礼拝説教要旨(2019.02.03)  
全生活にわたる感謝  ==ハイエルベルグ信仰問答== 問:86〜87
(テサロニケ第一 5:16〜18)

『第三部 感謝について:全生活にわたる感謝            第32主日

問86 わたしたちが自分の悲惨から、自分のいかなる功績にもよらず、
   恵みによりキリストを通して救われているのならば、
   なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。
答  なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、
    その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと
    生まれ変わらせてもくださるからです。
   それは、わたしたちがその恵みに対して 全生活にわたって神に感謝を表し、
    この方がわたしたちによって賛美されるためです。
   さらに、わたしたちが自分の信仰を その実によって自ら確かめ、
    わたしたちの敬虔な歩みによって
    わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。
問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから 神へと立ち返らない人々は、
   祝福されることができないのですか。
答  決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。
   「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、
    酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、
    決して神の国を受け継ぐことができません」。

 問答85にて、第二部「人間の救いについて」が終わり、問答86からは、第三部「感謝について」となる。キリストの十字架の身代わりの死によって、キリストを救い主と信じる人々は、罪の完全な赦しをいただき、永遠の命をいただいて生きる者とされる。これが聖なる福音の中心と言えるが、救いに与った人々が、この世で、実際にどのように生きるのか、その生き方の指針について、第三部にて問答が展開される。信仰生活の実際、実践についての教えである。「ハイデルベルグ信仰問答」は、その実践の全体を「感謝について」とまとめている。キリストに従う者の生き方の根底にあるのは「感謝」であって、「感謝」を忘れないように・・・と。

1、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9) このパウロの言葉は、私たちがいつも心に覚えておくべき大切な教えである。私たちが、自分の罪の悲惨から救われたのは、自分自身の行いが良かったからではなく、ただただキリストの十字架の身代わりの死により、神の恵みによる救いに招き入れられたからである。けれども、救いに与った者は、良い行いに進むようにと聖書は教えている。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださるのです。」(同2:10)問答86は、キリストにある者(クリスチャン)にとっての「善い=良い行い」とは一体どのようなものなのか、そのことについて触れる。救われるために善い行いはいらないとしても、救われた者として善い行いが大事とは、どのような意味なのか・・・についてである。

2、問86に対する答の第一は次の通りである。「なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。」キリストの血によって贖われるとは、聖霊によって、新しい命に生まれ変わらせて下さることである。しかも、キリストのかたちに似る者へと。キリストにある者は、キリストにつく者とされ、キリストに似る者へと、日々、変えられて生きる人とされる。何のためか。「それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。」神が、キリストを通して私たちに注いで下さる恵みは計り知れず、注がれる神の愛と憐れみに対して、私たちはただただ感謝するほかはない。正しく「全生活にわたって神に感謝を表わし、この方がわたしたちによって賛美されるため」と言うごとく、私たちは変えられた者として生きるのである。神は、私たちが神に感謝をささげて生きることを願っておられ、そのために、キリストにある新しい命に生かして下さっている。但し、実際に「全生活にわたる感謝」を神に表わして生きるのは、果たして、私たちにできることであろうか。とてもできそうにない・・・と戸惑いを覚えるばかりである。しかし、そのように生きることの大切さについて、答の後半で明らかにされる。

3、「さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」もし私たちが、神の恵みによって救われた者として、全生活にわたって神に感謝を表わす生活を送るなら、自分自身でその実を確かめるだけでなく、私たちの生き方を周りの人々が見ることになり、必ず、隣人をキリストに導くことになる、と言う。いや、神はそのために私たちを用いて下さる!と。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16〜18節)神が望んでおられるように生きること、特に、私たちが全生活にわたって感謝をささげて生きるなら、その良い行いを通して、神は福音を他の人々へ、必ず届けようとなさるのである。神が望んでおられる良い行いとは、何か特別な働きや行いにおける実というより、感謝に溢れて生きている姿、そのものなのであろう。感謝をささげることもなく、神に立ち返ることもない者が、神からの祝福を期待するのは有り得ないとしても、神からの祝福を受けた者が、神への感謝を忘れて生きるなら、そのことを神は悲しまれると心しなければならない。私たちは、神に感謝をささげ、神を喜んで生きる者として生かされているのである。(※問答87)

<結び> 「ハイデルベルク信仰問答」の構成は、序「ただ一つの慰め」、第一部「人間の悲惨さについて」、第二部「人間の救いについて」、そして第三部「感謝について」となっている。私にとって、ただ一つの慰めは、生きるにも死ぬにも、私がキリストのものであることです、との告白から始まり、キリストは私たちを、罪の悲惨から救うために十字架で死なれたこと、その死によって、私たちの罪の赦しは完全に成し遂げられたことが、順次明らかにされている。そして、キリストにあって新しい命に生きる私たちは、神への感謝をもって地上の日々を生きるのである・・・と。すなわち、それぞれが置かれたところで、キリストを信じる者として、日々、どのように生きるのか、一人一人、神と人との前に、何を思い、何を感じ、何を大事にして生きるのか、そのことが問われている。けれども、救われた私たちが、「感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」と言われていた。(問答64)知らずして、確かな実を結ばせていただいているもの事実である。

 肝心なこと、それは「全生活にわたる感謝」と覚えたい。目の前の出来事が全て!と、私たちは思い易い。思うどころか、それしか考えられなくなる。けれども、私たちを導いて、守って下さる神がおられる。私たちが信じる神は全知にして全能なるお方である。私たちが目にする出来事の一切を、神が支配しておられることを、決して忘れないように。私たちの知らない事実、気づいていない事柄も、神は支配しておられる。その上で、神が全てを働かせて益として下さることを、「私たちは知っています」と、心から言える信仰へと導いていただきたい。(ローマ8:28) 「神にとって不可能なことは一つもありません」との言葉も、(ルカ1:37)そして、今朝の御言葉と響きを共にする招詞の言葉もしっかりと心に刻みたい。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:4-7)