神様の知恵は、私たち人間がはるかに及ばないのです。
また、実際に一見、感謝でないような事で、そのままでは文句しか出てこないような事があっても、「感謝しなさい」と聖書に書いてあったなあ、、、と思い起こして、改めて感謝できる事はないか、と別な視点から見てみた時に、それまで気づかなかった感謝な事に気づくこともあります。視野が狭くなって一面的にしか見れなくなっていた事柄を、より広い視野から物事を見ることができるようになるのです。
とはいえ、それでも、時に、私たちの頭では理解できない事があります。傷を受け、痛みが与えられる事もあるでしょう。また頭では、これもやがて感謝になるのだろう、と理解しても、感情がついていかない事もあります。しかし神様の御思いは私たちの理解を遙かに超えて高く深いという事はわきまえておかなければならない。そして理解はできなくても、信じる事を選び取る者でありたい。十字架につけられた無残なキリストのお姿のうちに、神様の真実があらわれているのですから。
こんな話を読んだことがあります。2,3歳の子どもが、手術をすることになりました。両親は手術室の前で子どもから離れなければならなりませんでした。手術室の窓から我が子の手術を見ているしかなかった。その手術はその子にとってどうしても必要な手術だったのですが、ただ幼子にはまだその事が理解できなかった。それで幼子は、自分が怖い目に遭っているのに、どうしてお父さんやお母さんは離れてみているだけで、助けてくれないんだろう、と感じたかもしれません。親は目を背けたくなるような、いたたまれない気持ちでいるのですが、それが必要であることを知っているので、その「痛み」からわが子を救い出すことはしないのです。やがてその子が大きくなって、物事を理解できるようになったら感謝するようになるでしょう。
神様は、私たちに必要な痛みは、取り除かない。それが必要であることを知っているから。私たちを愛しているから。私たちと一緒に涙を流しながら、その時を耐えておられる。しかし時が来れば、父なる神様の御心がわかって、感謝を捧げることになるのでしょう。
神様は、真実な方です。神様は、その事をキリストの無残な十字架によって示してくださいました。 最後に18節後半。
<これは、キリストにあって神の御心>
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
18節後半は、直訳すると「なぜなら、これが、あなた方に対する神様の御心だから。」「神様の御心」という言葉は重みがあります。単なる処世訓やパウロ個人のアドバイスではなく、神様の御心なのです。尊い御子の犠牲を払って成し遂げた救いであるから、その救いの恵みが少しも無駄にせずに、私たちが救いの実をならせる事を、神様は期待しておられます。その御心に従った時に、その先には大きな霊的祝福が用意されているのではないかと思います。私たちをさらなる喜びで満たすために。
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