前回は背信のアダムとエバに対する、主なる神の宣告を見た。恩を仇で返すどころではない、愛と恵みをこれでもかというほど注がれていながら、
どこから出てきたともしれない蛇のまやかしの言葉に耳を貸し、神の御真実を疑ってしまった。
そして神を捨てて、蛇の言葉を取り、背いてしまった。そんな彼らに対する神の裁きはどんな剣幕でなされるのか、、、と思いきや、
神は彼らを裁きつつも、そこここに彼らの対する愛がにじみ出ていた。ジョン・ミルトンが言うように、一方では裁きながら、
他方では憐れまずにいられない神のお心であった。悪・罪は裁かれなければならない。
しかし愛する者を裁く時には、裁く方も痛いものである。子どもが悪さをして、最初は口で注意しても、また繰り返す時、お尻をたたいて叱る。
しかし我が子のお尻をたたくたびに、まるで自分の心を打つかのように痛む。今日の箇所も、神はいかなるお気持ちで裁きを行われたことか、案じられるのである。
<17−18節:いばらとあざみ。被造物ののろい>
今日の箇所に入る前に、前回あまり長くなるので触れなかった事に触れておく。アダムの罪に対する宣告で、アダムの罪のゆえに土地が呪われたとあり、土地はいばらとあざみを生えさせるようになったと言われていた。
Wikipediaによると、いばらは「とげのある低木の総称」、あざみは、「葉に深い切れ込みがあるものが多く、また葉や総苞(つぼみを包む葉)にトゲが多く、さわるととても痛いものが多い。触れれば痛い草の代表」とある。
(ちなみに、みそ漬けにして売られる山ごぼうと言われるものは、多くの場合、栽培されたモリアザミの根との事)
これまで見たように、被造物は、人間のために、人間の益となるように造られたものだったが、人間が神に背いてしまったために、逆に人間を傷つけ、害をもたらすものが生じたというのである。人間が造り主に反逆した結果、被造物にも狂いが生じ、人間に反逆し始めたのである。ジョン・ミルトンは例の「失楽園」の中で、次のように描いている。
「人が楽園を追放されるや、今まで穂をついばんでいた鷲が突如豹変して、中天から庭の小鳥を狙いはじめ、今までおとなしく草を食べていた獅子が、雄たけびをあげて、鹿に襲いかかるのを見、鳥と鹿が飛ぶようにして東のほうへ逃げて行った。」と。
それまで仲良く並んで暮らしていた動物たちが、人間の堕落以降、弱肉強食の世界へと変わり、血を流し、肉を食いちぎる世界へとなってしまった。
(以前、1:30で見たように、最初は地のすべての獣、空のすべての鳥の食物として、すべての緑の草が与えられていた。)
とはいえ、被造物のすべてが人間に害をもたらすものになったわけではなく、神は恵みにより、いまだに人間に必要なもの、有用なもの、さらには人間を喜ばせるためのものをも、数えきれないほど多く残しておられる(使徒14:17参照)。
自然の恵みと呼んでいるものはみな、「自然に」できたものではなくて、神が人間を喜ばせようと思われて、神が与えておられる、神からの恵みである。それらの感謝を忘れない者でありたい。
ただそれとともに、今ある自然は、本来、神が造られた状態とは違うという事も覚えておかなければならない。(ゴキブリ、毒キノコ、)自然災害がここ数年、頻度においても規模においても増大していて、多くの犠牲者を出している。
言葉に表せないほどの痛みである。神が初めに造られた世界には、自然災害もなかった。人間が罪を犯してから、自然界の歯車が狂ってしまったのである。我々は罪というものを軽く見てしまいがちであるが、罪のもたらすものは実に苦々しく、痛ましく、嘆かわしいものである。被造物の冠として造られた人間の責任というものを覚えさせられる。
しかしこの被造物ののろいは人間の罪ゆえのものだったので、今度は人間の回復が被造物の回復へとつながる希望も与えられている
(ローマ8:18−25、イザヤ11:6−9参照)。
キリストによって人間が回復し、地に正義が住むようになり、それによって全被造物が本来の姿を回復して、全地が主の栄光をあらわすようになる。そんな日が来ることを聖書は告げている。やがて来るその日の光景を思い描いて励まされたい。
<22−23節:楽園追放。悲しんだのはどっち?>
さて、今日の箇所。22節の「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった」という言葉は、皮肉であろうと言われる。
蛇に「この実を食べると、目が開け、神のようになり、善悪を知るようになる」と言われて食べたが、ある意味で彼らは神のようになった。
すなわち、物事の善悪を自分で決める者になった。自分が基準になったという意味で。
何が善で何が悪かというのは、神が決める事である。それを神の基準を退けて、自分がこれは善、これは悪、と勝手に決める者になったのである。自分にとって都合の良いこと、自分のしたいことは善、そうでないことは悪というのは、人の世ではよく見られることであろう。
要するに自己中心な存在になってしまったのである。
もし仮に、こんな状態で人間が永遠のいのちを手に入れてしまったら、それこそ悲劇であろう。自己中心な者同士が永遠に争いあい、傷つけあい、ののしりあう。暴力、暴虐が絶えない。それはまさしく地獄である。そう思うと、神が、彼らが永遠に生きないようにと楽園から追放したのは、むしろありがたいことだったのではないか。
それとともに、彼らは、神に背くという事がいかに苦々しいことであるかを学ばなければならなかった。彼らは、楽しみの園から追放されて、罪の荒れ狂う世界で生きなければならなくなった。そこで次の4章以下、人間のなまなましい罪の現実が記されることになる。
人は、罪のもたらすものが、いかに苦々しいものであるかを、いやというほど知ることになる。それは、神に背いた人間が通らなければならないところであった。
この時、愛するアダムたちを、楽園から追放しなければならなかった神のお心はいかばりだったことか。心を鬼にしてアダムたちを楽園から追い出しつつ、心では泣いておられたのではないか。
私たちが懲らしめを受ける時、神も心を痛めておられる事を忘れないようにしたい。聖書には、神は愛する者たちに懲らしめを与えると書いてある。愛する者に懲らしめを与えるのは、与える方もつらいのである。痛いのである。しかしそれが必要だから、心を鬼にして懲らしめるのである。もちろん、誰しも懲らしめは嫌だし、その時には深い悲しみに立ち上がれないほどの時もあるかもしれない。しかし、時が来ると、神は再び立ち上がらせてくださり、その懲らしめによって訓練されることを通してでなければ、決して得ることができなかったであろう、義の実を結ばせてくださる、それはゆるぎない平安を与えるものである、と書いてある(へブル書12:5-13)。私たちが神から懲らしめを受ける時、その懲らしめをもたらしている御手をたどっていくと、そこには涙をたたえている神の御顔があるのだと思う。その事を忘れないようにしたい。
<24節:回る剣の中へ。>
神はいのちの木への道を守るために、と書いてある。神は、いのちの木そのものを取り上げてはしまわなかった。
それも恵みである。ただ、罪ある人間が、勝手に手を伸ばして取らないように、ケルビム(神のみそば近くで仕えている天的存在)を配置し、
また輪を描いて回る炎の剣、プロペラのように回転している炎の剣をもって、いのちの木への道を守らせたという。
炎も剣も、神の裁きの象徴として使われる。罪ある者は決してこのいのちの木への道を通ることはできないという事である。
罪ある人間が、決して通ることのできないいのちの木への道を、なぜ神は置いておかれたのか。
誰一人、通ることができないのならば、いのちの木そのものを消滅させてしまってもよかったのではないか。
しかし神がこのようにしていのちの木を残しておかれたのは、理由があった。それは、やがて救い主として来られるお方が、回る剣の中へ生身の体をもって飛び込んで、私たちのためにいのちの木への道を開いてくださるためである。
キリストは、私たちに永遠のいのちを与えるために、私たちの罪を身代わりに背負って、罪びととしてこの回る剣の中へ入って行かれ、ご自身の身を切り刻まれて、いのちの木への道を開いてくださった。神の御愛、ここに極まれり、である。
|