『第三部 感謝について:十戒について 第34主日の1
問92 主の律法とはどのようなものですか。
答 神はこれらすべての言葉を告げられた。
第一戒
わたしは主、あなたの神、
あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
第二戒
あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしたはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは、熱情の神である。
わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾先代にも及ぶ慈しみを与える。
※以下省略
問93 これらの戒めはどのように分かれていますか。
答 二枚の板に分かれています。
その第一は、四つの戒めにおいて、
わたしたちが神に対して
どのようにふるまうべきかを教え、
第二は、六つの戒めにおいて、
わたしたちが自分の隣人に対して
どのような義務を負っているかを教えています。
神に背を向け、神なしで生きられる、自分が神のようになれると罪に堕ちた人間は、罪の悲惨の中に沈んでしまった。どんなに「善い行い」に励んだとしても、それによって救いを得ることは、誰にもできなくなってしまった。救いは、ただ十字架の主、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による。キリストは、私たちの罪を赦すために、十字架で身代わりの死を遂げ、罪に対する神の刑罰を受けられたのである。この信仰によって、救いを受けた私たちは、使徒パウロと同じように、キリストにある新しいいのちに生きる者とされ、神を心から喜ぶ新しい人として、この地上の日々を歩ませいただいている。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)
1、その新しい人の生き方は、一体どのようなものなのか。信仰問答は、救いに与った者には、感謝に基づく「善い行い」が必ず導かれる・・・と言う。罪を赦された者として、神の愛に応え、感謝に溢れて生きているかどうか、私たちの生き方が問われることになる。けれども、この点を突き詰めると、またまた「善い行い」を強いることになり、感謝に溢れて・・・と言いつつ、自らを追い詰め、また周りの人々をも裁きかねない。くれぐれも心すべきは、「キリストが私の内に生きておられる」との現実である。すなわち、キリストにあって、救いに入れられていることの喜びと感謝が、日々の生活の原動力となっているかを忘れないことである。神の律法をどのように理解するのか、その大切な視点はこのことにある。問答3で学んだことは、罪に沈んだ私たち人間が自分の罪の悲惨さに気づくのは、神の律法によることであった。神の律法の要求を、決して満たすことのできない事実を知らされること、これがカギである。しかし、救いに与ってからは、同じ神の律法が、神に喜んで従うための感謝の指針となる。私たちは、出エジプト記20章で語られる「十戒」の冒頭の言葉を、しっかり聞かなければならない。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(2節)
2、「十戒」は、エジプト脱出という「救い」に与った民に、はっきりと語られている。救いに与ったあなたがたこそ、この戒めを心に刻み、それに従いなさい、と主は言われた。その上で、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」(3〜4節)と、命じられている。言葉の言い回しは「禁止命令」であるが、それに従う人々の、喜びや感謝に溢れた応答としての「服従」、言い換えれば「従順」が求められていた。救いを与えて下さった神が、確かにおられると知っている民が、他の神々を礼拝するのは、ほとんで考えられないことである。神ご自身が、不当なことを求めておられることは有り得ず、民が守れることを命じておられた。神と民との親しい交わり、愛の関係がより豊かなものとなるために、戒めが与えられていた。正しく、「十戒」は神を信じ、神と共に歩む民にとって、全生活に渡って感謝を表すための指針となる戒めである。こうせよ、ああせよ、こうしてはならない、ああしてはならない・・・という類の禁止命令ではない。これを守ったなら、神が認めて下さる、というものでもない。このことを忘れないように。
3、「十戒」は、二枚の石の板に刻まれていた。その二枚の内容は、「わたしたちが神に対してどのようにふるまうかを教え」る四つの戒めと、「わたしたちが自分の隣人に対してどのような義務を負っているかを教え」る六つの戒めに分かれている。私たちは、この「十戒」をどれだけ心に刻んでいるだろうか。覚えているだけでなく、その戒めを行っているだろうか。主イエスは、厳しく警告を発しておられる。神の戒めを知っていながら、自分たちの言い伝えを優先している・・・と、イザヤ書を引用して言われた。「『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15:8-9) 神を愛し、神を敬うことにおいて、心からの感謝をもって神に近づき、日々、神を喜び、感謝の歩みが導かれることが大事である。隣人を愛し、隣人のために仕えることを、喜んで果たせるように。「あなたの父と母を敬え。・・・殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。・・・」とある後半の戒めについて、感謝を表す指針として、どのように覚えたらよいのか、主イエスご自身はどのように覚えておられたのか・・・と、心に思い巡らせるのはヒントになる。主イエスのお心を思い、自分の心に問うのである。「キリストが私の内に生きておられるのです」と言い聞かせつつ。
<結び> 心から神を愛し、隣人を愛するには、やはり「キリストが私の内に生きておられるのです」という事実、現実がカギであろう。私たちの生まれながらの性質は、どう逆立ちしても不完全である。自我がムクムクと頭をもたげると、たちまち自分中心になり、人を愛するどころではなくなる。キリストの十字架の身代わりの死がなければ、私たちは神に裁かれるべき存在である。キリストがおられるので、私たちの罪は赦され、神の前に義とされ、神の子としていただけたのである。
最後にもう一度。「殺してはならない」との戒めを、感謝の指針としての戒めとして覚えるには、どのようにしてできるだろうか。「人を殺すのに刃物はいらない・・・」と言われる。「言葉」で人を殺すことがある。しかし「言葉もいらない」とも言われる。「無視する」だけで・・・と。主イエスの教えが心に響く。(マタイ5:21以下)また先日の読書会で、私たち人間の罪深さについて、ついつい「あの人がいなければ・・・」と思うことはないか、と指摘されたことが思い浮かぶ。そのような心の思いは、神に見通されている・・・と。神に背を向けた人間の罪の凄まじさを思い知らされた。神を愛し、隣人を愛するには、「殺してはならない」との戒めを、到底守れないこの私を、こよなく愛し、神に立ち返るようにとキリストの十字架の元に導き、罪に気づかせて下さったことを忘れず、罪の赦しを感謝して歩むことしか、道がないと気づかされる。そのようにして日々を歩むには、主の日ごとに、神の前に出て、礼拝をささげられることを、この上もない喜びと覚えたい。主の日の公の礼拝は、やはり奇跡である。互いに赦し合い、愛し合って主の御前の集わせていただいている。「どなたでもお出で下さい」と言いつつ、私たちの心は、はなはだしく狭いと反省させられることがしばしばである。もっと心を広くすることを導かれたい。私たちは罪を赦されて御前に集っていることを決して忘れないように。
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