『第二部 人間の救いについて:鍵の務めについて 第31主日の1
問83 鍵の務めとは何ですか。
答 聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。
これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ
不信仰者たちには閉ざされるのです。
問84 聖なる福音の説教によって、
天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。
答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、
信仰者に対して誰にでも告知され 明らかに証言されることは、
彼らが福音の約束を まことの信仰をもって受け入れる度に、
そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、
神によって真実に赦されるということです。
しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され
明らかに証言されることは、
彼らが回心しない限り、
神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。
そのような福音の証言によって、
神は両者をこの世と来たるべき世において 裁こうとなさるのです。
主の聖晩餐=聖餐式=についての最後の問答81〜82において、十字架で身代わりの死を遂げて下さったキリストを救い主と信じる信仰をもって、聖餐式に与ることの大事さに触れられていた。また、キリストの十字架の死によって、キリストを信じる私たちの罪の完全な赦しが与えられたにも拘らず、罪を悔い改めない者や偽善者が信仰のないまま、パンと杯を飲み食いすることのないよう、教会には「鍵の務め」があることが告げられていた。そして、その務めが何であるのか、問答83〜85が続く。問答83で、「鍵の務め」とは「聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ不信仰者たちには閉ざされるのです」と言う。今朝はその一つ、「聖なる福音の説教」について学ぶ。
1、「鍵」と聞き、また「鍵の務め」と聞いて、「鍵」は、門または扉を開け閉めするために使われるもので、入口を開けるため、また入口を閉めるために、無くてならない大事なものと分る。弟子のペテロが主イエスに向かって、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えた時、その信仰告白こそが尊いもの、天の父によって明らかにされたもの、と主は言われた。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に教会を建てます」とも言われ、更に「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。・・・」と言われた。それはペテロ個人にではなく、正しい信仰を言い表す教会にこそ、「天の御国のかぎ」を与えるので、教会はその「鍵の務め」果たすようにと命じられたのであった。(16〜19節)天国の門を開きもし、閉ざしもする「鍵の務め」は、罪の赦しさえも左右する重い務めである。しかし、実際は教会が罪の赦しを与えるわけでなく、またそれを宣言するのでもなく、罪の赦しそのものは、キリストご自身が与えて下さるものである。教会がキリストから託されてする「鍵の務め」は、「聖なる福音の説教」を通して果たすものである。それによって、天国を開き、また閉ざすとは、「信仰者たちには開かれ、不信仰者たちには閉ざされる」ことにある。
2、教会が「鍵の務め」を果たすと言っても、天国の門、救いへの道は、キリストの十字架によって開かれているのであって、その開かれた門に導き入れられるように、教会は、福音の説教を語り続けるのである。福音が語られる時、キリストへの信仰をもって聞く信仰者は、「福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度に、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、神によって真実に赦されるということ」を、繰り返し確信させられ、信仰が増し加えられる。他方、不信仰な者や偽善者たちは、幾ら語られても、その福音を受け入れないので、「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということ」になる。神の御怒りと永遠の刑罰は、いずれ先に行ってから下るというものではない。人類が神に背いて以来ずっと、全人類が神の御怒りと永遠の刑罰の中に留まっているということである。教会が福音の説教を語り続ける時、信仰をもって聞く人々には、一層の励ましと力を与えるのに対して、心を閉ざす人々は、一層耳を塞ぎ、心を閉ざすのであって、教会が不信仰者を閉ざしたりするというのではない。天の御国の門は、キリストの十字架の御業によって、大きく大きく開かれているのであって、この事実を忘れてはならない。
3、教会は、福音を語り続けることによって、「鍵の務め」を果たし続け、「神は両者をこの世と来たるべき世において裁こうとなさる」ことを証しすることになる。御国での救いの成就を信じて、この務めを果たすのである。けれども、この地上にある教会には、多くの弱さがあり、また欠けがあるために、心が折れそうになることがある。折れそうどころか、折れてしまったと嘆くこともある。そんな私たちに、主イエスは、「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と、声をかけて下さっていることを、今朝もしっかり覚えたい。主イエスが弟子たちに問われたのは、先ずは「人々は人の子=わたし=をだれだと言っていますか」であった。その上で弟子たちに「あなたがたは、わたしのことをだれだと言いますか」と。(13〜15節)この場面は、私たち一人一人にも当てはまる大事な場面である。イエスを誰と言うのか。イエスは人なのか、神なのか。信ずべき方なのか、通り過ぎてもよい、ただの人なのか。福音の説教を聞きながら、真剣に聞いて、答を出すことの大事さは、「あなたは、わたしをだれだと言いますか」との問に、一人一人が何と答えるかにある。「あなたは、生ける神の御子キリストです」と、みなが心からの信仰を言い表わすことを導かれるなら幸いである。信仰を持って歩んでいる者は、思いを新たにさせられるように。また信仰を求めている方は、よくよく自分の心を見つめていただきたい。
<結び> 私たちは、「天の御国のかぎ」を持っているのは「教会」であると言われている、と思ったかもしれない。天国の門を開きもし、また閉じるのも教会の大切な務め・・・と。けれども、キリストは既に、天の御国の門を開いて下さっている事実を忘れないように。そして、罪の赦しの福音を聞いて、心の扉を開くのは私たち自身であると同時に、心を開かせて下さるのは神ご自身であり、聖霊の御業であることを、もう一度覚えておきたい。罪ある私たちが、自分の罪に気づき、罪を悔い改めるのは、聖霊なる神の御業によるしかない。そのことが分かるなら、私たちは、一層心を低くして、神を仰ぎ、主イエス・キリストに倣う者となりたい、ならせて下さいと、そう祈る者となるに違いない。そのような歩みが導かれるように祈りたい。
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