新会堂を与えられ、感謝のうちに過ごす私たちは、二年ぶりの伝道集会開催を迎えることができた。今回は、「立ち止まって〜自分を見つめてみませんか〜」とのテーマにて、主イエスの教えに耳を傾け、私たちの生き方を見つめ直すことを導かれたい。私たちの通常の日々の生活は、ほとんどの場合、余り極端な変化はないまま、案外、淡々と過ぎるものである。もちろん思いもしない災害に見舞われることがあって、右往左往させられることがある。どうして自分だけ、こんなに苦労しなくてはいけないのか・・・と、恨み言を言いたくなる時もあるに違いない。人それぞれで、何事も一面的に論評することはとてもできない。しかし、どんな状況であっても、立ち止まること、自分の生き方はこれで良いのか思い巡らすこと、自分は何のために生きているのかを問い直すこと等々、日頃、余り考えないことに目を向けるのは、とても大事である。聖書には、そのような教えが満ちている。何よりも主イエスが、私たちに語り掛けて下さっている。立ち止まって、自分を見つめ直す意味で、主イエスの教えに耳を傾けてみたい。
1、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」主イエスが語られたこの教えは、昔も今も、どこの国に住んでいるとしても、全ての人が聞くべき大切な教え、実に重い事柄に触れる教えである。人間に生まれつき備えられた様々な欲求のなかで、罪のために歪められてしまったものとして、正当な欲求を超えてしまう「貪欲」は、真に厄介なものである。「満ち足りること」を忘れて、それ以上に求めることが、ありとあらゆる事柄に及び、物によって心を満たせると錯覚するからである。人々が主イエスの教えを聞こうとして集まり、おびただしい群衆となって迫り、我こそはと進み寄る人々の中の一人が、自分の兄弟との間で遺産争いをしていたようである。イエスの言葉に説得力を感じたからであろう。自分の兄弟に「話してほしい」と願った。実際に親の遺産を巡っての争いは、今日も大変なようである。何もないと争いようがないが、少しでもあると争いになるらしく、イエスに頼んだその人は、ほとほと困っていたのかもしれない。イエスは、その頼み事をきっかけにして、あらゆる「貪欲」に注意するように、そして、「いくら豊かない人でも、その人のいのちは財産にあるのではないから」と言って、「愚かな金持ちのたとえ」を語られた。(13〜15節)
2、そのたとえは、人の「貪欲」な思いが、一体どのような形となって現れるのか、よく分るたとえである。(16〜19節)「ある金持ちの畑が豊作であった。」彼は、元来働き者であったのであろう。その時までに金持ちとなっていて、その年の収穫が、またまた豊かに与えられて大喜びした。彼が考え、行き着いたのは、「こうしよう。あの倉をとりこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」彼は、たまたま、その年だけそのようにしたのではない。次の年も、また次の年も、同じような考えをもって、次々と倉を建て替え、より大きくし、より多く蓄え、世間からは有能な人、成功者と認められたものと思われる。「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」と、心の内で、「これで安心、もうやり残したことはない・・・」と、彼なりの満足にひたった。ところが、神は彼に警告を発せられた。「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」彼は、自分の「たましい」、すなわち「いのち」が神のものであるとの視点が欠けていたのである。そして主イエスは言われた。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(16〜20節)神と無関係に生きることが如何に空しいことであるのか、自分のために富みを蓄えても、神なしで生きる時、その行き着くところは、肉体の死ばかりか、たましいの死、神との決定的絶縁が待つだけと警告された。神を知り、神と共に生きること、神が備えて下さる恵みを受けて、感謝の日々を生きること、これこそ「神の前に富む者」の生き方である。
3、主イエスのこの教えは、私たちに「あなたはどのように生きていますか」、あるいは「あなたは何を大切にして生きようとしていますか」と、問い掛けるものである。すなわち、「立ち止まって、あなたの生き方を点検してみなさい」と、主は迫っておられる。しかも、「もし、今のままで突き進むなら、その先に何が待っているのか、よくよく考えてみなさい」との意味が込められている。神がおられるのかどうか、多くの人にとって、どうでも良いことなのかもしれない。神なしで、私たち人間はいくらでも楽しむことができる。この世で、自分さえよければ、それで十分との生き方は、その気になると、いくらでも思う存分できる。けれども、イエスは「このままでは大変なことになる」と、警告を発しておられるのである。私にとって、この主イエスの警告は、この世のあらゆる事柄、自分とは無関係と思っている事柄にも関わっていると思えてならない。この国がこれからどのような方向に進もうとするのか、この世界が何を大切にしようとしているのか、身近なところから思い巡らし始めると、何だか頭の中がいっぱいになる。水害が続いたかと思うと、直近の台風は猛烈な風による被害と高潮による被害をもたらし、一夜明けた北海道で強烈な地震が発生、日本列島は至る所で痛みをかかえている。私たちは何を思い、今何をすべきなのか、重い課題が次々と突き付けられる。今こそ、物に頼る生き方をきっぱり止め、天地を造られた神の前に、心を低くしてひれ伏すことが求められていると、そのように思えてならない。目に見える財産、すなわち、物質的な富を蓄える生き方は必ず行き詰まることを、真の神は、歴史を通じて、繰り返し教えて下さっている。地上の富は、必ず朽ち果てる。地上の栄華は、いつか必ず消え去る・・・と。だからこそ、神を恐れて、慎ましく生きよ!と。
結び そのようなことを思い巡らしながら、私の心に迫るみ言葉がある。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)天の父なる神が、私たちを見守り、必要を満たして下さっていることを知って、神を仰ぐ生き方をしなさい!と教えておられる。神の御手の中にある幸いを信じなさい!と。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(6:33)実は同じ教えが、22節以下にしっかりと記されている。(22〜34節)
地上の国は、どうしても富の追及が第一となるのであろうか。アメリカは中国との貿易摩擦を加熱させ、中国ばかりか世界中に争いの種をまき散らそうとしている。何のため?アメリカのため!・・・と。このアメリカの政権を支持する人々は誰か・・・?を、日本のテレビのニュースで、何とクリスチャンたちであると紹介されていた。私たちは今、大変なところに立たされているのではないか、と思わずにいられない。私たちの国はどうだろうか。私たちの国も、今もなお物質的な富を求め続けている。現在の停滞を乗り越えるには経済成長が必要!と信じて止まないよう?である。つい先ごろ、来年度予算の概算要求が100兆円を超えたとの報道があった。「もっと大きい倉を建てよう!そうすれば安心!!」と、国を挙げて突き進むかに見える。他方、国の借金は1000兆円を超えているにも拘らずである。
私たち一人一人が、自分の内側を探られ、自分の生き方を変えなければ、社会は決して変わることはない。もちろん、自分で自分を変えるはできない。ではどうするのか。神によって、すなわち、神が遣わして下さった救い主によって、私たちが内側から変えられること、神にあって、新しい命に生きることである。主イエス・キリストを私の救い主と信じること、キリストが十字架で死なれたのは、私の罪の赦しのためであり、私に新しい命を与え、新しい生き方をさせて下さるためであったと信じることが、何にもまして、今、神が求めておられることである。生き方を変えられ、考え方の方向が変えられるのを良しとし、神の前に富む者となって歩ませていただこうではないか。つくづくと、そう願わずにはおられない、そんな日々が続くこの頃である。
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