礼拝説教要旨(2019.03.24)  
真の神にのみ信頼する  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:94
(エレミヤ書 17:5〜8) 柳 吉弥太師

『第三部 感謝について:十戒について             第34主日の2

問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。
答  わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、
    あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、
    諸聖人や他の被造物への呼びかけを
    避けて逃れるべきこと。
   唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、
    謙遜と忍耐の限りを尽くして、
    この方にのみすべてのよきものを期待し、
    真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。
   すなわち、わたしが、ほんのわずかでも
    神の御旨に反して何かをするくらいならば、
    むしろすべての被造物の方を放棄する、
    ということです。

 イエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しをいただき、またキリストにあって新しいいのちに生きる者とされた私たちは、救いを与えて下さった神に感謝し、喜びに溢れて「善い行い」へと歩ませていただいている。その歩みを導くため、神はご自分の民に「十戒」を指針として与えておられた。イスラエルの民は、神の救いに与った幸いな民として、「十戒」を心に刻んで歩むよう励まされていたのである。私たちもまた、この十の戒めをしっかり覚えて歩むなら、真の神との親しい交わりが一層豊かなものとされる。問答94以下、一つ一つの戒めが、より詳しく丁寧に説き明かされている。その大切な意味を探ることが導かれるように。

1、問94「第一戒で、主は何を求めておられますか。」答「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと。・・・・・」戒めをどのように受け止めるのか、その大事なカギは、神が私たちに何を求めておられるのかを、はっきりと知ることにある。主なる神が私たちに何を求め、私たちが、どのように主に従うのを望んでおられるのか、そのことを知ることによって、戒めがどのような意味を持つのかが明らかになる。答として、三つが挙げられる。第一は「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと」と、救いに与った私たちが、その救いの恵みや祝福を失わないために、偶像礼拝に陥る様々な教えから遠ざかるよう、また、そのようなものから逃れるよう求められていると言う。この世は、これでもか、これでもか・・・という程に、私たちの心を惑わすもので満ちている。生きておられる神が、御子の血潮によって私たちの罪を贖って下さったことを、簡単に忘れさせてしまう教えがある。自分の行いに頼ることや、魔術的なこと、迷信的な教えが耳に入って来る。虚しい教えに心を動かされないよう、目を覚まして歩まねばならない。

2、第二は、「唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです」と言われる。十字架の主イエス・キリストを通して、真の神を信じるよう導かれた私たちが、この方にのみ信頼する信仰に導かれたことを感謝し、一層、この神を愛し、畏れ敬うことを、神は願っておられる。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」私たちは、「この方にのみすべてのよきものを期待し」と言われるように、真の神に信頼して歩んでいるだろうか。神に祈りつつ、自分の知恵や能力に頼っていることはないか。人に期待し、時に物やお金に頼ろうとすることはないか。「謙遜と忍耐の限りを尽くして」と言われても、自分の努力次第と思って、神が定めておられる時を待てず、走り出すことがある。真の神の他に、何かしらの拠り所を見出し、それを頼りにして神を退けてしまう。モーセの時代、民が金の子牛を拝んだことがあったように・・・。(出エジプト32:1-6)

3、そして第三は、「わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。」私たちがもし、「神の御旨に反して何かをするくらい」のことがあるならば、その時は「むしろすべての被造物の方を放棄する」ように、「第一戒」はその覚悟を促しているのである。私たちの日々の生活における神からの祝福と恵みは、私たちの生活の全てに及んでいる。「すべてのことについて感謝しなさい」と命じられているのは、生ける神が、私たちの全てを支配し、全てのよきものをもって、私たちに関わって下さっているからである。「ほんのわずかでも」その事実を忘れないように。また「ほんのわずかでも」神の御旨に反して何かをすることのないように。そんな失態を犯すことのないように、この「第一戒」を覚えていることが、私たちの力、生きる土台となる。すなわち、真の神がいつも私たちの傍にいて、見守り、力づけていて下さるのである。決して思い違いしないように・・・との促しが込められている。

<結び> 「主はこう仰せられる。『人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れるものはのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。主に信頼し、主を頼みとする者に、祝福があるように。・・・』」(5〜8節)このエレミヤ書の言葉を、私たちは心に留めたい。主に信頼すること、生ける真の神にのみ信頼する信仰へと進ませていただきたい。私たちの心が騒ぐのは、あれもこれもと、心が定まらない時である。拠って立つ所が定まるなら、私たちは動かされることはない。

 「唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」十戒の第一の戒めを思い返す時、特に、この方にのみ信頼することを覚えるよう導かれるなら幸いである。余りにも惑わしが多いこの世である。また、偽りの教えがはびこってしまったこの時代である。イエス・キリストを遣わして下さった真の神にのみ信頼する信仰に、しっかり立てるように!