礼拝説教要旨(2019.02.10)  
ノアの箱舟
(創世記6:9-22) 横田俊樹師

<序:ノアの箱舟の歴史性>
有名なノアの洪水の始まりの箇所。ある人の研究によると、世界には、二百以上の文化に洪水伝説があるが、それらはとても多くの共通点を持っているという。それらは、救われた家族の事、舟による救い、人間の罪悪が原因であった事、動物も救われた事、箱舟が山の頂上にとどまった事、鳥が放たれた事、虹の事、そして八人が救われた事などなど。洪水の後、全人類は、この時生き残ったノアたち家族から出るわけだから、それぞれにこの時の記憶が語り継がれて、それぞれの文化に分かれた後も語り継がれていったのかもしれない。
また15節に箱舟の寸法が記されているが、この長さ、幅、高さの比率は、目的地に向かって航行するには不都合だが、転覆しないで浮かんでいるためには理想的な比率との事。現代でも、大型タンカーなどには、この比率が使われていると言う。船舶の専門家の方がこの箇所を読んで信仰を持つに至ったという話もあると言う。ちなみに、メソポタミヤ地方で発見されたギルガメシュ叙事詩にも似たような洪水伝説があるが、そこに書かれている船の比率は、縦横高さが約60メートルほどの立方体で、これはすぐに転覆してしまう形との事。
また、19節20節を見ると、すべての動物を二匹ずつ箱舟に入れる事になるが、この大きさで入るのか、これも真面目に計算した人がいて、余裕で入るようである。

<ノア:正しい人、全き人、神とともに歩んだ人>
「正しい人」とか「全き人」とかいうと、どういう人を思い浮かべるだろうか。もしかしたら、大岡越前のような、聖人君子だろうか。ところが、後の方を読み進めていくと、ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で裸になって何もかけないで寝てしまったという記事が出てくる。酒を飲む事を勧めるわけではないが、ただ、酒を飲む、飲まないとか、そういう一つ一つの行為よりも、もっと大切な事があるのだろう。聖書の言う、正しいというのは、神との関係について言っているというのが、基本的な理解。「ノアは、神とともに歩んだ」とあるように、神とともに歩むという、この事が一番、大切な事。いのちの源である神とともに歩む。そこにはいのちがあり、喜びがあり、平安がある。この全世界を造られた神、私たちをこの上なく愛しておられる神とともに歩みたいと願うかどうか。そこが一番、問われている事だと思う。その願いがあるならば、たとえ私たちは、完全とはほど遠い者でも、罪や汚れに染まった者だったとしても、神はいくらでも罪の赦しを与え、きよめを与えて、受け入れて下さる。そのためにこそ、神は尊い御子イエス・キリストを世にお遣わしになられたのだから。キリストは、私たち、信じる者のすべての罪を身代わりに背負って、私たちの罪に対する正義が要求する刑罰を、すべて受けきって下さった。それによって、私たちがいのちの源であられる神のもとに帰る事ができるため。神がキリストをお遣わし下さったという事は、神のもとに来たいと願う人は誰でも、無条件に、来ていい、むしろ来なさい、と神が招いておられると言う事。ローマ人への手紙に「不敬虔な者を義と認めて下さる方(神)を信じるなら、その信仰が義とみなされる」(4:5)という言葉がある。自分が立派だから、自分がきよいから、受け入れられる、というのではなくて、不敬虔な者をさえも、義と認めて下さるお方を信じるなら、である。自分は聖人君子でなくても、キリストの十字架によって、神は私を義と認めて下さると、神の御愛、御真実のほうを指さして、それを信じるなら、その信仰がよしとみなされるのである。
 だから、ノアが正しい人で、全き人で、神と共に歩んだというのは、ノアが何の落ち度もない、完全無欠な人だったというのではなくて、神と一緒に歩みたい、神にどこまでも一緒について行きたい、お従いしたいという願いを持っていた人だったと思う。そして時には失敗してしまう事があっても、その都度、悔い改めて、神の恵み、憐れみを信じて、赦しを信じて、また立ち上がり、神とともに歩みを続ける。それを繰り返す。神とともに歩むというのは、そういう事なのではないか、と思う。

<神は罪の世を裁かれる>
ご自分で、慈しんで、一つ一つ造られた世界。その中に住む生き物たち、中でも人間。それを滅ぼさなければならないとは、神はどれほど心を痛められ、悲しまれ、嘆かれた事か(ヨナ4:11参照)。この時も、神はご自分が丹精込めて造られたこの世界を裁かなければならない心の痛みを感じながらの、裁きの宣告だったのだろう。
ところで、裁きには二種類あって、世の終わりに一人一人、キリストの御前に立って受ける裁きと、その世の終わりの前に、全世界が堕落してもう手がつけられない状態になった時に、地上に臨む裁きと二種類あるようである。私たち一人一人も、個別に、キリストの裁きの座に立たされて、地上で行った事について、裁きを受ける事になる、と聖書はありがたい事に前もって教えてくれている。それとは別に、世界が堕落して、ここに書いてあるように暴虐で満ちて、人類の罪が天にまで達するほどになったら、あるいは、罪の目盛りが満ちた時に、この世全体に対して、神の裁きが臨む、と教えている。この箇所にも「暴虐で満ちて」「暴虐で満ちて」という言葉が繰り返されている。現代も、心が引き裂かれるようなニュースを見聞きする。最近も、父親から虐待されて命を落とした子の事が報じられていた。報じられずに隠れているケースは、どれくらいあるのか、見当もつかない。そういうのを見聞きすると、こんな暴虐だらけの世界なんか、なまじっか続けさせる方が酷というもの、という事なのかもしれない。それだけ犠牲者が増え続けるだけなのだから。
 ともかく、義なる神は、ある時点で、地上をお裁きになる事を決めておられる。御怒りが注ぎ出される日が定められている。しかし神は、その前に救いの道を用意される。ここには書いてないが、ノアは、この事を自分の内だけに秘めておくのではなくて、周りの人たちのも宣べ伝えたと、聖書の他の所に書いてある(第二ペテロ2:5)。神は、ノアを通して、周りの人たちにも最後のチャンスを与えておられたのだ。一人でも悔い改めてくれる事を願って。

<神は、裁きの前に救いを用意される>
14節で、箱舟の内と外を「やに」で塗るというのは、防水加工の事だろうが、この「やに」と訳された言葉(新改訳2017と新共同訳は「タール」と訳している)、原語のヘブル語「コーフェル」は、「覆う」という意味の言葉で、そこから罪を覆うという意味にも使われて、聖書ではおなじみの「あがなう」「あがない金」を意味する言葉である。罪を覆う事による、罪の赦し。箱舟の中は、罪の赦しで覆われている所。そんな事もあってか、昔からノアの箱舟は、教会をあらわすと言われてきた。神が、このやにによって、水が入らないようにし、ノアたちを水の裁きから守られたように、神は、教会という箱舟を、キリストの血潮で覆っておられて、その中にいる一人一人は、裁きから守られる、という事。この教会という箱舟の内と外で、文字通り運命が天と地ほど違ってしまうのである。改めてキリストを救い主と信じて、教会に加えられるという事の意義を思わされる。
 18節に「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」とある。あなたを必ず守る、という約束である。このあと、全地を覆うような大洪水が来れば、さすがのノアたちも、恐れ惑い、箱舟の中にいても、壊れないだろか、大丈夫だろうか、と不安になるだろう。木造の巨大な船、たくさんの動物たちも乗っている。波に揺られてガツン、ゴツンとぶつかったり、ギシッギシッときしむ音がする。そのたびにノアたちも生きた心地もしないのではないか。そんな中、必死で神に祈らされるだろう。そんなノアたちに、神は確かにお救いになる、守られる、という事を確信させるために、「わたしは、あなたと契約を結ぼう」と仰って下さったのではないか。箱舟ももちろん、大事だけれども、それもあっちこっち、ガタガタ、ミシミシ言って、いつどうなるかわからない。となれば、最後のよりどころは、やっぱり神。また神の御言葉。それも、契約という、確かな約束が与えられていたら、これが何よりのよりどころとなるのではないか。人間同士の間でも、契約を結んだとなれば、それを勝手に破る事は許されない。だから、本当に安心して、100%、200%、全幅の信頼を寄せて、心を尽くして信頼しなさいと、神は、ノアたちの信仰を励ますために、契約という形を取られたのではないか。
 私たちにも、神は、一人一人と、契約を結ぼうと仰って下さっている。キリストは、私たちに全き罪の赦しを与え、今も後も、永遠にともにいて下さり、決してあなたを見放さない、見捨てないと、その契約を差し出しておられる。それを信じ、受け入れるなら、主は決してその契約を破られる事はない。私たちの人生を襲う大波、打ち付ける嵐、そういう中を通らされる時、私たちは、もうもたないんじゃないか、と不安に襲われる事があるかもしれない。しかし主は、キリストを信じる私たち一人一人と契約を結んで下さった。契約だから、主ご自身の名誉にかけても、決して見捨てる事はない。必ず守って下さって、天の御国を受け継がせて下さる。一人も失われる事はない。
 各種類の動物を、雄と雌の二匹ずつが来るようにさせるのは、洪水の後に動物が繁殖する事ができるようにするため。洪水によって罪の世界が一新された後、再び、人も動物も増え広がるようにと。そこにはすでに新しい世界への展望、希望が示されていた。洪水で終わりではない。その後がある。悪が一掃されたあとの、新世界が用意されている。この希望も、ノアたちを励ましたのではないかと思う。

<信じて、従う>
22節「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」さらっと書いているが、重い一文である。信じて、従う。それが文字通り、天国か地獄かの分かれ道だったのである。
ノアは、どうして信じる事ができたのだろう。もちろん、神がそうさせて下さったと言ってしまえばそれまでだが、ノアの場合、9節に「ノアは神と共に歩んだ」とあったとおり、それまでの人生の中で、神とともに歩んで、神というお方を人格的に知っていたというのも、あったのではないか。それまでに、すでに神を信じて、従う事によって、神は本当におられるという事、そして真実な方だという事が、経験的にわかっていた。それがあったのかもしれない。使徒パウロは、晩年近くになって、「私は、私の信じてきた方をよく知って」いると言っていた(第一テモテ1:12)。実際に、信じて、従う事によって、ああ、本当に神っておられるんだ、本当に神は生きて働いておられるんだ、本当に神は真実な方なんだ、と体験的に知っていく。そういう面があるのだと思う。頭の中であーでもない、こーでもないと、理屈ばかりこねくり回しても、本当の信仰、信頼は養われない。ある程度の基本的な知識は必要だが、そこから先は、実際に一歩踏み出して、神とともに歩むという歩みをする事が、必要という場合もあるかと思う。
この新しい一週間、すでに洗礼を受けたクリスチャンも、聖霊の助けを頂いて、そのような歩みをして、さらに親しく神を知る幸いを恵まれたい。