礼拝説教要旨(2019.08.11)  
汝、殺すなかれ  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:105〜107
(マタイ 5:21〜26) 柳吉弥太師 

『第三部 感謝について:十戒について               第40主日

問105 第六戒で、神は何を望んでおられますか。
答  わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、
    わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、
    侮辱したり、殺してはならないこと。
    かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。
   さらに、自分自身を傷つけたり、
    自ら危険を冒すべきでない、ということです。
   そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです。
問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
答  神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、
    ご自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、
    復讐心のような殺人の根を憎んでおらること。
   またすべてそのようなことは、
    この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。
問107 しかし、わたしたちが自分の隣人を そのようにして殺さなければ、
    それで十分なのですか。
答  いいえ。神はそこにおいて、
    ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、
    この方がわたしたちに求めておられるのは、
    わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、
    忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、
    わたしたちの敵にさえ善を行う、ということなのです。

 「十戒」の第六戒も極めて明解である。「汝 殺すなかれ」(文語訳)の一言。新改訳は「殺してはならない」と、一層単純である。この戒めは、隣人との関係におけるもので、単なる殺傷全般のことではない。人を殺めてしまうことを戒めている。ところが、しばしば私たちはこの戒めを心に留めながら、人を殺すことにのみ関わっているとして、そこに至る心の内にある思いを見逃している。主イエスが語られたのは、その点についてである。第五戒において、神が私たち一人一人を生かして下さっていることを感謝し、神の御手の守りを喜ぶことにも目を開かれた私たちは、自分の周りにいる人々、隣人のことを尊ぶよう導かれたはずである。その歩みに必要なこととして、「殺してはならない」は、隣人の命を尊ぶ第一歩、最も基本的な戒めである。問答105〜107は、主イエスの教えに符合するものとして説かれている。

1、問答105の答において、「わたしたちが」とは言わず、「わたしが」と一人称単数にて言われていることに意味がある。私たち一人一人、自分のこととして「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきではない、ということです。」これが第六戒で、神が私たちに求めておられることである。その戒めが確かに守られるために、「そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです」と補足されている。けれども、すぐに、人を殺さなければ、それで戒めを守れた・・・と安堵してしまう、そんな私たちでもある。問106「しかし、この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。」答「神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」神ご自身は、あらゆる「殺人の根」を憎んでおられる。主イエスはそのことを明言された。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。・・・」(21〜26節)

2、「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心」、それらは「殺人の根」なのである。そして神は、そのような「殺人の根を憎んでおられる」ことを、私たちははっきりと知らなければならない。神に背いた人間が、自分を誇って歩み始めた時、たちまちの内に兄が弟を殺すという、恐ろしくも悲惨な出来事が起こっていた。カインはアベルに対して、ねたみや憎しみ、また怒りを募らせ、自分の心を制することができなかった。神はその時、警告を発しておられた。(創世記4:1〜7)「殺人の根」をご存じで、これを憎んでおられるからである。だから「殺してはならない」と命じて、常に歯止めをかけておられる。それでも、まだ人は言い逃れの道を探す。問107「しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。」この問には、殺人はもちろん、「隠れた殺人」も、私は遠ざけている・・・と、自分は神の前に潔白と言いたい、そんな思いが私たちにあることを気づかせてくれる。答「いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」「汝、殺すなかれ」また「殺してはならない」のどちらで覚えるにしても、神ご自身は、あくまでも「殺さない」ことより、隣人を本当に愛することを求めておられるのである。

3、「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じように大切です。律法の全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」(マタイ22:37〜40)十戒の要約として、主イエスはこのように教えて下った。第二の戒めの冒頭が第五戒であって、「殺してはならない」の第六戒が続く。そして、隣人を愛することに関しては、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とまで、徹底して愛するよう命じられた。(マタイ5:44)隣人への危害をできうる限り防ぐことに止まらず、「敵に対してさえ善を行う」のは、主イエスの教えの中心である。それは生ける真の神ご自身の御心であると、はっきり心に刻むことが大事となる。こうした教えには、人と人、民族と民族、また国と国の対立など、この地上に争いが尽きない現実があるとしても、私たちは一人一人、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じる者として、何としてでも、主に従う者としての生き方が求められていると、痛感させられる。争うことではなく、互いに和らぐことこそ主が望んでおられる。神は私たち人間を、一人一人、尊い存在として認め、愛して下さり、罪と滅びから救い出すため、キリストを遣わして下さった。神の愛に触れて、私たちも互いに愛し合うことができるようにと、また、神の戒めに喜んで従うことができる者にと造り変えて下さったのである。キリストの十字架の死を無にしてはならない。

<結び> この8月、「汝、殺すなかれ」の戒めとともに、暗唱聖句の言葉を覚えて過ごしたい。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)この言葉に、「そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです」との言葉が続いている。キリストにあって、罪を赦された者に神との平和が与えられたなら、その平和がいつも私たちの心を支配することを、私たちが喜び、その平和が他の人々に及ぶことを祈り求めること、それが私たちの務めと自覚できるように。私たちが「キリストの平和」を、しっかり心に留めて歩むこと、それは何にも増して大事なことであろう。争いを起こさず、争いがあるなら、それを鎮めることに、人と人が互いに心を開けるよう、私たちの知恵と力を注げるように。私たちが住むこの地上に、キリストの平和が満ちることを真剣に祈りたい。また、必要な時には、立ち上がる覚悟を与えられたい。時代は、ますます悪くなっていると実感する。人の命が軽んじられ、尊厳が保たれない社会に、怒りや憎しみが増大している。だからこそ、私たちは神の愛に触れ、互いに愛し合う教会の交わりを大切にすること、神の愛を証しする使命をいただいている。神によって力づけていただき、御心に叶う歩みが導かれるよう祈りたい。
※私たちの国また世界は、とんでもない状況にはまり込んでいるのでは・・・と思えてならない。身近なところで、怒りや憎しみ、また苛立ちが溢れているかのよう・・・。もっと心穏やかにされるように、また冷静になれるように・・・。