創世記6章に入る。ここから9章まで4つの章にわたって、いわゆるノアの洪水と呼ばれる所になる。これは暴虐に満ちた当時の世界を大洪水によって一掃したという裁きの記事である。世の終わり、すなわち神の裁きが行われる時が定められていると聖書は告げている。昨今の世界規模の災害や人間のあり方を見て、クリスチャンではない人たちの中にも、不安を覚える人たちも少なくない。しかしいたずらに不安にかられるのではなく、神の裁きの中にも、そこに用意されている救いの道を見いだし、その道をしっかりと歩んで、救いの栄冠にあずかるものでありたい。その事をこそ、神は喜ばれるのだから。
今日の箇所はまず洪水前夜の地上の様子と、それを心を痛めつつご覧になる主なる神の様子、そして全世界があげて神に逆らう中、主の目にかなった人物ノアが記されている。
<1-4節 欲望のままに振る舞う人々:>
2、4節の「神の子ら」は、神のかたちに、神に似せて造られた人間の事だろう(別な解釈もある)。それが、見目麗しい娘を見て、好みの者を選んで妻にしたという。ここにはハッキリ書いていないが、ただ見た目の麗しさ(もしかしたら性的な魅惑的な容姿・格好だったのかもしれない)に心を奪われ、目の欲の赴くままに、何人でも妻にしたという事だろうか。俺にはそれだけの甲斐性があるんだ、俺の稼いだ金でめとって何が悪い、と開き直って。
お金の問題ではない。自然界に法則があるように、神が人の営みに関して定めた定めというものがある。以前学んだように、神は一夫一婦制を定められ、それを人格的な関係として定められた。それが神のかたちに造られた人間の幸せのためであり、神の栄光を表すことであった。ところがその人を幸せにするために神が与えて下さった定めを窮屈に思い、「自由」を縛るものと誤解してその定めを押しのけ、好きなものを好きなだけ妻にして何が悪いと開き直って、神に反逆の声をあげる人間たち。目の前の肉の欲を満たすことしか頭にない、獣のような状態に成り下がってしまっていたのだろう。
それで主は、人々の寿命を120年にされた(3節)。当時の寿命は900歳前後だったが、せっかく与えられている命を、神に逆らい自分勝手な欲望のままに浪費するばかりの人類を見て、「人が肉に過ぎない」から、そうされたという。洪水の後、徐々に人の寿命は短くなって、だいたいこれくらいになる。
聖書に出てくる「肉」というのは、しばしば生まれながらの罪深い性質のことを指す。わかりやすい例が新約聖書ガラテヤ書5:19-21に具体的に列挙されている。
5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
また4節には、同じ頃、ネフィリムと呼ばれる者たちがいたと言う。語源としては、「落ちる」「襲う」と言われ、そこから派生して「嵐」「急流」という意味もあるという。嵐や急流がドドドッと激しく襲ってきて土地を荒廃させ、集落を壊滅させるように、この荒々しい豪族達は突然、人々を襲い、村を襲って、財を貯えていたのだろうか。「勇士」というと英雄のように聞こえるがそうではなくて、略奪者として名をあげていたのである。そこには犠牲となった人たちの悲鳴、叫び、嘆きが聞こえてくる。
性的な乱れ、暴力・略奪。これらは性の崇拝、力の崇拝と言えるだろう。これらの偶像崇拝は、まさしく今日にも見られるものではないだろうか。
<5-7節 神はご覧になっておられる、心を痛められる、そして悪を裁かれる>
神が人を造られた時、人を祝福して「生めよ、増えよ、地を満たせ」と仰った。これは単に数が増えればいいという事ではない。神のかたちに造られた人が全地に広がると言うことは、全地を神の御心に従って治め、神の国とするという事であった。神の臨在を運ぶ器である人間が全地に満ちるということは、全地を神の臨在で満たすという事、いわば全地を神の神殿とする事であった。人が全地に増え広がるというのは、こうして神の栄光が全地に広がると言う事であった。それが今や、人は悪を運ぶ器、いや悪の発生源とさえなって、全地を汚し、荒廃させる者となってしまっていた。
今日でも、毎日のように、心を痛めるニュースを目にさせられている。中には、神様、どうしてこんな事件が起るのを許されるのですか、と問いたくなるようなこともあるだろう。いじめ、暴力、戦争、、、。しかも悪い事をした者がその場で裁かれずに、のうのうとしていたりする。それは私たちの信仰を揺さぶるかもしれない。しかし、私たちはこの5節にある最後の言葉を忘れてはいけない。「ご覧になった」神は、ご覧になっておられる。神は確かに、ご覧になっておられるのである。そしてこのことを覚える事が、私たちにとって大きな助けとなり、支えとなり、励ましとなる。「神様はご覧になっていらっしゃる」というのが口癖のように仰る姉妹がおられる。きっと山あり谷ありの長い信仰生活を、こう口ずさんで歩んでこられたのかなと思う。神がご覧になっておられると知る事は、私たちを悪から遠ざけ、善に励ます。日本でも昔から「誰も見ていなくても、お天道様が見ているから、悪い事はできない」などという。誰かに見られている気がするのかもしれない。しかしそれはお天道様などではなく、生ける真の神が見ておられるのである。この事実を明確に、明瞭に認識するのと、ただ漠然とそう思っているだけなのとでは、大きな違いである。ただ漠然と思っているだけだとあまり力にならないが、明確に認識すればするほど、それは力になる。絵に描いた餅で終わらせるか、実際の餅として味わい、自分の力とするか。それは私たち次第である。
神は、悪を見てもすぐにその場で裁く事はしない。しかしそれは、神が裁かない事を意味しない。ある時点ですべてを裁かれる。神は、人が「その心に計ることがみな、いつも悪い事だけに傾くのをご覧になった。」もはや良心の呵責というものも失われたのだろう。何の迷いもためらいも疑いもなく、悪に突き進むようになってしまった。行き着くところまで行き着いてしまったと言う事だろう。ここに至って、神は裁きに向かわざるを得なくなった。しかしそれは神ご自身にとっても心を痛める事だった。「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(6節)全宇宙を造られたお方が、ちっぽけな人間のふるまいに心を痛め、悔やまれたというのは、考えてみれば驚きである。私たちは、神を喜ばせもすれば、悲しませもする存在、そんな、神の御目に尊い存在だったのである。愛してもいない相手ならば、何をしようとかまわないだろう。しかし愛する相手の行動は、そうではない。果たして、私たちは、神を悔やませ、神のお心を痛めさせた事に、心を痛めているだろうか。それくらい神を愛しているだろうか。
神は、ついに、全地を一掃する事を決断された(7節)。忍耐に忍耐を重ねて、一人でも悔い改めてくれる事を願って待った神だが、いつまでも猶予される事はない。その時は必ず来る。
<8節 神の慰めとなった人:染まらず、流されず、貫いたノア>
ところがここに、世界がこぞって神に逆らい、あざけり、これ見よがしに欲望のままにふける中、ただ一人、神の目にかなった人がいた。ノアである。染まらず、流されず、主なる神を信じる信仰を貫いたノア。今、ただ一人と言ったが、厳密には前の5章で見た系図によって年齢を計算すると(系図の途中に省略がないとして)、ノアが生まれた時、アダムから三代目のエノシュが821歳でまだ存命であり、その後84年間ノアと同時代に生活していた。同様に、ケナン、マハラルエル、エレデもノアと同時代に生きていた事になる。エノクは天に引き上げられたので一緒にはならなかったが、その次の、メトシェラは聖書中一番の長寿で彼はなんとノア600歳の時、すなわち洪水が起った年まで、600年間、ノアとともに生活していた。5章の系図を信仰の系図とみるならば、メトシェラが長寿を全うしてから、その後で裁きの洪水が起きたのではないだろうか。そしてその次は、ノアの親にあたるレメク(あの悪名高いレメクとは別人)で、彼は洪水の起る5年前に地上を去っている。
要するに何が言いたいのかというと、ごく少数ながら、同じ信仰に立ち、互いに励まし合う仲間がいたと言う事である。洪水前の5年間は、メトシェラただ一人になったが、それでもノアは一人きりではなかった。もちろん、全世界が神に逆らい、取り囲む中で、圧倒的少数ではあった事は間違いない。しかし二人でも三人でも主の御名によって集まるところには、主自身もおられると仰った主は、その二人の交わりにもともにおられたのではないだろうか。主は、そのような信仰の先輩として、メトシェラを大洪水の起るその年まで、おそらくその直前までノアとともに留まらせたのではないだろうか。主なる神の隠れたご配慮である。今日の私たちは、幸いな事に教会が与えられている。ともに同じ信仰に立ち、同じ希望を持って、励まし合い、助け合い、祈り会う兄弟姉妹たちがいる。ヘブル書10:25 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
<結び:>
新約聖書には、世の終わりには、これみよがしに自分の欲望のままにふるまい、神の定めをあざ笑い、神を恐れる人々をあざける者が出てくると警告しているところがある(第二ペテロ3:3、ユダ書18)。それでなくても、現代は、欲望を刺激して、モノやサービスを買わせ、利益を最大化することをよしとする社会である。テレビにもネットにも電車の中にも世の中は、欲望をあおる言葉や映像が氾濫している。それらのものにさらされて生活している私たちは、本当に良いものと悪いもの、必要なものとそうでないものとを見分ける知恵と、その良いもの、必要なものを主体的に選び取っていく力が必要だろう。現代社会に生きている以上、何でもかんでも世のものを否定する訳にもいかないし、かといってまったく世の流れに流されるまま、漂う葉っぱのようにではいけない。そのために錨となるのは、キリストにあらわされた神の愛である。天に用意されている永遠の御国の希望である。また足下を照らす聖書のみことばである。私たちの内に住まわれる聖霊である。世の力、罪の力を押し返し、かえって地の塩、世の光として輝かせて下さる聖霊、私たちをキリストの似姿へと造りかえて下さる聖霊の力である。
ユダ17-21
1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。
1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。」
1:19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
1:20 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
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