『第三部 感謝について:十戒について 第34主日の3
問95 偶像礼拝とは何ですか。
答 御言葉において御自身を啓示された、
唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、
人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、
所有したりすることです。
先回、「真の神にのみ信頼する」との説教題にて、問答94を学んだ。「十戒」の第一の戒め、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」について、神が私たちに求めておられることは何か、その戒めの根底にあるのは、真の神にのみ信頼することである・・・と。この戒めを心に留めることによって、私たちは、神との親しい交わりの中で、神の救いと祝福の内を歩ませていただくことになる。しかし、この方以外のものに心を動かされる時、私たちの信仰は、大いに揺るがされる。だから、この世にあって、実に様々の惑わしがあり、いわゆる「偶像礼拝」と言われる「罠」は、そここにあると覚えておくことが大事となる。そのような視点からか、ハイデルベルク信仰問答は、更にもう一問、「偶像礼拝とは何ですか」と問う。
1、答「御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすることです。」「偶像礼拝」という言葉を聞くと、私たちはすぐ、目に見える形になった像を思い浮かべるなり、何らかの物(または物体)を拝する行為と思うに違いない。けれども、世界のどこででも、またこの日本でも、人を崇めたてることや、生き物を神として拝むことなど、真の神に背を向けた人間にとって、神ならぬものを神とすることには、躊躇いなど微塵もないかのようである。自分にとって、少しでも益を受けることができるものなら、それを神として利用して、とことん自分の利益になるようにと、多くの人が考えている。そのようにして、真の神から離れ、人や物に心を寄せることの全ては、聖書が戒めている「偶像礼拝」そのものなのである。「唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、所有したりすること」と言われる「偶像礼拝」は、私たちの身近なところに、案外沢山あると気づかされる。
2、私たちは、「御言葉において御自身を啓示された、唯一のまことの神」を知っている。「信じています。お従いしています・・・」と告白している。それでも、その神に代えて、またはこの方と並べて、何かしら、より親しく、より分かり易く神を礼拝したい、神にお仕えしたい・・・と思うことがある。一人で祈るにも、皆が集って礼拝をささげるにも、何か助けになるものが有用、有益と言われると、それに惹かれることがある。問答94で触れられていることである。「あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと」と言われるのは、礼拝の仕方に魔術が入り込むことや、迷信的な教えが紛れ込むことへの警告であって、また特定の人物を「聖人」と敬ったり、特定の物を頼りにしたりすることへの警告である。形を刻んだ像を拝む「偶像礼拝」は、「第二戒」がより明確に禁じているが、「第一戒」では、神ならぬものを神とすることの全てが「偶像礼拝」として、それを避けるよう戒められている。目には見えなくても、確かに、生きて働いておられる真の神、主にこそ信頼せよ、と。(1〜15節)
3、あえて「まことの神に代えて、またはこの方と並べて、人が自分の信頼を置く他のもの」と言う時、私たちは何を思いつくであろう。一体何を指しているのであろうか。「神に代えて」、あるいは「この方と並べて」と言われて気づくのは、やはり「富」であろうか。主イエスは言われた。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えることはできません。」(マタイ6:24) 使徒パウロも明言している。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5) 「むさぼり」すなわち「貪欲な心」が「偶像礼拝」と断言されている。確かに、世の多くの「偶像礼拝」を伴う宗教が、莫大な富を蓄え、この世での権勢を誇っている姿を見るにつけ、なるほどと思う。「また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(テモテ第一6:5-6) 実際に富に心を奪われるずとも、真の神以外のものによって力を得たり、励ましを見出したり、そんな惑わしがあることを忘れないように。
<結び> 詩篇115篇1節の言葉、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」を主題聖句として、私たちの教会は2018年度の歩みを導かれた。真の神こそが生きて働かれることを祈り求め、虚しい偶像に頼る国々の民とは違って、生ける真の神に信頼する民が、主によって祝福されると信じ、この祈りをささげて歩んだ。この祈りには、真の神への信仰の招きが続いている。そのことを今朝、改めて覚えておいきたい。「イスラエルよ、主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。主があなたがたをふやしてくださるように。あたながたと、あなたがたの子孫とを。あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。」(9〜15節)「主に信頼せよ」と、何度も繰り返され、主に信頼して歩むのは、今、主によって生かされているあなたがたであり、私たちではないか・・・との呼びかけで、この詩篇は閉じられる。「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。死人は主をほめたたえることがない。沈黙に下る者もそうだ。しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。」(16〜18節)私たちの信仰が、より明確なものとされるように。2019年度の教会の歩みも、また一人一人の歩みも、主に信頼する歩みが確かなものとして導かれるように。 |