礼拝説教要旨(2018.10.07) =ハイデルベルク信仰問答= 問答:62~64 |
感謝の実を結ぶ信仰 |
(ヨハネ 15:1~5) |
『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について 第24主日
問62 しかしなぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか。
答 なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、
神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いですら、
ことごとに不完全であり、罪に汚れているからです。
問63 しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。
答 その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。
問64 この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか。
答 いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。
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1、問62「しかしなぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか。」
答「なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、
この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。」
私たち人間は、生まれながらにして、神の前に罪ある存在であると言われても、何らかの善きものを持ち合わせているではないかとの思いが、必ずのように湧き上がって来るものである。実際に、世間の人々から善人と認められる人がいて、また善人と認められたく努力する人がいる時代において、「信仰によってのみ」との理解を受け入れるのは難しいことであった。
今日においても、教会に行く人は良い人々であって、自分のように俗人は行けない・・・という考えをしばしば耳にする。
信仰者は、当然のように良い人、または善人であると。
そして、教会に行けば、少しは良い人間になるのではないか・・・と、子どもを通わせようとする人がいる。
これは、人が考える善または善い行いが、神が考えておられるものとは全く異なっているからである。人の目に善い行いなのか、
神の目に善い行いなのか、そして「神の裁きに耐えうる義」なのか。
2、「神の裁きに耐えうる義」とは、「あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するもの」と言われる。
人が自分で、「神の律法を全部守っています」と答えられたとしても、神が求めておられる善または義を満たすことは、ほとんど不可能である。
「ほとんど」どころか、絶対に無理と認めなければならない。「この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。」これは、私たちが悪に染まり切っているということではなく、神の完全さや神が善しとされる義から、私たち人間が遠く離れている事実を指摘している。生ける神の前に、十字架で身代わりの死を遂げられたキリストの服従によってのみ、神の裁きに耐えられる義が打ち立てられたのであって、キリストを信じることによってだけ、私たちは神の前に義と認められるのである。そう言われてもなお、次の問が発せられる。
問63「しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。」
答「その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。」
更に問答は続く。
問64「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか。」
答「いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。」
3、キリスト教会の歴史を通じて、ただ信仰によってのみ義と認められることの理解が揺れ動くのは、救いは神からの賜物と言われると同時に、
聖書には、そこここに、神は私たちの行いに対して「報い」を与えて下さることが約束されているからと考えられる。
主イエスご自身が、天での「報い」と共に、地上での「報い」を語っておられる。(マタイ5:12、19:29、ルカ18:29-30)それで問答63があり、
神が人に報いて下さるのは、いずれも「恵みによる」と念押しすることになる。
神が人に報いて下さるのは、どんな場合も、神の豊かな恵みと憐れみからのものであって、神が私たちを愛して下さる、底なしの愛のゆえなのである。(マタイ20:1-16)けれども、その愛の深さをなかなか理解できないので、恵みにより、信仰によって義とされるのなら、
「無分別で放縦な人々を作るのでは・・・」との危惧に行き着いてしまう。行いを積むことを疎かにすると、それは甘やかしではないか・・・と。
しかし、「まことの信仰」があるならば、その人は「キリストに接ぎ木された人々」であって、必ず、「感謝の実を結ぶ」ことになる。
「感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」と明言されている。この真理こそ、私たちは心に留めたい。
「・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。」(1~5節)
<結び> 罪の赦しのため、そしてたましいの救いのために、私たちの善い行いは何ら必要とされていない。
イエス・キリストが十字架で成し遂げて下さった身代わりの死があるので、キリストを私の救い主と信じる信仰によって、私たちは義とされる。
そのようにして義とされた私たちは、キリストに接ぎ木された者として生きることになる。すなわち、キリストにしっかり結びついて、
キリストにあって生かされる。それはキリストのいのちをいただいて生きることであり、キリストのようになる生き方でもある。
その時、私たちは古い以前の生き方ではなく、新しいいのちに生きることになり、感謝の実を結ぶ生き方をするのである。キリストあって生きる限り、
無分別や放縦とは無関係となる。むしろ良い実を結ぶ、善い行いに心を傾ける生き方が、必ず導かれる。(ガラテヤ5:22-26)
私たち人間は、ここでも実の良し悪しや、できばえが気になるのかもしれない。それより、キリストにつながっているなら、必ず実を結ぶこと、
それも多くの実を結ぶと約束されている。キリストにつながっていることによって、神の愛をいただき、神の愛を一層知ることになる。神の愛を知り、
神の恵みに触れるごとに、私たちは変えられ、神に仕え、そして人に仕える者に変えられ、必ず整えられる。
「感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」
と言われていることが、私たち一人一人の歩みにおいて実現することを祈りたい。主イエス・キリストご自身が私たちを導いて下さり、
心から神を愛し、人を愛する者となるように、また、神に仕え、人に仕えることを喜んでする者となるように。罪の赦しの恵みを感謝し、
感謝に溢れる心をもって歩めるように。
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