「心を尽くして」主に尋ね求める・・・ 心を尽くせる物ってこの世にあるのか。
「幸いなことよ」とありますが、非常に身近な言葉です。
幸いであることを誰もが求めています。
だれも、破滅的人生を「幸せ」と言って求めはしないでしょう。 よ
この詩篇はダビデの作と言われることがあります。
彼自身、人の裏切りをも体験しています。
いや、彼自身、誰よりも人を愛し、神の助けと神の聖い愛に導かれた人はありません。
しかし彼の理性はあるとき、突然破綻(はたん)します。
119:1 主の御教えによって歩む人々こそ「幸いな人」との定義は見方によっては皮肉っ ぽく聞こえてきます。
119:2 幸いなことよ。主のさとしを守り、「幸い」の意味の深みを知ったからと言って、心を 尽くして主を尋ねるとか、
119:3 不正を行わず、主の道を歩むとか、
119:4 あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられたからと言うとか、
119:5 私の道を堅くして、あなたのおきてを守るようになるとか、
119:6 そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることはない、などと言う。 そんなことができるでしょうか。
119:7 また、「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに従います。」と、
言い得るでしょうか。
119:8 「あなたのおきてを守ります。」から、「どうか私を見捨てないでください。」はあり得 ます。
何年か前の出来事はショックを禁じ得ませんでした。立派なクリスチャンの家庭に起こっ た出来事です。悲劇は突然に訪れました。NHKのニュースで報じられました。
多くのキリスト者を臆病にさせました。
じゃあ、幸せの条件を どのようにして実現しますか。
実は、ペンテコステがその答えでした。何故ですか。
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