礼拝説教要旨(2019.02.17)   =ハイデルベルク信仰問答= 問答:88〜89
罪に死に、神にあって生きる =ハイデルベルク信仰問答= 問答:88〜89
(ローマ 6:1〜14)柳 吉弥太師

『第三部 感謝について:全生活にわたる感謝          第33主日の1

問88 人間のまことの悔い改めまたは回心は、
   いくつのことから成っていますか。
答  二つのことです。
   すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。

問89 古い人の死滅とは何ですか。
答  心から罪を嘆き、
    またそれをますます憎み避けるようになる、
    ということです。

 問答87は、次のように言われていた。問「それでは、感謝も悔い改めない歩みから神へと立ち返らない人々は、祝福されることができないのですか。」答「決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。『みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。』」キリストを救い主と信じる者が、罪の赦しを与えられ感謝の日々を生きるのとは正反対に、神に立ち返ることなく、感謝も悔い改めもないまま生きるなら、その人々が神から祝福されることはない、と言い切られている。けれども、私たちにとって大事なのは、自分自身を省みることである。救われるために善い行いは求められていないとしても、救いに与った者として、神が備えて下さっている善い行いに向かうには、一体どのように歩んだら良いのだろうか・・・。問答88以下に続く。

1、問88「人間のまことの悔い改めまたは回心は、いくつのことから成っていますか。」答「二つのことです。すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。」問89「古い人の死滅とは何ですか。」答「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです。」神に背を向け、罪に堕ちた私たち人間が、果たして自分から神に立ち返ることができるのか、罪を悔いることなどあるのか。これこそが大問題である。「できる!」という考え方があり、「決してできない!」という考え方がある。これまで学んだように、罪の悲惨から救われるのは、ただ神の恵みにより、信仰によると言うのは、私たちが悔い改めに導かれたのは、聖霊なる神が働いて、私たちを導いて下さった、と信じることにある。これが「まことの悔い改めまたは回心」であり、その「悔い改め」には、二つの面がある。それは、「古い人の死滅と新しい人の復活です」と言う。十字架のイエス・キリストを救い主と信じて、私たちの罪が完全に赦されるという救いの恵みは、生まれながらの私たちが、キリストを共に十字架で死に、キリストが死から復活されたように、私たちも新しい命に生きることに現れる。罪に対して死んだ私たちは、今や、キリストにあって、神と共に生きる者とされているのである。(1〜5節)

2、問答89で、「古い人の死滅」とは、「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということ」と断言される。罪に対して死ぬことは、罪から解放されることで、罪の奴隷ではなくなることである。(6〜8節)先回、キリストの血によって贖われるとは、聖霊によって、新しい命に生まれ変わらせて下さることであり、しかも、キリストのかたちに似る者へと変えられる・・・と学んだ。またキリストにある私たちが、キリストにつく者とされ、キリストに似る者へと、日々、変えられて生きる人とされるのは、「わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです」と学んだ。その感謝の源は、罪に死に、罪の奴隷から解き放たれたことにある。その感謝が継続するのは、生まれながらの古い人が死滅し、心から罪を嘆き、罪をますます憎み避けるようになることによる。それは、自分の努力にはよらず、聖霊によって、新しい命に生かされるからで、新しい人として生きるからである。(9〜11節)「古い人の死滅」が意味することは、私たちの内にある「古い人」、すなわち、内にある生まれながらの罪の性質が、聖霊によって生まれ変わった「新しい人」、すなわち、キリストにあって生きようとする新しい命に飲み込まれて行く、その過程のことである。一度限りのことでなく、徐々に進むもの、また繰り返される。日々、罪に死に、神にあって生きる、そのような歩みとなる。私たちは、「まことの悔い改めまた回心」を繰り返しながら、この地上にあってキリストに従い、天の御国を目指すのである。

3、私たちの内に、「古い人」と「新しい人」が同時に存在することを、どのように理解したらよいのか。生まれながらの罪の性質のしたたかさを、私たちは、自分では打ち破ることができない。自己中心で、自分の欲望を満たそうとする強欲さ、この世での成功を願い求め、人からの評価を気にしながら生きる価値観など、生まれ変わっても、なお、そのようなものに心を惹かれている。問答5では、「わたしたちは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」と言い切られていた。私たちが、心を神に向け、自分の罪を認め、悔い改めに導かれたのは、神の恵みと哀れみが先行してのことである。私たちを愛して、私たちが神に立ち返るようにと、御子を遣わして下さった神がおられ、聖霊の働きによって、私たちを新しい命に生まれ変わらせて下さったからである。生きておられる神が、私たちを新しい命に生きる人、「新しい人」として世に送り出し、神を喜び、神に感謝する人として生きるよう、期待して下さっているのである。だからこそ、罪に支配されることなく、新しい命に生きる者として、「あなたがた自身とその手足を義の武器として神にささげなさい」と、パウロは心を込めて語る。のである(12〜14節、※エピソ4:22-24、コロサイ3:5-10)「キリストが私の内に生きておられるのです・・・」とも。(ガラテヤ2:10)

<結び> 私たちの課題は、「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる」と言われることにある。日ごとの生活において、罪を罪として認め、その罪に対して、はっきり、自分では無力であると悟ることである。その時、心から罪を嘆く自分がそこにいる筈である。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。・・・」との教えが、私たちの心に確かに届くことになる。(マタイ5:3以下)もし心から罪を嘆くことがないなら、恵みによる救いを神に感謝することはないであろう。自分ではどうにもならない罪を、神がキリストの十字架の血潮で贖って下さったからである。そこに神の愛が現わされたのである。神に感謝し、神を喜び、栄光を神に帰すほかはない。そして、私たちが、罪をますます憎み、それを避けるようになるなら、神が私たちを善しとして下さるのである。そのようにして、罪に死に、神にあって生きる人が増し加えられるために、私たちの教会は、この地に建てられている。一人一人の証しが用いられ、福音の前進がもたらされるよう祈りたい。