創世記を順番に見ていますが、今朝は12章に入ります。聖書中、ひときわ大きく輝く一等星と言いますか、イスラエル人からも異邦人クリスチャンからも信仰の父と称されるアブラム、のちのアブラハムの生涯を見ていくことになります。使徒パウロは、アブラハムの信仰にならう者が、アブラハムの子孫であり、アブラハムとともに祝福に与るのだと言っています(ガラテヤ3:7、9)。その、偉大な信仰の父アブラハムの信仰の旅路をごいっしょに見てまいります。まずは12章1節。
12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
<1 偶像から離れて真の神へ:あなたの名は祝福となる(1-5節)>
(@1節:偶像の生活から離れて、天地の造り主のもとへ。)
1-3節の言葉は、この流れではテラの死後、ハランで語られたように見えますが、使徒7:2-3によると、アブラムたちがまだウルにいた時に語られたといいます。両方で(つまり2回)語られたという人もいます。
いづれにせよ、ここで「生まれ故郷」「父の家」を出るという事は、偶像崇拝から離れるという事です。前回観ましたように、そこは月の神を拝む風習が盛んな所で、伝承によるとアブラムの父テラはその偶像造りに職人だったと言います。しっかりと深く生活に絡みついて、根付いていた偶像崇拝から、キッパリと断ち切って、離れる。そして「わたしが示す地へ行きなさい。」とは、文字通りには主が示される地へ行く事ですが、それは主に心から信頼して従う事を意味しています。つまり主なる神に信頼する人生に入るという事です。しかもヘブル書11:8によると、この時、具体的にどこの地へ行くかは教えられず、ただ「わたしが示す地へ行け」と言われたと言います。全幅の信頼、文字通り全生活をかけた信頼でした。
ちなみにアブラムは、夢見がちで血気盛んな若造ではなく、この時75歳(4節)。しかも多くの財産やしもべたちを抱えていて、そう身軽に動ける身ではありませんでした。アブラムという人は、何を言い出すかわからないような、突然、突拍子もない事を言い出しては猪突猛進するタイプではなくて、思慮深い人物でもありました。また決して周りのことを考えない自分勝手な人でもありません。そのアブラムが、それなりに安定した豊かな生活を後にして、そこで築き上げてきた人間関係やそれなりの地位も整理して、妻のサラや甥のロトたちに不安を抱かせる事になっても、決然と主が示される地へ行く決心をしたのです。単なる気まぐれや昨日今日の思いつきではない。ただただ主なる神に対する全幅の信頼のゆえになした一大決心だったのでしょう。
異教国日本で、クリスチャンになると言うことは、ある人々にとってはアブラムのような決断だったかもしれません。幸いにして理解のある家であればよいのですが、因習の強い地域、家ではそれなりの覚悟が必要だったかもしれない。ある方は鎌倉時代の御家人帳にご先祖様の名前が載ってるような家で長男として生まれましたが、父親がなくなった後、先祖代々受け継がれてきた偶像に関わるものでしょうか、それらを処分したといいます。またある人は、大きな商家に生まれましたが、クリスチャンになる時、家の人たちに金輪際、この家とはかかわりがなくなると思えと言い渡されたといいます。神の恵みによって、その後、どちらの方もよき信仰者として今日も歩んでおられます。
続けて2-3節。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
(A2-3節:主の守りと祝福の言葉)
主は、ただああしろ、こうしろとだけ言って突き放すのではありません。主が何かをお命じになる時、必ず私たちを励ますための約束をともに下さいます。2-3節には「祝福」という言葉が4回も繰り返されています。天地の造り主があなたを祝福すると約束して下さいました。神様の約束は、決して言葉だけの空手形ではなくて、実質が伴った言葉ですから、アブラムは大いに励まされた事でしょう。
さらに3節前半では「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」とさえ言われました。あたかも「あなたは今から、わたしの家族だ。わたしの保護のもとに入ったのだ。わたし自身があなたを守る。」と言われたようなものです。主に従う者に、主の確かな守りの御手は離れる事がありません。
(B3節:自分だけでなく、周りの人に祝福をもたらす者に。)
しかも、アブラムに与えられた祝福の言葉をよく見てみると、ただアブラム自身が祝福されて、いい目を見る、というのではありませんでした。2節に「あなたの名は祝福となる」とあります。これはどういう意味なのでしょう。それは3御の「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という事でしょう。つまり神は、アブラムを通して、すべての民族に祝福をもたらすというのです。アブラムは、神の祝福を取り次ぐ管、神の祝福が周りに流れ出すための泉になる。そういう意味で、アブラムの名は祝福となる、というのでしょう。
これは直接的には、アブラムの子孫としてお生まれになるイエス・キリストの事を指します。マタイ1:1に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」とある通り、すべての人の救い主、神の御子イエス・キリストは、このアブラムの子孫としてお生まれになる。このイエス・キリストによって、全世界の人々は、信仰によって救いにあずかり、神の子とされ、永遠の御国を受け継ぐ特権を与えられる。罪とその結果であるあらゆる悲惨、嘆きが永遠に跡形もなく消え去った御国、代わりに永遠の喜びと賛美に満ちあふれる神の国に、事実、その時が来れば私たちは一人一人、栄光の体に復活して、自分の二本の足で立つ事になります。その時、キリストのうちにある者は、神の御顔を仰ぎ見るのです。
しかしそれだけではありません。私たちクリスチャンも、キリストにつらなる者として、周りに祝福を、恵みをもたらす者として召されています。アブラムによって、周りの国々が祝福されるように、私たちクリスチャンによって、周りの人たちが祝福されるように。私たちクリスチャンが祝福をもたらす泉となるようにと、神様は願っておられます。テレビでもぶっそうなニュースが多く、世の中には悪口、憎しみ、怒り、欺きが溢れているようです。みんなイライラして、何かに追い立てられるようだったり。そういう中に、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実をならせて、周りに振る舞う事ができたら、どれほど幸いでしょうか。キリストを信じた時に、キリストの御霊、聖霊が、私たちに与えられて、住んでくださっているんですね。これは考えてみれば、すごい事ですね。三位一体の神ご自身であられるお方、御霊なる神ご自身が、私たちの内におられると言うんですから。全宇宙を造られた神ご自身でもあられます。その御霊が、私たちの内に働いて、良い霊の実を結ばせてくださるんですね。それを御霊の実と言います。それはガラテヤ書5:22-23に書いてありますが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と挙げられています。こういう御霊の実を結ぶことに熱心でありたい。追い求めたいものです。また、憎しみあうところに平和を。争いあうところに平和を作る事も求めたい。また赦すと言うことにおいてもそうかもしれません。誰かが、あなたに対して罪を犯し、今もその事で心を痛め、苦しんでいるとしたら、その人を癒やす事ができるのは、あなただけです。赦しを与える事ができるように祈りましょう。
ともかくあなたの家庭は、あなたの職場は、あなたの置かれているところは、「あなたによって祝福される」この言葉を今日は、一つ、心に刻んで帰りたいと思います。この週、誰かに祝福をもたらす機会を求めて、機会があったら実践してみましょう。神様は、ただ私たちが自分だけが祝福される事を求めるような、自己中心である事を望んでおられない。私たち自身が造りかえられ、自己中心からキリスト中心へと変えられ、自分の欲に仕える人生から、キリストに仕える人生へと変えられる事を願っておられます。そうして神の愛、恵み、祝福が、私たちを通して周りの方々に及んでいく事を望んでおられます。そのような神様の祝福の泉、恵みの管とならせて頂けますように。
それでは次にいきましょう。6-7節
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、【主】がアブラムに現れ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった【主】のために、そこに祭壇を築いた。
<2 祭壇を築く生活:キリストによって神と共に歩む(6-9節)>
(@6-7節:この地を子孫に?神の約束を信じる。)
シェケムと言いますのはイスラエルのほぼ中央、ゲリジム山の東側中腹に位置する場所。東のヨルダン川から西の地中海にいたる、東西に走る道と、南北に通る幹線道路とが交差する、重要な町です。
ここで主がアブラムに現れて、ここが約束の地である事、そしてアブラムの子孫にこの地を与えると示されました。とはいえ、ここにはカナン人がすでに住んでいました(6節)。誰もいない未開拓地ではありません。これを下さるとは?どうやって?不思議に思います。
また「あなたの子孫に」という言葉は、アブラムにとってつまずきとなりかねない言葉でした。なぜなら妻サラは不妊でした(11:30)。アブラムは2節でも「あなたを大いなる国民とし」と言われていましたが、人によっては、そんな事を言われても、気休めか?それとも皮肉か?と思いかねないところです。しかしアブラムは、神様の言葉を信じて受け止めました。アブラム自身が何より願っていた事でもあったからでしょう。
神様は時に、私たちの願いを用いてでも、信仰を引き出される事があるように思います。それが肉の願いと思われるような事でも、たとえば福音書に出てくる病人や悪霊につかれた人たちが、自分が癒やされるためにイエス様のところに来て、その信仰のゆえに癒やされたという記事が、たくさんあります。また時にそんな事まで、、、?と思えるような事でも、何のためらいもなく疑いもなく祈って、聞かれて、感謝に導かれたという証しも聞きます。聖書は、いわゆる御利益宗教ではありませんが、私たちは祈りについて、あまりに行儀良く、堅苦しく、窮屈に考えすぎる傾向があるかもしれません。ピリピ4:6にも「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。ヘブル11:1「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ともあります。ホンネの祈りを捧げていいのではないかと思います。
祈りと言えば、韓国のクリスチャンの方には猛者ぞろいのようです。国民性というのでしょうか、それも賜物なんでしょうか。韓国でろうあ者伝道しておられるある宣教師の方がおられますが、日本語と韓国語の手話をなさる方でもうずっと前の事ですが、韓国のろうあ者牧師と結婚しました。当時、韓国でかなりセンセーションになったそうで、一般の新聞や雑誌にもとりあげられて、注目を浴びたそうです。韓国で結婚式をやって、それから日本でも結婚式をしたそうですが、そのろうあの牧師さんのご両親はよく祈る人だそうで、二人の結婚のことも祈ったそうです。で、お父さんは、日本での結婚式に、雲一つない晴天をお与えください、と祈ったそうです。自分の家に小さな祈りの小屋みたいなのを建てて、毎朝、そこで祈っているのだそうですが、どうか雲一つない晴天にしてください、とそこにこもって毎朝祈っていたそうです。そして結婚式。前の日までザーザー雨が降っていました、ところが、当日、まさしく雲一つない晴れ。見事にこたえられた。そしてまた翌日から雨がザーザー。絵に描いたように見事に祈りが答えられたそうです。韓国の人の祈りは具体的で、もしそうならなかったら、、、なんて恐れないで、気にしないで、遠慮しないで本音の願いを祈るようです。本音の願いというのは恥ずかしいとか、人から笑われるとかあるかもしれないんですが、そんなことお構いなしに、本音の祈りを真剣に祈ります。「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」本当に願っている事を、恐れずに、遠慮なく祈る、という事が、本来の祈りというものなのかもしれません。神様の前には取り繕っても無駄なのですから。また、お行儀のよい祈りしかできないから、熱もこもらないし、手ごたえもないのかな、などとも思います。
もちろん、だからといって何でもかんでも願った通りになるわけではなくて、あるものはその通りになりいますが、あるものはならないでしょう。でも、そうこうしていくうちに、自分の心の方が変えられて、ホンネの願い自体が変えられていく。例えば、最初は自分の事だけだったのが、他の人の事も気になって祈るようになり、教会の事を祈るようになり、福音宣教の事を祈るようになったり。そういう導かれ方があるのではないかと思います。はじめから、きかれないかもしれない、かなえられなかったら傷つくと言って、期待しないようにしてしまって、祈る事から遠ざかってしまうとしたら、それは神様が喜ばれないんじゃないか。それよりも、愛されている子が、心から信頼している父にお願い事をするように、私たちも天の父に、正しい良心と信頼をもって、心からの願いを祈る事を、天の父は喜ばれるのではないかと思います。
さて、アブラムは、主から頂いた約束に励まされて、そこからさらに南へ約35キロ、ベテルとアイへ移動しました。子孫が受け継ぐ地がどんな所か、踏みしめて見てみたいと思ったのでしょうか。8-9節。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は【主】のため、そこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
(A8-9節:祭壇を築き。)
ベテルとアイは、ふたごの町と呼ばれる近接した二つの町。ちなみに、ベテルは、エルサレム以外では最も頻繁に名前が出てくる町だそうです。
ここでアブラムは主のために祭壇を築いて、主の御名によって祈ったと言います(8節)。何を祈ったのか。さらにどこへ行くべきか、導きを祈ったのでしょうか。そしてさらに南へ向かい、ネゲブまで来ました。ここが後のイスラエルの南端になるので、アブラムはのちにイスラエルが受け継ぐ主要な町をほぼ北から縦断した事になります。
アブラムは、シェケムで祭壇を築き、ベテルとアイの間でも祭壇を築きました。祭壇とは、神に捧げるいけにえをほふり、焼いて、煙にして、神に捧げる所です。アブラムも、その前にいた信仰の先祖だちも、聖なる神の御前に自分たちは汚れた罪人である事をわきまえていました。神のきよさを知る者は、自分の罪深さも知る事になる。神のきよさを知らないと、恐れもなく、自分の罪深さに気づく事もない。人と比べているだけだと、みんな罪びとですから、気づかないかもしれない。しかしアブラムは神のきよさを知り、とてもいけにえなしに神の御前に出る事など、できないと感じていたのでしょう。聖なる父祖たちはみな、自分が神に受け入れられるためには、罪のためのいけにえが必要である事を聖霊によって教えられていたと思われます。
この祭壇は、イエス・キリストの十字架をあらわします。聖なる神の御前に、自分のような汚れた者、罪ある者が礼拝を献げたり、祈ったり、向き合ったりするのは、本来、不可能な事であった。ただ、ただひとり、まったく罪のないお方、生ける神の御子キリストが、私たちの罪のために犠牲となってくださった。そのゆえに、私たちは神の御前に大胆に出る事ができるのです。神ご自身が備えた犠牲であるから、完全な犠牲です。献げられた犠牲自身も神の御子ですから、完全な犠牲です。このお方を通して、初めて、私たちは、聖なる神の御前に祈る事ができるし、礼拝を捧げる事もできるようになりました。このお方のゆえに、信じるひとりびとりは、これ以上ないほどに、神様に受け入れられているのです。それどころか、このキリストを信じて、心の内にお迎えしたならば、そこに神がご臨在くださる。すなわち先ほども言いましたが、御霊なる神が私たちのうちに住んでいてくださるのです。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」(ローマ8:15)この御霊は、私たちをキリストの方へ、神の方へと向けさせ、促し、導いて下さるお方です。
祭壇を築くとは、キリストを覚える事。そしてキリストを通して神との交わりを持つ事です。ご自身の最愛の御子をさえ下さった父なる神の御心・ご愛を覚えて。こうして神様との交わりが豊かにされ、確かなものとされていくのでしょう。
<結び 戒めによってでなく、約束によって生きる>
神様は、悔い改めてキリストを信じる者に、御霊を下さると約束して下さいました。この約束によって生きる者でありたいと思います。キリストが成し遂げて下さった十字架の御業のゆえに、信じる私たちに神の御霊が住んでおられる。その約束を握りしめて始める一日は、喜びがわき、励まされ、勇気づけられ、また期待して歩み出す事ができます。私たちクリスチャンは、戒めによって生きるのでなく、約束によって生きるものです。確かに聖書には戒めもたくさん書いてあります。それもありがたい道しるべであり、訓練に資するものです。ですが、戒めを守る事自体が目的化してしまうと、喜びがなくなり、次第に疲れます。うまくいった時は高慢になり、失敗した時はみじめになり、、、と感情の浮き沈みが激しくなります。もちろん、人間は、感情に波があるものですし、状況もいろいろあります。しかしどんな時でも変わらない、神の約束によって生きるという、このライフスタイルは、この不確かな人生の中で一つの大きな錨のようなものを与えてくれるでしょう。
先に、私たちは周りへの祝福をもたらすために、それぞれの場所に置かれていると言いました。この一週間のうちに、そのような機会が与えられた時に、行動できるように。実を結ぶことができるように。そのために、一日のはじめに、神様の約束を思い返し、この私のうちに、神ご自身であられる御霊が住んでおられるのだと確認する。そして御霊に励まされ、導かれるように願います。一つでも二つでも、御霊の実を結ばせて頂きたい。それを妨げる肉の思い、悪い思いは十字架につけて、御霊に十分に働いて頂けるように心がけるようにしたいものです。神の臨在があるところ、そこは神の国ですが、それが行いにおいて御霊の実を結ぶ時に、目に見える形で神の国がそこにあらわれる事になります。私たちのいるところが、そういう意味で目に見える神の国となりますように、そのような神様の祝福が流れるところとなりますようにと祈ります。
|