礼拝説教要旨(2019.01.27)  
教会の純潔と一致と平和のために  ==ハイエルベルグ信仰問答== 問:85
(マタイ 18:15〜20)

『第二部 人間の救いについて:鍵の務めについて        第31主日の2

問85 キリスト教的戒規によって
   天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。
答  次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、
    キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行いを為し、
    度重なる兄弟からの忠告の後にも
    その過ちまたは不道徳を離れない者は、
    教会または教会役員に通告されます。
   もしその訓戒にも従わない場合、
    教会役員によっては
    聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、
    神御自身によっては
    キリストの御国から、彼らは締め出されます。
   しかし、彼らが真実な悔い改めを約束し
    またそれを示す時には、
    再びキリストとその教会の一部として
    受け入れられるのです。

 問答83において、キリスト教会にとっての「鍵の務め」とは、「聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ不信仰な者たちには閉ざされるのです」と言われている。先週はその一つ、「聖なる福音の説教」の役割を学び、今朝は「キリスト教的戒規」について学ぶ。「戒規」という言葉は、余り耳慣れないものであるが、一般的には「訓練」、また「躾」と理解される言葉で、日本長老教会の憲法は、「訓練」という言葉を使っている。「戒規」という言葉の響きによって、教会本来の務めを誤解するからと思われる。実際に、この務めを果たさねばならないのは、どのような場合なのであろうか。

1、洗礼式における誓約箇条の最後の文言、それは次の通りである。「あなたは、日本長老教会の政治と訓練に服し、その純潔と一致と平和のためにつとめることを約束しますか。」この誓約をして洗礼を受けることによって、また、この誓約をして転入会をすることによって、日本長老教会の一員となるという手順を定めている。「日本長老教会」が、間違いなく「キリストの教会」であることを大事にして歩みたいからである。ところが、地上の教会には欠けがあり、失敗を繰り返しながら歴史を刻んでいるのも事実である。すなわち、この地上にある限り、「その純潔と一致と平和」が脅かされ、破られ、損なわれるのを免れることができず、多くの痛みや傷を負いながら、今に至っている。「純潔と一致と平和」が破られるのは、教会に何らかの罪が入り込む時である。キリストの教えを歪めること、または、キリストの教えを否定して、人の教えを優先する時に、教会は危機に直面させられる。また、キリストの教えに反する行いによって、罪を犯しなりながら、その生き方を改めない場合も、教会全体が大きな痛みの中でもがくことになる。そのような時に、教会は「キリスト教的戒規」という「鍵の務め」を果たす責任を負うのである。

2、問85「キリスト教的戒規によって 天国はどのように開かれ また閉ざされるのですか。」答「次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行いを為し、度重なる兄弟からの忠告の後にも その過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。・・・」もし、教会の兄弟姉妹の誰かが罪を犯していることを知ったなら、先ずは個人的に関わることが出発点である。それは主イエスが教えておられることである。(15節)ところが、その人が悔い改めることなく、忠告を聞かないことがある。その時は、「ほかのひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです」と言われたように、教会の訓練は次の段階に進む。主イエスは、それでも聞き入れられない場合に、「教会に告げなさい」と命じられた。教会はキリストの身体であり、一人一人は神の家族として、互いに兄弟姉妹としての交わりの中にいるのである。他の人の経験を我がことのように受け止め、互いに忠告し合うことは何よりも大事となる。主イエスは、弟子たちに教会の交わりはそのようなものであると教えておられた。(16〜17a節)

3、残念ながら、それでも問題解決へと進むことができず、教会の訓練は次の段階を迎えることがある。「もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては 聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によっては キリストの御国から、彼らは締め出されます。」どうしても聞き入れられない時、教会は聖餐式に与ることを停止することによって、悔い改めを促す処置をすることになる。その時、肉の目には見えない部分で、神ご自身によって、「キリストの御国から、彼らは締め出されます」という裁きが行われる。実際に、教会としても、「除名」という決定を下さねばならないことがある。そのような事態は、教会にとって決して望ましいものではない。それでも地上の教会は、それに備えなければならない。(17b〜18節)主イエスは、教会には大きな責任があることを告げておられた。けれども、その大きな責任は、ただ単に罪を犯した者を、天国の祝福から閉ざすことにあるのではない。過ちを犯した者、また不道徳を離れない者を締め出すのでなく、「彼らが真実な悔い改めを約束し、またそれを示す時」が必ず来るのを信じ、待ち望んでこの務めを果たすのである。従って、真実な悔い改めに導かれて、「再びキリストとその教会の一部として受け入れられる」ことが、この務めの目的である。それはキリストにある交わりの回復である。こうして教会がキリストの身体であることを確かめ合い、喜び合い、助け合って、一層整えられることが大事となる。

<結び> 「天の御国のかぎ」を、主イエスは、確かに「教会」に与えておられる。天国の門を開きもし、また閉じるのも、確かに教会の責任である。但し、本当の意味で開くのも、また閉じるのも、その務めは神御自身が握っておられる。事実、神は御子イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、天の御国の門を開いて下さっている。罪の赦しの福音を聞いて、心の扉を開くのは私たち自身である。また私たちの心を開かせて下さるのは神御自身であり、聖霊なる神の御業である。

 教会が果たすべき「鍵の務め」の第一は、「聖なる福音の説教」である。説教を通して御言葉が語られること、また御言葉に基づいて礼典が行われること、そして、教会が教会として建て上げられるために、「キリスト教的戒規」の務めがあることを覚え、教会が「教会の純潔を一致と平和」を求めて歩めるよう心したい。それには、心を合わせて祈る教会となることを導かれたい。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(19〜20節)