『第二部 人間の救いについて:聖なる礼典について 第25主日の1
問65 ただ信仰のみが、わたしたちを
キリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、
そのような信仰はどこから来るのですか。
答 聖霊が、わたしたちの心に
聖なる福音の説教を通してそれを起こし、
聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです。
三位一体の神を信じる私たちの信仰の中心は、十字架で死なれた主イエス・キリストは、私たちの罪を赦すために身代わりの死を遂げて下さった、と心から信じることにある。そのように信じる信仰によって、私たちは罪の赦しをいただき、神の御前に義とされる。恵みにより、信仰によって義とされるという「信仰義認」の教えに対して、教会の歴史を通じて、「無分別で放縦な人々を作る」のではないか、と反論されてきたが、ハイデルベルク信仰問答は、問64の答で、「まことの信仰によって、キリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」と言い切る。キリストに結びついている人は、必ず豊かに「実を結ぶ」と、主ご自身が約束しておられるからである。信仰問答は、では、そのような「まことの信仰」はどのようにして導かれるのか、一体どこから来るのか、問答65以下で語る。大切な教えが続くので、心を傾けてしっかりと学びたい。
1、問65「ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか。」この問は、「恵みのみ」「信仰のみ」と言われ、救いは「神からの賜物です」と言われる時、私たち人間の側の「信仰」はどのようにして、またどこから来るのか。「まことの信仰」と「まこととは言えない信仰」では、一体何が、どう違っているのか、そのような疑問が、多くの人の心を騒がせるからと思われる。イエス・キリストを信じるのは、私たち人間の側で決断があり、決心して歩み始めることである。けれども、いつ、どのようにして・・・と説明できるかというと、その過程を説明するのは難しい。一人の人が信仰に導かれるのは、やはり「不思議」と言うほかない。「信仰によってのみ義とされ」、「キリストとそのすべての恵みにあずかる」としても、「そのような信仰」はどこから来るのか、堂々巡りのように心の中を駆け巡る。同じように聖書の教えを読み、その説き明しの説教を聞いて、ある人は信じて、ある人は信じない。知識を増して、努力を積み重ねたとしても、それで信じるわけでなく、強制されて、それで信じても意味がない。人が心を動かし、心から信じることの尊さを、いささかも軽んじてはならない。真心から信じることこそ、神が望んでおられる。
2、その真心からの信仰が生まれるのは、先ず第一に、「聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし」て下さるからである。人によって、信仰に導かれるのに、より良い環境にあったとか、より具体的に信じるきっかけがあったとか、様々な理由づけをするかもしれない。けれども、信仰に踏み出すのに、私たちの側の努力や熱心の前に、「聖霊」が私たちの心に働き掛けて下さること、すなわち、神の側からの働き掛けがあることを忘れてはならない。聖霊によって新しい命に生まれ変わる、「新生」の恵み、神の御業があってこそである。「まことの信仰」は神から来る。(3、5〜8節)聖霊なる神が働いて、信仰への道を私たちは歩み始めることになる。その聖霊の働きは、ある日、突然、何かが閃くように始まるわけでなく、「聖なる福音の説教を通してそれを起こし」と言われる。これについては、何よりも、主の日毎に説き明かされる「説教を通して」と理解できる。もちろん自分で聖書を読み、御言葉に心を養われることがある。けれども、公の礼拝においての御言葉の説き明し、「聖なる福音の説教」を通して、聖霊は私たちの心に、確かな信仰を起こして下さる。礼拝の中で説き明かされる御言葉、「説教」の尊さはこのことにある。繰り返し御言葉に触れ、福音の内容を心に刻む内に、聖霊は、私たちの心を救い主へと導き、十字架の出来事を信じるように、イエス・キリストを信じるようにと導いて下さるのである。
3、そのようにして導かれる信仰は、「説教」に加え、聖霊の働きによって、「聖礼典の執行を通して」、一層「確かに」される。「聖礼典」とは、洗礼と聖餐の二つである。この聖礼典を実際に行う時に、「聖霊が、わたしたちの心に」働き掛けて、「まことの信仰」を確かなものにして下さる。信仰をもって、聖礼典に与ることがカギとなる。信仰のないまま洗礼を受けたり、聖餐に与ったとしても、そこには何の力もなく、何の意味もない。洗礼と受けて救いに入れられるのではなく、キリストを信じて洗礼を受け、信じた者が聖餐に与る時、聖霊なる神が私たちに恵みを注ぎ、私たちの信仰を、一層確かにし、神と共に歩む私たちを支えて下さるからである。私たちは洗礼と聖餐の聖礼典によって、主イエス・キリストに連なる者、キリストに接ぎ木された者として、感謝の実を結ぶ歩みをさせていただいている。また、そのことを大喜びしている。もし信仰のないまま聖餐に与るとすれば、それはただ、パンと杯に与るだけで、単なる飲み食いと変わらない。けれども、聖霊は、信仰をもって聖餐の礼典に与る私たちの心に働き掛け、キリストの恵みを待ち望み、これを喜ぶ信仰を一層確かにして下さるのである。
<結び> 「まことの信仰への道すじ」と説教題をしたが、「まことの信仰はどこから来るのか」との問の答えは、「聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです」である。主イエスがニコデモに語られたこと、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」、また「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」という教えは、いずれも、聖霊による「新生」、新しく生まれ変わることなしに、救いに入ることができないという教えである。その教えは、聖霊によって新しく生まれ変わることによって「まことの信仰」に導かれ、その人は救いに入れられるという約束である。自分で自分を新しい命に生きるようにはできない私たちであるが、聖霊によって新しい命に生きる者に、私たちは変えられる。神が成して下さる御業にこそ、私たちが依り頼むことによって、私たちの信仰は確かなものとなる。その確かさは、私たちの生涯の全てのことに必ず及ぶ。イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために、十字架で血を流して下さったこと、その血潮によって私の罪が贖われ、永遠の命をいただいて、天の御国へ入れていただけることを、心から信じる信仰に一層進ませていただきたい。洗礼を迷っている方には、神が洗礼を通して私たちの信仰を強めようとして下さっていること、また聖餐を通して、一層神が愛を注ごうとしておられることを覚えて下さるよう、心からお勧めする。聖霊なる神は、私たち一人一人の信仰を強め、励ましていて下さるからである。
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