礼拝説教要旨(2018.10.28)  =ハイデルベルク信仰問答= 問答:66〜68
目に見える聖なるしるし
(ローマ 6:1〜11)

『第二部 人間の救いについて:聖なる礼典について    第25主日の2
問66 礼典とは何ですか。
答  それは、神によって制定された、
    目に見える聖なるしるしまた封印であって、
    神は、その執行を通して、
    福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、封印なさるのです。
   その約束とは、
    十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、
    神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とを
    わたしたちに注いでくださる、ということです。
問67 それでは、御言葉と礼典というこれら二つのことは、
   わたしたちの救いの唯一の土台である
   十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、
   わたしたちの信仰を向けるためにあるのですか。
答  そのとおりです。
   なぜなら、聖霊が福音において教え、
    聖礼典を通して確証しておられることは、
    わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲に、
    わたしたちの救い全体がかかっている、ということだからです。
問68 新約において、キリストはいくつの礼典を制定なさいましたか。
答  二つです。
   聖なる洗礼と聖晩餐です。

 主イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を赦すための身代わりの死であった。罪のない方が、罪に対する刑罰の死を身代わりとなって遂げて下さったのでる。私たちはその救いの約束を信じて、罪を赦され、神の前に義とされ、永遠のいのちをいただいたのである。これが、恵みにより、信仰によって救われるという、「神からの賜物」としての救いである。私たちがこの救いを心から信じることができたのは、聖霊の働きによることである。聖霊が私たちの心に働き掛け、新しい命に生まれ変わらせるという、確かな御業を成して下さったからであり、そのような信仰を、神は、御言葉の説教と聖礼典の執行を通して、私たちに与えて下さったのである。信仰問答は、問65の答を受けて、問66で「礼典とは何ですか」と続く。そして「礼典」が何を指し示しているのかについて、丁寧に答えてくれる。

1、問答66では、「それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた封印であって、神は、その執行を通して、福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、封印なさるのです」と、先ず告げられる。礼典は、神が制定されたもので、神が救いの約束をよりよく理解できるように、「目に見える聖なるしるしまた封印」として、私たちのために提示して下さったものである。御言葉の説教は、耳で聞き、心で思い返して、その繰り返しを通して福音の約束を理解するのに対して、礼典は、それが執行されることを通して、目で見て、心に思いを巡らせながら、救いの約束を、一層深く理解するようにと定められたのである。目で見て理解する「しるし」であり、その意味することを、信じる者の心に刻み込む「封印」である。それは、イエス・キリストを信じる一人一人が、神の救いの約束を一層理解し、一層感謝に溢れるようにと、神が、私たちのことを思って備えて下さったものなのである。それゆえに教会は、聖礼典を大切にし、これを守り、これを執行し続けるのである。

2、この礼典によって、私たちの心にしっかりと刻まれるべき「約束」は、「十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる、ということです。」決して見落としてはならないこと、それは十字架で成し遂げられたこと、キリストが私たちの身代わりとなって死なれたことである。それは「唯一の犠牲」であって、十字架の他に「罪の赦しと永遠の命」への道はない、という事実である。この答を受けて、問答67へと続く。「それでは、御言葉と礼典というこれら二つのことは、わたしたちの救いの唯一の土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向けるためにあるのですか。」答は、「そのとおりです。なぜなら、聖霊が福音において教え、聖礼典を通して確証しておられることは、わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲に、わたしたちの救い全体がかかっている、ということだからです。」礼拝において説き明かされる福音の「説教」と、礼拝において行われる「礼典」は、「わたしたちの救いの唯一の土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向けるため」に、聖霊がこれらを用いられるものなのである。御言葉に基づいて、礼典が執り行われることこそが尊いことである。信仰問答は、繰り返し「十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲」を強調する。十字架で死なれたキリストを仰いで、礼典に与ることの大事さを覚えることができるように。

3、問68「新約において、キリストは いくつの礼典を制定なさいましたか。」答「二つです。聖なる洗礼と聖晩餐です。」主イエス・キリストが弟子たちに命じられたのは、「洗礼と聖晩餐(聖餐)」の二つである。十字架の死からよみがえられ、天に昇る前、「バプテスマ(洗礼)」を命じられた。(マタイ28:19-20) 「聖餐」については、十字架の死を前にして、最後の晩餐の席で、「これはわたしのからだです」とパンを与え、また「これは、わたしの契約の血です」と杯をお与えになった。(マタイ26:26-29) イエス・キリストを信じた者が、洗礼の礼典に与り、聖餐の礼典に与ることによって、その人の信仰が一層固くされ、神からの恵みを一層豊かに受けるのである。どちらも、礼典そのもに神秘的な力が宿っているのでなく、信仰をもって、神の祝福に与ることが肝心なことである。洗礼において、私たちがキリストにつく者、キリストに連なる者となることを、しっかり覚えるようにと教えるのが今朝の聖書個所である。(1〜8節)キリストにつながるとは、罪に死んで、新しい命に生きることと。キリストの十字架の死と無関係に、私たちの信仰は有り得ない。洗礼は、正しく、罪に死に、キリストにあって新しい命に生きることを実感する時となる。その確かな喜びを、私たちは決して忘れることはない。

<結び> プロテスタントの教会は、聖礼典は二つと言うのに対して、ローマカトリック教会は七つと言う。またカトリック教会は「礼典」ではなく「秘跡」と言う。元々の言葉は同じであるが、理解の仕方の違いが、言葉使いに現れていると考えられる。プロテスタントは、信仰をもって礼典に与ることの大事さを説き、カトリックは、秘跡そのものに力があると考える。「結婚」も秘跡の一つとし、洗礼後の罪の告白である「告解/悔悛」も秘跡とする。(※洗礼、堅信、聖体、ゆるし/告解/悔悛、塗油/終油、叙階、結婚)ハイデルベルク信仰問答で、礼典は二つと言い切るのは、プロテスタント宗教改革運動の最中に、何としても、聖書に立つとの決意がうかがわれる。今週31日が「宗教改革記念日」であることを、はっきりと覚えることができるように。マルチン・ルター以前にも、聖書に帰り、聖書に立とうとした人々がいたことも、また、ジャン・カルヴァンの他に、多くの牧師や神学者がいて、教会の歴史は今に至っていることを忘れないように。この国、この日本の社会での福音の証しは、やはり戦いの多いこと、容易くは決して報われない働きであることを忘れないようにしたい。小さな者の、取るに足りない歩みでも、十字架のキリストこそが私たちの望みであることを信じて、罪の赦しの平安をいただき、天の御国の幸いを望み見る信仰へと進ませていただきたい。何よりも主の日の礼拝を尊び、喜ぶ群れとして歩めるように。