今年の教会の暦は、今日から「受難週」となり、次週に「イースター礼拝」を迎える。世界中のキリスト教会にとって、救い主キリストの「十字架」、そして十字架の死からのよみがえり、「復活」を祝う喜びの季節である。いわゆる「教会歴」によると、クリスマスと並ぶ大切な事柄であって、イースター前の約四十日も特別な時(四旬節:レント)とされているが、私たちの教会では、緩やかに「クリスマス」「イースター」、そして「ペンテコステ」を覚えて一年を歩んでいる。それは、カトリック教会とプロテスタント教会の違いを意識することと、暦に縛られないために(※ガラテヤ4:8-11)であるが、今朝は「イースター」前の「受難週」を覚えて、マタイの福音書に目を留めることにしたい。十字架の死を迎える最後の週の第一日目、エルサレムの街に入る主イエスの姿が記されている。その日、主イエスは人々から熱烈な歓迎を受けておられた。人々は、イエスを誰と思い、どんな理解で迎えていたのであろうか。
1、主イエスの生涯において、何が一番大切かと言えば、やはり十字架と復活である。四つの福音書は、およそ三十歳からの約三年間の公の生涯のことを中心に記されていて、誕生の記事はマタイとルカのみである。マタイで言えば、全28章の内、誕生は1〜2章のみで、3章以下が公生涯についてである。そして、最後の一週間を21〜28章で記し、63頁中21頁、実に三分の一の割り当てとなっている。十字架と復活の出来事こそ、主イエスが人となって世に来られた、最重要目的であって、そこに込められた意味こそ世の人々に知らせたい、と福音書が記されている。その福音書が語るイエスの最後の一週間の最初の出来事、それはエルサレム入城から始まった。エルサレムの街は、城壁で囲まれた堅固な砦のようであり、正しく「入城」という言葉が当てはまるものであった。そこに至るまで、今回のエルサレム行きには命の危険が伴い、弟子たちは皆、心配して緊張が走る中での旅が続いていた。彼らはイエスの覚悟に付き従い、イエスの指示に従って歩んでいた。恐れがあり、不安におののきながら・・・。オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た時、イエスは二人の弟子を使いに出して、ろばとろばの子を連れて来なさいと命じられた。(1〜3節)
2、エリコからベタニヤを経てエルサレムに至る街道沿いにベテパゲがあったと言われ、イエスは弟子たちをベタニヤに向かわせたようである。ろばとろばの子がつながれているのが誰の家なのか記されていないが、ベタニヤはマルタとマリヤ、そしてラザロのいる町で、「主がお入用なのです」の一言を、しっかり聞き分ける人がいたものと思われる。主イエスは、全てのことを見通すお方であると同時に、万物の支配者であることのゆえに、このエルサレム入城を成し遂げ、ご自分が誰であるかを人々に明らかにしようてしておられた。そしてエルサレムの街は、「過越しの祭り」のため大勢の人々が集まる時、一年の中で大事な季節を迎えていた。その当時、ろばは荷物を運ぶために使われ、人々にとって役立つ大切な生き物であった。我慢強く、主人に従順で、頼りになる動物とのこと。勇ましいわけではなく、従順で温和な姿のゆえか、ゼカリヤ書で、「柔和な王」として、ろばの子に乗る王のことが預言されている。イエスはその預言の言葉を体現されるかのように、子ろばの背に乗ってエルサレムに入城しようとされた。(ゼカリヤ9:9-10)主は、ご自分を「王」として人々の前に現わそうとされ、王は王でも、勇ましさでなく、「ろばの子に乗る王」であること、平和をもたらす王、また卑しさに耐える王、苦難に向かう王であることを示そうとしておられたのである。(4〜6節)
3、群衆は、果たしてイエスの思いを理解したのであろうか。イエスの意図を全て理解することはなかったが、その一面を受け留めたものと思われる。「ろばの子に乗る王」の「王」としてエルサレム入城を歓迎した。子ろばの背に自分たちの上着を掛け、道には木の枝を敷いて、イエスを王として迎えた。その叫び声は街中に響き渡るほどとなり、群衆は騒ぎ立った。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(7〜9節)群衆の中で「自分たちの上着を道に敷いた」人々がいたのは、彼らがイエスを王として迎えようとしたことを意味していた。(列王第二9:13)イエスの教えに心を動かされながら、ガリラヤからついて来た者たちかもしれなかった。彼らはイエスが「王」として立ち上がるのを期待していた。今その時が来たというほどに、心を躍らせていたのであろう。他方、ユダヤ人の指導者たちは、群衆の興奮した叫びを苦々しく思い、黙らせて欲しいと願って見ていた。「ホサナ」とは「今救って下さい」との意味の言葉であり、多くの人々がイエスを神とたたえ、主に祝福あれとたたえ、今お救い下さい、と祈っていた。けれども、その理解の内実はばらついていた。「この方は、どういう方なのか。」(10〜11節)
<結び> 「受難週」の主イエスを理解するカギは、十字架での身代わりの死を目前にしておられたこと、その死を見据えて数日間を過ごそうとしておられたことを覚えることである。全世界の王である方が、ご自分の民を救うため、罪の身代わりの死を遂げるために世に来られたのである。それは父なる神との親しい交わりが断たれる、悲しみの極みが待っていることであった。確かに「王」であるが、世の人々が期待する「王」の姿ではなく、罪の力を根本的に打ち砕き、神の愛の満ち溢れる、本当の意味での平和をもたらす「王」として、その務めを果たすためである。やがて自分の命を投げ捨て、身代わりの死を遂げることを自らに言い聞かせるようにして、ろばの子に乗っておられたのである。エルサレムの群衆は、そのイエスを誰だと理解したのであろう。戸惑った人々があり、理解した人々もいた。決して理解しようとせず、敵対したままの人も多かった。私たちはどうであろう。
ろばの背に乗られたのでなく、子ろばの背に乗られたことに意味があった。主イエスは「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」を引いて来るよう、弟子たちに命じておられた。神である主のご用に、ろばの子を用いようとされたのは明らかであった。主は、ご自身が万物の支配者であることを示しながら、しかし力をひけらかすのでなく、謙遜や柔和さを示しつつ、「わたしを見なさい」と語りかけておられた。「わたしを信じなさい。わたしに従いなさい。わたしは、いつでも、どこでも、必ずあなたと共にいる。」「ろばの子に乗る王」としてエルサレムに入られた主イエスを、私の王、私の救い主と、心から信じる信仰に導かれるように。その信仰に導かれた一人一人として、この週を歩み、また次週の礼拝に、復活の主イエス・キリストを誉めたたえることが導かれるよう祈りたい。
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