礼拝説教要旨(2019.0310.)  
オリーブの若葉が
(創世記8:1-19) 横田俊樹師

<1-5節 神は、試練の時にも、私たちを心に留めておられる:恵みの時を待ちつつ、なすべきことをなす>
ノアたちは、箱舟の中で未曾有の大洪水から救われた。外の世界は、大水によって山の頂まで覆われ、すべての肉なるものが死に絶えたという、現実の事とは思えない現実の中で、神があらかじめ与えて下さった救いの御言葉を信じ、従ったノアたちだけが助かった。
しかし、助かりはしたものの、ノアたちもゆったりと船旅、というわけにはいかなかった。40日間、来る日も来る日も空は黒い雨雲で覆われ、昼も夜も激しい雨がうちつける。40日が過ぎても地下水脈の噴出による増水は続く。激しい波にもまれ、漂流物や岩などにガツゴツぶつかり、ガガガーと舟の板をひっかくような音もする。気が付けば、あっちこっちでミシミシ不気味な音がする。舟が右に傾けば物も人も動物も一斉にザーッと右に動いて、左に傾けば、またいっせいにザーッと左に動いて。船酔いしたかもしれない。加えて動物たちの鳴き声、排泄物の匂い。快適な船旅とはほど遠い。その動物たちも、そのうち我慢できなくなって暴れ出したら、ひとたまりもない、、、。心配し出すと、いくらでも心配の種は出てくる。舟に乗って、とりあえずは助かったけど、本当にこんな板切れを組み合わせただけみたいな代物で、大丈夫なんだろうか、、、。それに、食糧も次第に減ってくる。いったいいつまで続くのか、、、。先が見えない不安をノアも覚えたかもしれないし、一緒にいたノアの妻、また3人の息子たちとその妻たちも、不安を覚えただろう。そんな中、彼らの心の支えになるように、信仰のよりどころとなるようにと、神があらかじめ与えておられた契約(6:18)を毎日何度も思い返して、自分を保っていた事だろう。
そうして150日が過ぎた時、変化が訪れた。最初はわずかな変化であった。地の上に風が吹き始めたという。神が吹かせた風であった。それによって水が引き始めた。水はドンドン引いていき、何と箱舟はその日のうちにアララテ山の上に座礁した。底板の下は、もはや水ではなく地面である!それからなお水は減り続け、約2ヶ月半を過ぎると他の山々の頂も見え始めた。以前、真っ黒な雨雲が覆っていた空も、今は青く晴れ渡っている。日に日に希望が増してくるようである。
世間でも「潮目が変わる」という言い方がある。なぜかは知らないが、それまで忍耐を強いられるばかりのようだったのが、ある日を境として、物事が少しずつ良い方向に向かい始めたように感じる時がある。長い冬の季節を耐え忍んだ後に春を迎えるように。
季節を巡らせるのは、神である。私たちがいくら力んだところで、季節を変える事はできない。人生にもいろんな季節がある。良い時、そうでない時がある。そして私たちが弱くされるのも、主の御手によるのである。「私が弱いのは、神の右の手が変わった事による。」(詩篇77篇10節)。試練も、単なる偶然ではなく、最善以下の事をなさらない主の御手によるのだという事実が、私たちの支えとなる。まただからこそ、それがいつまでも続くのではなく、同じ神の御手によって次の季節が訪れるという希望を持つ事ができる。なので、私たちのなすべきは、季節に応じた過ごし方をする事である。冬には冬の過ごし方がある。試練の時には、普段よりもいっそう身を低くして、恵みの時が訪れるのを待ち望みつつ、その時その時になすべき事を淡々となす事である。忍耐を働かせて。ノアたちが、箱舟の中で日々、動物の世話をし、箱舟の掃除をし、管理をしたように。ジタバタしたり、ましてや神に向かって怒り、自暴自棄になってしまうのでなく。
とはいえ、厳しい試練の時があまりに長く続くと、神は私の事をお忘れになったのではないか、、、と感じられる事もある。神から与えられているせっかくの救いの約束を、人は試練に会うと疑い出してしまう弱さがある。忍耐が試みられると、不満を抱き、不満は神の言葉への不信を生じる。しかし覚えておきたい。神は、決して私たちの事を忘れられる事はない。私たちのために、最愛の御子をさえ下さったのである。忘れようにも忘れられるはずがない。イザヤ書49:14-16
49:14 しかし、シオンは言った。「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
49:16 見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。
どんな時にも、神は私たちを心に留めておられる。そしてやがて神がよしとされる時に、回復の時、恵みの時、希望に満ちた時が来る。潮目が変わる時が来るのである。全ての事には時がある(伝道者の書3:1-8)。そしてすべては神の御手による。神の主権を認め、神が私たちの人生の季節をも巡らせる事を信じて、へりくだって、主とともに歩みたい。

<6-12節 オリーブの若葉:希望の前味> 
水が減り始めて40日目、水が引き始めた外の世界がどんなものか、まずは様子見ということか、ノアはからすを放ったという。舟から外の世界に出る最初の生き物として、恐る恐るからすを放ったかもしれない。なぜ最初にからすか?一説には、からすは賢く、警戒心が強く、また万が一迷って帰れなくなっても、雑食性なので獣の死肉をついばんでも生き延びるからという。からすは箱舟に戻っては来たが、ノアの手には帰らず、箱舟の付近をうろうろしていたようである。とりあえず、鳥類は箱舟の外に出しても大丈夫とわかったからだろうか、次は鳩を放った。鳩はからすと違い、若葉か木の実しか食べない。という事は、餌となる若葉か木の実が見つからない限り、箱舟に帰ってくるという事。もし帰ってこなかったら、食べる若葉や木の実があるという事で、水が引いて植物が再び生えてきたという事。
期待に胸を膨らませて鳩を放つノア。しかし一回目は、戻ってきてしまった。ちょっと残念なノア。それで七日後にもう一度、鳩を放つ。首を長くして鳩の帰りを待つノア。すると今度は鳩は夕方になって戻ってきた。しかもくちばしには青々としたオリーブの若葉をくわえて!このオリーブの若葉を発見したとき、ノアの心は踊っただろう。オリーブは山の上に生える植物ではなく平地に生えるものという事なので、これはだいぶ水が引いてきたという事。久々に見る若葉を実際に手にし、匂いを感じると、回復の時は近い事が実感されて体中に力がみなぎってくるのを感じただろう。一枚のオリーブの若葉が、どんなにか、ノアたちの心を励まし、力づけただろう。ここまで来たら、ここまで回復の時が近い事がわかったら、勇気百倍。ゴールが見えたら、忍耐を試みられる試練も、もう峠は越したと言っていいだろう。後は気を緩めずに進むだけである。
私たちも、世の初めから神が私たちのために備えておられる神の御国を受け継ぐという希望を持っている。それは究極の希望である事をもう一度、確認しておきたい。しかしまた他方、今すでに信じる私たちのただ中に、神の御国はあると、主は仰った(ルカ17:20-21)。またローマ 14:17 には「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」ともある。これらはいわば、神の国の前味ともいうべきものだろう。ノアたちがオリーブの若葉を手にして元気が出たように、私たちも神の国の前味を味わって、励ましを受けたいものである。
それからノアは更に七日待って、もう一度鳩を放した。すると、鳩はもうあちこちにたくさん若葉が生え出た所を見つけたのか、戻ってこなかった。いよいよ待ちに待った回復の時はもうすぐそこである。

<13-19節 神とともに歩んだノア:従うという実をお捧げできるよう>
大洪水が起こったのは、7:11を見ると、ノアの生涯の第六百年の第二の月の十七日。それからおよそ10カ月半、年が明けてノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日、ついに地の面がかわいた。箱舟のおおいを取り去って、外を眺めると、見渡す限り、すっかり水は引いて、かわききっていたのである。その光景を目にして、ノアはどれほど感動しただろう。ここで誰しもすぐにでも外に出たいと思うところである。ところがノアは、まだ箱舟から出なかった。ここからさらにもう一月あまり待って、第二の月の二十七日、神が出なさいと仰るのを聞いて、はじめて外に出たのである。なるほど、「神とともに歩んだ」(6:9)とはこういう事か、と教えられる。
箱舟に入って、1年と10日。太陰暦の12ヶ月は実際には354日。これに10日を足すと364日で、ほぼ太陽暦の1年にあたる。つまりほぼ1年まるまる箱舟の中にいたことになる。このうち150日、すなわち約5ヶ月は水の上を漂っていたが、その後の7ヶ月ほどは、アララテ山に漂着した後、箱舟の中で過ごした事になる。波に揺られる事もなく、ピクリとも動かない箱の中に7ヶ月。それもまた忍耐のいる事である。平地はまだ水が引いていなかったとしても、箱舟の付近は歩く事くらいはできただろう。しかしノアはそれをせず、神が出なさいと仰るまで箱舟に留まったのである。神が、箱舟を造りなさい、と言えば、恐れかしこんで箱舟を造る。箱舟ができても、勝手に入るのでなく、入りなさい、との命令を待って箱舟に入る。そして今も、神が、箱舟から出なさい、と言ってはじめて外に出たのである。
同じ宗教改革者でも、ルターは、信仰とは「委ねる」事とし、メランヒトンという人は「確認する」事としたのに対して、カルヴァンは「服従する」事としたと言われる。信仰とは、神の御言葉に服従する事。
私たちは、神に服従しているだろうか。ものの考え方、行動、ふるまい等々、神を信じてから変わっただろうか。神の御言葉に従おうという意志を持ち、その事を意識しているだろうか。たとえば何か、良い行いをする時に、それをただ神が喜ばれるから、神に捧げる業として行う。相手からの見返りや他の人からよく思われたいという動機でなく。あるいは何かちょっと面白くない事が起った時に、肉の性質(生まれながらの性質)は、やり返してやろうなどと反応してしまうかもしれない。しかしそこで、肉によって反応するのでなく、一呼吸置いて、神はどうする事を喜ばれるのだろう、と考える。御言葉はどう言っているか、聖書に立ち返って。そして肉の思いを抑えて、神のために、神に喜ばれる事を選び取る。そうする事は神の御言葉への服従であり、神へのささげ物である。ローマ12:1-2
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
実際の生活において、具体的に御言葉に従う事によって、神の国の前味を味わう事ができるのだと思う。この週、一つでも二つでも、御言葉に従って、神の国の前味を味わう幸いを恵まれたい。