礼拝説教要旨(2019.04.21)  
神の畑   =イースター礼拝=
(コリント人への手紙第一15:1-8)  横田俊樹牧師

<福音の根幹:十字架と復活の事実>
使徒パウロは、コリントの兄弟姉妹たちに改めて「福音」を知らせましょう、と言って、このイエス様が十字架にかかられた事と、そして復活された事を書いた。もちろん彼らはすでに聞いていたし、受け入れていたはずだが、いつの間にか、その大事な所からそれてしまった人たちがいた。それは枝葉の事ではなくて、福音の根幹に関わる、放っておけない、重大な問題だった。それでパウロは改めて「福音」をここで語る必要があったのであろう。1節「それによって立っている福音」と言う事は、別な言い方をすれば、この福音から逸れたら、倒れるという事。そういう死活問題だと言う事。2節でも同様、パウロが宣べ伝えた福音から右にも左にも逸れず、この福音に留まれば、この福音によって救われる。ここから逸れたら、救われない、すなわち滅びと、事の重大さを確認する。
では、その福音とは何ぞや?という事が3-5節に簡潔に書いてある。一言で言えば、イエス・キリストの十字架と復活という事実。これが最も大切な事だと言う。勿論他にも大切な事はあるが、ギリギリまでそぎ落としてそぎ落として、最後に残るもの、一番大切な事は、これだと言うのである。葬られたというのは、キリストが本当に死なれたという事を確認させるもの。ケパに現れ云々というのも、キリストが本当に復活された事を確認させるものである。キリストが十字架にかけられたのが歴史的な事実であるのと同じように、キリストが復活されたのも歴史的な事実。両方とも同じように、この歴史の中で、事実、起った出来事だと。そしてそれが福音の核心中の核心。この「事実」こそが、最も大切だというのである。
<理屈でなく証言>
 昔から、永遠のいのち、あるいは死後のいのちがあるのか、ないのか、と言うのは、人々の重大関心事だったわけで、いろいろと理屈を述べ立てて、あると言ったり、いや、ないと言ったり、思想家たち、哲学者たちによって議論されてきたと言う。どっちももっともらしい理屈を並べるわけだが、しかし、いくら議論しても、結局、カタはつかない。五分五分といったところのようである。しかし、福音書が記録するこのキリストの復活に関しては、理屈でなくて、事実復活した、という証言なのである。あるだろう、ないだろう、という思想、哲学、そういう理屈でなく、実際に復活されたイエス様と会った、話もした、という人たちの証言集なのである。科学の世界でも、いくら優秀な人が、立派な理論を作りあげても、実験してみて違ったら、それは違う、という事になるだろう。明々白々である。理屈よりも、事実。同じように、キリストの復活も、あるはずだとか、いや、ないに決まっている、という理屈でなくて、実際にどうだったのか、証言の信ぴょう性を調べる事のほうが、意味があるであろう。なので、いくつか、キリストの復活に関する聖書の証言を確認していきたい。
(証人は複数)
まず、復活されたキリストと会ったのは、一人二人ではなくて、5節に書いてあったように12弟子たち。目撃者が12人もいたというだけでも十分だが、6節を見ると500人以上の兄弟たちに同時に現れた。一人二人だったら、もしかしたら見間違いとか、勘違い、という事もあるかもしれないが、これだけの人数が同時に勘違いというのは考えにくいだろう。
(40日の間、何回も会っている)
人数の次は、期間と回数。キリストは復活されてから40日間、いろんな機会に何度も弟子たちに現れた。一回きりではないのである。弟子たちは、福音書に記録されているだけで、最低でも4回 (ヨハネ21:14、使徒1:3以下)会っている。記録されていないものもあるようだから、それ以上だと思われる。これも、一回や二回なら、もしかしたら見間違い、勘違いという事もあるかもしれないが、何度もとなると、見間違いや勘違いではないだろう。
(朝日を浴びて)
 次に、場所は?どこで会ったのか?どういうところで目撃したのか?夜中の、薄暗い部屋とか、そういう怪しい所じゃないのか?と言ったら、どういたしまして。なんと明るい朝日を浴びて、屋外、外、湖の湖畔でも会っている。弟子たちは朝、湖に漁に出ていて、岸に戻ると、そこでイエス様がパンと炭火を用意していて、すぐに魚を焼いて食事ができるようにして下さっていた。明るい朝日を浴びて、野外で、復活されたイエス様と弟子たちは会っているのである。
(幽霊ではない)
 それじゃ、それは幽霊だったんじゃないか?というのもお決まりのコースで、それは他ならぬ弟子たちも最初、「霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)と正直に書かれている。イエス様の弟子たちでさえ、最初は信じられなかったのである。イエス様は前もって、十字架にかけられてから、三日目に復活すると仰っていたのだが、右から左で、聞いてなかったのであろう。それでイエス様は、「わたしの手や足を見なさい。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。」とおっしゃった(ルカ24:39)。その上、ある時などは、イエス様は弟子たちがもってきた魚を、その場で召し上がった。仏壇や神棚に供えたご飯などは、いつまで経ってもなくならないが、イエス様は魚をちゃんと召し上がったのである。
だから弟子たちも、最初は、見ても信じられなかったのだが、何度も、いろんな場所でお会いするうちに、信じるというのでなく、認めざるを得なくなったというのが、本当のところである。何度も何度も復活の肉体を持って現れて下さるので、もうこれはいやでも事実と認めざるを得なかった、現実を認めざるを得なかったという事なのである。
(弟子たちが口裏を合わせていた?)
疑り深い人は、弟子たちが口裏を合わせていたのではないか、本当はキリストは復活などしていないのに、復活した、と口裏を合わせていたのではないか、という。仮にそうだとすると、まず彼らは墓に葬られていたイエス様の遺体を運び出して、どこか他の所に隠さないといけない。そうでないと、いくら彼らが、イエス様が復活したと言っても、反対派の人たちがイエス様の遺体を出してみせれば、一発で嘘だとわかってしまうから。で、ユダヤ人たちも同じ事を考えていて、弟子たちが墓からイエス様の遺体を盗み出して、空の墓を指して、イエス様は復活した、と言い出さないように、墓を兵隊に守らせてくれ、とローマの総督にお願いして、そうしてもらっていた。泣く子も黙るローマの兵隊が墓の番兵をしていたのである(マタイ27:62以下)。それに対して、当の弟子たちはどうだったかというと、それどころじゃない。次は俺たちも捕まるんじゃないかと、ユダヤ人たちを恐れて、部屋に鍵かけて集まっていた(ヨハネ20:19)。自分たちもイエス様に従っていたわけだから、イエス様の次は自分たちだ、とビクビクしていたのである。とても盗み出せる状況ではなかった。
それにである。そんな嘘をついても、彼らは何の得にもならなかった。彼らが福音を宣べ伝えた結果、彼らはどうなったか。かえって迫害され、むち打たれ、牢に入れられ、、、と福音を宣べ伝えたために、彼らはそんな苦しみを受けたのである。そんな苦しみを受けて、もし嘘だったら、12人の内、絶対に誰かは口を割るだろう。何のために、そんな苦しみを受けてまで、宣べ伝え続けなければいけないのか。嘘っぱちのために。
しかし彼らは、誰も口を割らないだけでなく、彼らは最後はみんな、殉教したのである。嘘のために、命を捨てられるだろうか?しかも一人二人でなく、12人がそろいもそろって。先に、何度もイエス様は弟子たちに現れたと言ったが、そうする必要があったのだと思う。一回、見たくらいだったら、弟子たちも人間だから、あまりに苦難が続くと、あれはやっぱり、何かの見間違いだったのかなあ、気のせいだったのかなあ、やっぱり死人がよみがえるなんて、あるわけないよな、、、と思ってしまうかもしれない。でも、どうやっても疑う事ができないくらい、どう否定しようとしても否定できないくらい、何度も何度も繰り返し、これでもかと、現れて下さって、それも自分一人でなく12人がいっしょにいるところに現れて、しかも、それだけでなくイエス様は私に触りなさい、まで言って、いっしょに魚まで食べてみせた。どこから見ても、どう考えても、否定のしようがない、事実と認めたくなくても認めざるを得ないくらい、ご自分が復活された事を弟子たちにわからせてくださった。どう考えても勘違いとか幻覚とかではない、認めざるを得ない、キリストが復活されたという事実を、彼らは身をもって知っていたからこそ、死を恐れる事なく、殉教に至るまで忠実でいられたのではないだろうか。
こんなふうに、聖書の証言を偏見や先入観なしに、調べてみると、どう読んでも、弟子たちの見間違いとか、気のせいとか、あるいは作り話とか、という道はふさがれて、事実、キリストは復活された、という結論を指し示しているように思われる。聖書の神は、まったくの無から、全世界を、全宇宙を造られた方だから、死者をよみがえらせる事くらい、何の問題もない。
 <立ち止まってよく考えて。事の重大さに気づいて。>
 ちょっとよく考えてみてもらいたい。事実、実際にキリストが、聖書の証言通り、死を打ち破って、復活したとしたら、これは大変な事である。世界が一変する。全ての人が服してきた死というものを、完璧に打ち破って、風穴を開けて、死を無力化して、復活されたのである。他にこんな人は、いない。世の中には、立派な人、すごい人がいるけれども、死を打ち破って復活した人はほかにいない。キリストだけである。キリストは、神の御子であられて、私たち人間の救いのために肉体を取られた方だからである。
 <初穂としてのキリスト。後に続く私たち。神の畑。>
 そして最後に覚えたいのは20節の言葉である。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
「初穂」と言われている。お米でも、麦でも、その年の、最初に収穫される穂。そのあとお米なり麦なり、どんどん収穫が続く。同じように、キリストの復活も「初穂」というからには、そのあとに同じ種類の収穫が続く。それはキリストを信じる私たちである。世の終わりの時、神がお定めになっておられる時が来れば、キリストを信じるひとりひとりも、同じように続々と復活する。栄光の体に復活するのである。キリストが初穂として、事実、復活されたように、私たちも時が来たら後に続くのである。キリストは、実際に復活があるんだよ、という事を、実際に見せて下さったのである。そして神が、世の初めから私たちのためにとご用意して下さっている御国を、私たちもキリストとともに受け継ぐ。正義の住む、その永遠の御国において、幽霊みたいなのではない、ちゃんと自分の二本の足で立ち、何かおいしい食事を食べ(ぶどう酒まで飲み!)、また低気圧が近づいて頭が痛くなったり、動くたびに膝だの腰だの痛いという事もなく、健康体で永遠に神とともに、またきよめられて兄弟姉妹たちとともに、いのちに満ちあふれて生きる。そこには死の影はなく、悲しみ、嘆きもすべて消え去って跡形もないと言う。その、私たちが満ち足りている姿を見て、誰よりも喜ばれるのは、神である。その日は、私たちの喜びがまっとうされる日であるとともに、神の喜びが全うされる日となるのだろう。
今日の説教の題は、「神の畑」とした。「神の畑」というのは、ドイツ語で墓地の事を言うそうである。初穂であるキリストに続く者たちが、そこから復活するという希望を思わせる呼び名である。クリスチャンにとって、墓、墓地はもはやおどろおどろしいものではなく、やがて来る復活の時を待ち望ませる、神の畑と言えるのである。
私たちの復活が、あいまいな理屈とかではなくて、事実、実際にそうなるのだという事を、実証して見せてくれたイエス・キリストの復活。事実、死を打ち破って、死を無効にして、死に勝利されたキリストの復活に、私たちも続くのだと覚えて、賛美を捧げたい。