<1-5節>
今日の7章は、ついに箱舟を作り上げたノアたちに、改めて神が語られたお言葉。いよいよ乗船命令。裁きの日の7日前の事である。
1節には、ノアがこの時代にあって主の前に正しかったという事が、繰り返されている。これも前の6章でも見たが、ノアが正しい人だったというのは、ノアが何の落ち度もない、完全無欠な人だったというのではなくて、聖書で言う正しいとは、まず第一に、神との関係の事であって、ノアが神と一緒に歩みたい、神にお従いしたいという願いを持っていたという事だろう。その、神をお慕いする心さえあるならば、神はいくらでも罪の赦しを与え、きよめを与えてくださる。そのために御子キリストを下さったのだから。だから、私たちは時には失敗してしまう事があっても、いや失敗ばっかりだったとしても、その都度、悔い改めて、神の恵み、憐れみを信じて、赦しを信じて、神の御愛に励まされて、また立ち上がり、神とともに歩みを続ける。それを繰り返す。神とともに歩むというのは、そういう事だと思うし、聖書の言う正しさというのは、そういう事だと思う。
そう思って、あらためて考えてみると、私たちには至らないところはたくさんあるが、こうしてとにもかくにも週の初めの日を主の日として聖別して、造り主に礼拝を捧げさせて頂いていると言う事は、多少なりとも、神のお心を喜ばせて差し上げる事になっているのかなと、うれしくなる。貴重な休みの日、時間を捧げて、神を礼拝しにこの場所に身体を運ぶ。あるいは、来る事ができない時は、それぞれのところで、神を覚えて、礼拝を捧げる。ほんの小さなその信仰の営みが、神の御目にはいかに尊い事か。神は、信仰を喜ばれるのだから。私たちは小さなものだが、神をお慕いして、心から神を礼拝する時に、神はそれを喜んでおられる。その事に励まされて、ますます神をお慕いし、神と一緒に歩ませて頂く幸いを味わわせて頂きたい。
4節には、あと7日で、神が40日40夜、地に雨を降らせ、神がお造りになったすべての生き物を地の表から消し去る、と裁きの宣告が下される。「わたしが造ったすべての生き物を」とわざわざ言っているところに、創造主としての惜しまずにいられないお気持ちがあらわれている。せっかく丹精込めて造ったこの世界、そこに住む生き物、そして人間。すべて、神が慈しみを込めてお造りになったもの。それを、自らの手で裁き、滅ぼして、世を一掃しなければならないとは、神はどれほどお心を痛められた事か。神がお裁きになる時、それは決して喜んでいるのではない。旧約聖書のエゼキエル書という所に、裁きを下さなければならない神のお心が語られているところがある。エゼキエル18:21-23と32節。
18:21 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬ事はない。
18:22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられる事はなく、彼が行った正しい事のために、彼は生きる。
18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。--神である主の御告げ--彼がその態度を悔い改めて、生きる事を喜ばないだろうか。
・・・
18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。--神である主の御告げ--だから、悔い改めて、生きよ。
神が裁きを実行される時、神の御目からはいつも、涙がこぼれ落ちているのではないか。こういう御思いをもって、ノアたちが箱舟を造っている間、神は、ノアを通して人々に悔い改めを呼びかけておられた。神は、不意打ちに裁きを行われるのでなく、事前に救いの道を用意し、悔い改めのチャンスを与えておられる。招いておられる。それに対して、素直にお応えするのか、それとも拒むのか。結果は、自分の決めたとおりになる。恨むべきは、裁きを行う神なのではなくて、むしろ、この神に、裁かせてしまう、裁かざるを得なくしてしまう、人間の罪深さのほうである。
<6−9節>
よく言われるのは、どうやってすべての種類の動物を捕獲して、箱舟に連れてきたのか、あるいは運搬したのか、と言う事だが、9節を見ると、それらの動物が「箱舟の中のノアの所に入ってきた。」とある。異常気象の前は、動物は本能的に何かを感じ取って、事前に退避行動を取る事があると言うが、この時も神の超自然的な導きがあったのだろうか、おそらく7日間かけて、すべての動物が、彼らの方から箱舟に入ったと言う。けんかもせず、仲良く。ライオンも虎も、サルもキリンも象も、犬も猫も、みんな神妙な顔をしてぞろぞろと集まってきたのだろう。私だったら、すべての動物を箱舟に入れよ、と言われたら、どうやって連れてくればいいのか、それは無理だろう、と悩んでしまうところだが、案ずるより、産むが易し、と世間でも言いますが、信仰の世界ではなおさらそうなのかもしれない。とにかく、主なる神の仰せに従って一歩踏み出す。その時に、神から思わぬ助けが与えられ、導きが与えられて、すべてが導かれて、結果、神が仰ったとおりになるという事があるのだろう。信仰の従順の祝福、また不思議である。
こうしてノアたちは、箱舟に入った。まだ雨が降り出す前に、神のお言葉通り。神を信じて、神のお言葉を信じて、従った。そしてノアたちが箱舟に入った後で、雨が降り出し、神のみことば通りになった。なってしまった。
<10-16節>
ここで一つ、覚えておくといいかなというのは、聖書の書き方、形式として、最初に見出しのような文を書いて、その後にその詳細を書くという形式がある。ここも、10節で、7日目に大洪水が起った、と見出しを書いて、以下11節から、大洪水の始まったその日と、それ以降の事を詳しく書く、という形になっている。
ついに運命の時が来てしまった。「巨大な大いなる水の源が、事ごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」というのは、この大水が、超自然的なものであった事をあらわす表現だろうか。
ここで注目すべきは、まず13節。ノア達が船に入ったちょうどその日に、裁きの雨が降り始めた、という事。ノアたちが箱舟に入るのを待って、雨が降ってきた。
そして16節、ノアたちが舟に乗り込んだ後に、主ご自身が戸を閉めたと言う事。ちなみに、前回紹介したギルガメシュ叙事詩というものの中にある洪水伝説では、箱舟の戸を閉めたのは、ノア自身となっているとの事。しかし聖書は、主がこの戸を閉められたと告げている。この戸は、ただの戸ではない。滅びから救いへと通じる唯一の戸である。それを閉ざすと言う事は、これは救いの門が閉ざされたという事。もはやこれから先は、箱舟の外にいる者たちに、救いの可能性はないと決定づける事である。もしかしたら、その事の重大さを思う時に、ノアには、戸を閉める事ができなかったのではないか、と思ったりもする。確かにそれは、人間に過ぎない者には荷が重すぎる事であろう。しかも、自分さえ良ければいいという人間ではなく、ノアのような義人であればなおさら。それで、主ご自身が、戸を閉められた。そして、救いに至る唯一の戸が、主の手によって閉じられた以上、外にいる人間はおろか、中にいるノアだって、その戸を開ける事はできない。この日、この瞬間を境として、神の忍耐の時、救いの時、恵みの時は終わった。そして、神の裁きの時、正義の時、聖なる神のみ怒りが注ぎ出される時となったのである。どれほど惜しむ気持ちがあっても、裁かなければならない時が来たら、神は、決然と、徹底的にお裁きになる。中途半端な事をして、禍根を残すような事はなさらない。徹底的である。
<17-24節>
雨は40日40夜降り続けたのに、最後の24節には、水は150日間、地の上に増え続けた、とあるのは、地下水脈の噴出など、地下からも水があふれ出たためと思われる。もしかしたら、この時、大規模な地殻変動もあったのかもしれない。
ともかく、雨は四十日四十夜、来る日も来る日も止む事なく、昼も夜も四六時中降り続けた。外は連日の豪雨、人々はとりあえずは自分の家に引っ込んでいただろう。しかし、やがて水は家の中にはいり、膝までき、腰まで来る。そのうち一階は水で埋まり、人々は屋根に上る。しかし屋根に上ってもまだ止む景色はない。雨は容赦なく、人々の悲鳴にはお構いなしに降り続いて、ついに人々を押し流してしまう。そして水はさらに増え続けて、地上に根をおろした本建築の家は水の下に没し、ただ箱船だけがゆらりゆらりと浮かんだ。人々がせっせと貯えた穀物も財産も、彼らを救う事はできなかった。力ある勇士と唱えられ、人々の間で崇められていたネフィリムも洪水の前には無力で、自分の命すら救う事ができなかった。名誉も財産も腕っ節の強さもこの世的な知恵も、何一つ彼らを救う事ができないばかりか、すべて水の中に埋もれて跡形もなくなった。造り主から遠く離れ去った彼らは、彼らが一生かけて作り上げたものもろとも、裁きの水に流されて跡形もない。ただ、神の御言葉に従ったノア達だけが、この未曾有の大洪水の中を生き延びて、新しい世界に入る事ができた。
これは現代の私たちにも、向けられている警告である。人はたとえ、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、一体なんになるだろう、というイエス様の御言葉は、こういう事態に実際に遭遇してはじめて、心に迫るのかもしれない。山々を覆うような大洪水の時には、何億と言う残高が記載された預金通帳よりも、一個の浮き袋のほうがまだ役に立つだろう。それと同じように、誰もがいつかは必ず迎えなければならない神の裁きの時、私たちの命を救うのは、お金でもなく、地上でやってきた業績、手柄などでもなく、イエス・キリストに対する信仰だけである。主の御名を呼び求めるものは、みな、救われると、聖書で約束されている。私たちの命は、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、救われる。
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の絵には、大雨が降って洪水になり始めてから、箱舟の縁につかまる者、さらには斧を手にして箱舟に穴を開け、入り込もうとする者を描いている。しかし、この期に及んでは、すでに時遅し。まだ見ぬうちに神の警告を信じて、信仰によって、雨が降り出す前に、箱舟に入るべきであった。ここに至っては信仰も何もなく、ただ自分が助かりたいだけの悪あがきに過ぎない。神はご自身に対する信仰を求めておられる。新約聖書のヘブル書でも、ノアが、まだ見ぬうちに神から警告を受けた時に、箱舟を造った事をもって、世の不信の罪をあきらかにし、彼のその信仰が義と認められたと書いてあった(ヘブル11:7)。まだ見ぬうちに、神の裁きの言葉に恐れかしこみ、悔い改める事が、大切なのである。旧約聖書のヨナ書でも、残忍さをもって知られるニネベの人たちが、預言者ヨナによって、あと40日したらこの町は滅びる、と神から宣告を下された時、まだ裁きが来る前に、彼らは悔い改めたので、神は彼らに下そうとしておられた裁きを思い直された、という記事がある。裁きが来る前に、神の警告を受けた時に、悔い改める。そこにはまだ見ぬ事柄について、信仰が働いている。
今は、恵みの時、救いの日である(第二コリント6:2)。イエス・キリストを信じるなら、今ならまだ、救いの箱舟に入る事ができる。しかし、その救いに入るための門は、いつまでもあいているわけではない。主が救いの門を閉ざされる時がいつか来る。しかし、いたずらに焦ったり不安になる事もない。ノアたちが箱舟に入るのを待って、裁きの雨が降り始めたように、主なる神が、救いの門を閉じるのは、もう外には救われるべき人が一人もいなくなってからだろう。箱船の外にもし、万が一、一人でも救われるべき人がいたなら、神は決してその一人を取り残して、裁きを行なわれる事はない。この事は、まだ救われていない家族を持っているものにとって、大きな慰めとなるのではないだろうか。とはいえ、ノアのように、救いを宣べ伝える事はクリスチャンのなすべき事である。ノアのような熱心をもって、神の裁きと救いを宣べ伝える者でもありたい。
|