『第三部 感謝について:全生活にわたる感謝 第33主日の2
問90 新しい人の復活とは何ですか。
答 キリストによって心から神を喜び、
また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに
心を打ち込んで生きる、ということです。
問91 しかし、善い行いとはどのようなものですか。
答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、
この方の栄光のために為されるものだけであって、
わたしたちがよいと思うことや
人間の定めに基づくものではありません。
問答88において、私たち「人間のまことの悔い改めまたは回心」は、「古い人の死滅と新しい人の復活」の二つのことから成っている、と教えられた。そして、「古い人の死滅」とは、「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです」と、問答89で説かれていた。キリストを救い主と信じる者は、キリストが十字架で死なれたと同じように、罪に死んで、罪から解き放たれ、キリストが死から復活されたと同じように、神にあって新しいいのちに生きる者とされている。罪に死んで、新しい人となったので、心から罪を嘆くようになり、また罪をますます憎み避けるようになるのが、「古い人の死滅」であると。この世にある限り、私たちは、徐々に変えられ、「善い行い」に向かうよう導かれることになる。その「善い行い」について、「新しい人の復活」を説明して、問答90、91で教えてくれる。
1、問90「新しい人の復活とは何ですか。」答「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる、ということです。」キリストを信じて、神にあって生きる新しい人は、「心から神を喜ぶ人」となって生きる人である。罪の中に沈んだまま、罪の奴隷であった時、私たちは、何事も自分中心で、神のことは考えもせず、自分の喜びや自分の満足を追い求めていたのである。けれども、新しいいのちに生まれ変わったことによって、神と共に生きることが喜びとなり、神の御旨に従った善い行いに、心を打ち込んで生きる者とされた。この変化は、驚くほどのものである。自分であり、自分でないような、生き方の大転換である。パウロが、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言うことが、私たちの内にも起っている。心から神を喜ぶ、という思いは、同時に、神に喜ばれたい、という思いを心に抱くものであって、神が善しとして下さることを、本気で行いたいとの思いが必ず湧き上がる。パウロが「いま私が肉にあって生きるのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」と言う、その生き方である。世にある限り、キリストに従い、キリストのために生き抜きたいと、心から願うパウロに生まれ変わっていたのである。(20〜21節)
2、そのように願って生きる時の「善い行い」とは、自分が思う「善い行い」とは違うものである。世間の人々が「善い」という行いでもない。そのことを覚えておかねばならない。問91「しかし、善い行いとはどのようなものですか。」答「ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。」だだまことの信仰から導かれる行いであって、神の律法に従って、神の栄光のために為されるものだけである、と言われる。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(コリント第一10:31) 何をするにも、生まれながらの私たちは、いつも自分中心である。自分が「善い」と思うことに突き進む。また人々に認められたいと努力する。実際に、世の人々の価値観に、日頃から慣れ親しんでいるので、神が善しとされることよりは、人々に善しとされることを選んでしまう。だからこそ、その過ちから遠ざかるよう祈らねばならない。古い人が死滅し、新しいいのちに生きるとは、神に善しとされることを心から喜んで選び取り、心から神を喜ぶ人として生きることにある。何を喜び、何を第一として生きているのか、心を探られながら生きること、その尊さを心に刻むことが大事となる。
3、私たち人間は、生まれながらのままでは、決して神を喜ぶことはない。神はいない、神に頼るなんて・・・と強がるだけである。(詩篇14:1-3)罪を悔いるどころか、ますます罪を重ねるのみで、どんなに善い行いに励んでも、それで救われることはない。すなわち、私たちは自分の努力や行いによっては、決して救われることのない者、罪の悲惨の中に沈んでいた者、神の裁きを受けるべき者であった。そんな私たちの罪を赦すために、キリストは十字架で身代わりとなって死なれたのである。キリストを信じて救いに与った私たちは、新しいいのちを与えられ、「善い行い」へと進ませていただいている。行いの行為の面でなく、行いに進む心の思い、動機こそを神が見ておられるのである。「まことの信仰から」と言われるのは、キリストを信じて罪を赦された者として、神への感謝を込めた行いに導かれているかどうか、また、「神の律法に従って」とは、神の教えに叶った行いであるかどうか、そして「この方の栄光のために為されるもの」とは、心から自発的に為される行いであるかどうか、等々が問われている。キリストの救いに与った私たちにとっての「善い行い」は、救われるための「善い行い」ではなく、キリストによって罪を赦された者として、救いを感謝して、神を心から喜ぶ信仰に基づく「善い行い」のことなのである。 日々、何を考え、何をするのか、ごくごく素朴な歩みこそが尊いものと気づかされる。
<結び> 説教題を「心から神を喜ぶ新しい人」とした。私たちは、キリストを信じて、罪を赦され、「神を喜ぶ新しい人」となって歩ませていただいている。主の日ごとに教会に集って、公の礼拝をささげることが導かれているのは、以前は神なしで歩んでいた私たちにとって、大いなる奇跡のような出来事である。いや「奇跡そのもの!」である。神の前に出るのを喜びとしているのだから!
他方、私たちの人生の大半は、折に触れての「選択」の積み重ねであって、より良いものを求め、より楽しいものを選び、自分にとって、役に立つものを取捨選択している。そんな日々の現実を心に留めると、自分は、本当に神を喜び、神に従っているだろうか・・・と迫られることがある。心から神を喜んで歩む、そのような日々を生きているだろうか・・・。「いつも喜んでいなさい」のみ言葉を、どのように聞いているだろうか、また、その教えに従っているだろうか。私自身の歩みを、神はどのように見て下さっているのだろうか・・・。思いを巡らせながら、もう一度行き着くのは、私自身はヨレヨレであって、しかもボロボロであったとしても、そのことを認めることの尊さである。キリストにあって、私も「心から神を喜ぶ新しい人」に変えられ、生まれ変わらせていただいている事実、神が恵みによって、私を救って下さったことが、私の拠り所なのだ・・・と。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」との、パウロの告白を、私も言えることを感謝するばかりである。その確かな事実を信じる時、主イエス・キリストのお心を自分の心とすることができるようにとの祈りが導かれる。また、主ご自身が歩まれたように、人々に接することができますように、そして「心から神を喜ぶ新しい人」として歩めるますように・・・と。
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