礼拝説教要旨(2019.03.31)  
神の救いの確かさ
(創世記8:20-22)  横田俊樹師

<救われて礼拝:心の底から発する感謝と献身の思い>
全世界を裁いた大洪水が過ぎ去り、ノアが舟から出て、最初に行ったのが、主のために祭壇を築く事、すなわち礼拝であった。そこで捧げられた「全焼のいけにえ」とは、肉も内臓も骨も皮も、すべて丸ごと焼き尽くす、捧げ尽くすというもので、神への全き献身をあらわす。ノアは、感謝と献身からなる心からの礼拝を捧げたのである。
ノアは、神が救って下さった事への感謝を忘れなかった。感謝する心を持っていた。助かりさえしたらあとは、神の事などどこへやら、知らん顔ではなかった。しかも、よくよく見てみれば、これは主からの命令ではなく、自分から、自発的に行った事だった。今までは、主の命によって箱舟を造り、箱舟に入り、主の命を待って箱舟から出た。ところがここでの主への礼拝は、命令されてでなく、自分から捧げているのである。全世界に臨んだ大洪水の中を守られ、救われた感謝と、それに厳粛な畏れもあっただろうか、そして改めて神にお従いする献身の決意。そのような思いから出た、真心からの礼拝であった。これこそ、神に喜ばれる礼拝であろう。
救われて礼拝。これが福音の順序である。礼拝をきちっと欠かさず守ったから、救われるというのではない(もちろん、ノアは洪水の前から礼拝を捧げていただろうが)。先日、柳師によるハイデルベルク信仰問答で「感謝の指針としての十戒」を学んだ。それと同様である。十戒を守ったから救われるではなく、まったくの恵みによって救われたから、感謝の表現として十戒を行うという、この順序である。大切なのは、感謝の心である。これを失うと律法主義に陥る。
感謝が自然と沸き起こる心も、神の良き賜物である。使徒パウロも、子どもたちには親の恩に報いる習慣をつけさせなさい、それが神に喜ばれる事です、と勧めている(第一テモテ5:4)。こういう心を大切に育みたい。神から受けた救い、神が払われた犠牲、神が約束して下さっている将来の希望、それらを思い巡らし、神への感謝の心を養いたい。何かに、または誰かに強制されてでなく、変な義務感からでもなく、本当に主に感謝をあらわしたい、本当に主をほめたたえたい、本当に主を礼拝したい、、、。そういう生の心を大切にしたい。
<なだめのかおりにあらわされたキリストの恵み:人の心は初めから悪であっても>
21,22節は、ノアがささげたいけにえを受けての神の独白である。ノアが捧げた全焼のいけにえは、ノア自身の感謝と献身のあらわれであるが、同時にそれはキリストをあらわしている。それがきよい家畜と鳥であった事は、まったくきよいお方を、そして全焼のいけにえは、まったき献身をささげた方としてのキリストをあらわす。神の御前にまったくきよく、完全な献身をささげられた方は、キリストただお一人である。また、全焼のいけにえは、解体されてから焼かれるので、それは肉を裂かれ、血を流された方をあらわす。そして神は、そのキリストをあらわすいけにえの、なだめのかおりをかがれて、人は生まれつき悪であっても、決して再び地を呪う事はしない、と言われたのである。なお、ある注解書によると「初めから悪であるからだ」は「初めから悪であるが」と訳す事もできるとの事。
「人の心の思い計る事は、初めから悪である」と言う。これが、神による人間の評価である。生まれながらの罪人である。毒蛇の赤ちゃんが、初めから毒をもって生まれてくるように、アダムの堕落以来、人は罪をもって生まれてくる。聖書がこう言ってくれるのは、実はありがたい事。神は、人間の徹底的な罪深さをご存じであられ、その上で、私たちへの愛は変わらず、決してお見捨てになる事なく、キリストの似姿へ造り変え、やがて永遠の神の御国を継がせて下さる。だから、神の御前に、いいかっこうをする必要はない。取り繕う必要はない。苦しい言い訳をする必要も全くない。ありのままの、自分でもここまでとはと気づかなかったような事であっても包み隠さずお見せして、あわれんでください、と祈る。主なる神様が、そんな魂を憐れまずにいられようか。
<朝が来るかどうかと疑う人はいない:それと同じくらい神の救いは確か。>
22節には、大地はこれからも変わる事なく収穫をもたらすと言われる。求める前から、まっさきに胃袋の心配をして下さる。神のありがたい親心である。
そして季節の巡り、昼夜の巡りも、やむ事はない、と私たちの生活に必要な舞台を保障された。私たちが当たり前のように思っている自然のリズムも、実は人間の罪にもかかわらず、キリストのゆえに神が保証しておられるのである。毎日、朝が来て、夜が来るたびに、神がいかにご自身の言葉に忠実であられるかが、あかしされている。
昼と夜は確実にやってくる。誰もこの事を疑う人はいない。それで、神は、昼夜が巡ってくる事が疑いようがないほど確実であるのと同じように、ご自身の救いの約束は確かなのだとあかししておられる。エレミヤ33:20-21
【主】はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も…破られよう。
 この時、南ユダ王国は、バビロン捕囚直前の危機的状況で、町は荒れ果て、現実を見ると、何も希望が見いだせない状態だった。あたかも、神に見捨てられたかのようだった。確かに南ユダ王国は、この後、一度バビロンに捕らえ移される事になるが、その後回復し、かつて主が約束された通り、ダビデの子孫から永遠に御国を治める王が立てられる。その約束は確実で、あたかも昼と夜が交互に来るのと同じくらい確かであると言われている。
 私たちに与えられている神の約束、神のことばは、毎日朝が来るのと同じくらい確かである。まったき罪の赦し、神の子とされている事、永遠のいのちを与えられている事、永遠の神の御国を受け継ぐ事、そこで永遠に失われる事のない神との交わり、愛する人たちとの、決して何物にも奪われる事のない交わりが用意されている。
これらの事は、毎日、太陽が昇って朝が来るのと同じくらい確かなのである。