<サタンの魂胆>
人の堕落、失楽園の記事。ここに口をきく蛇が登場する。口をきく蛇とはいかにもうさん臭いが、やはりとんでもない代物だった。これは背後にサタンがいて、蛇を通して、女に語りかけたという事のよう。サタンとは、伝統的に、元々は神に仕える天使のひとり、それも大勢の天使を率いる大天使長のひとりだったとも言われるが、高慢になってしまい、自分が神の座に着こうとしてかえって天から追放された。そして今度は神を逆恨みして、神に敵対するようになったと言われる。神に敵対すると言っても、サタンも馬鹿ではなく、直接神と戦って勝てるわけがないので、直接神とドンパチやらかすのではなく、神が愛しておられる人間に狙いを定めて、人間をおとしめてーできれば、あわよくば、滅ぼしてー神を悲しませよう、苦しめようという事のようである。もちろん、そんなサタンの魂胆は決して成功する事がないので、ご心配なく。
<神の言葉を神の言葉として受け取る>
エバが言った神の言葉は不正確である。神は、それに触れてもいけない、とは仰っていなかった。これは、安全策と言えば安全策かもしれない。食べてはいけないのだから、この木には近づかないようにしよう、触らないようにしようと。他方で、蛇が大丈夫だよ、ほら、などといいながら、ペタペタとこの木の実を触って見せたりしたら、エバは、あれ、本当だ、触っても死なない、と思う事になりかねない。この後実際、エバが手を伸ばして木の実に触れた時にも、最初は恐る恐るだったかもしれないが、思い切って触ってみたら、死なない。大丈夫。やっぱり蛇の言うとおりだった、と思ったかもしれない。
それからもう一つ、神は、この木から取って食べる時、あなたは必ず死ぬと仰った。それをエバは、「死ぬといけないから」としている。明らかにトーンダウンしている。必ず死ぬと言ったら、必ず死ぬ。100%。100人食べたら100人とも死ぬ。しかし死ぬといけないから、となると、死なないかもしれないという可能性があるように聞こえる。死なないかもしれないけど、死ぬかもしれないから、やめておこうというニュアンス。これは、神の裁きの言葉を骨抜きにしてしまっている。エバとしては、神はそんなひどい方ではないと弁護するつもりもあって、こう言ったのかもしれない。あるいは、すでにサタンの術中にはまってしまって、つい無意識のうちに、裁きの言葉をゆるくしてしまったのかもしれない。
いづれにしても、大事な事は、神の言葉は神の言葉として受け取るという事である。神の御言葉は、深い思慮に思慮を重ねて、あたかも何度も精錬された純銀のようなものである(詩12:6)。それを、人間の浅知恵で、―たとえ善意だとしても、よかれと思ってだとしても、―神の言葉に、勝手に気安く、恐れもなく、何かを足したり引いたり変更を加えてはいけない。あたかも、神の言葉に改良の余地があるかのように。人間の考えた事なら、完全と言う事はなく、改良の余地はあるかもしれない。しかし、神の言葉は、人間の言葉ではない。神の言葉は、神の言葉として受け取る。ほかの言葉とは全然違う、神の言葉なのだから。
神の言葉を神の言葉として受け取るとは、具体的にはどういう事か。私たちに与えられている神の御言葉、すなわち聖書に対して、私たちはどういう態度で読むべきか。長老教会が採用しているウエストミンスター信仰告白に、御言葉において語られる神御自身の権威のゆえに、そこに啓示されている事をすべて真実であると信じて、命令には従い、威嚇にはおののき、今と後の世の命についての約束はこれを信じる事、と言われている(14章2節)。神の御言葉だから真実だし、良い物であるはずだし、必ずや私たちに益をもたらし、神のご栄光に至るもののはずである。その信頼に堅く立って、神のご命令には心から従う。神が威嚇される時は、それは私たちに必要な事であり、益となる事であり、良い事であり、神の栄光に至る事なのだから、恐れる心を持つ。そして神の救いのお約束、罪の赦し、永遠のいのちも、御言葉通りに受け取る。これも、私たちは意外と軽く受け取っていることが多いかもしれない。先週、柳先生が永遠のいのちについて話されたが、キリストを信じた時に、永遠のいのちはすでに始まっている、与えられている、という事を、改めて教えられる事の大切さを教えておられたと思う。頭で知っているつもりでも、本当にはよくわかっていない事が私たちは多いと思う。だから、折に触れて改めて教えられて、永遠のいのちを与えられているんだという事を本当に信じる時に、それは心の奥底から喜びがじわーっとわいてくる。神のお言葉は神のお言葉として、ふさわしく信頼して、受け取る事が大事な事である。
その事を踏まえると、エバは神の言葉をちょっと軽く考えすぎていたように思われる。狡猾なサタンはそこを見落とすはずもなく、すかさず絶対死なないとキッパリ断言して、巧妙にエバの心に切り込んだ。
<サタンの偽りに敗れるエバ>
サタンは大胆である。神は、必ず死ぬ、と仰ったのに、サタンは、決して死なない、と、まっこうから正反対の事を堂々と断言している。何とも大胆不敵。ほかにも、神の言葉に真っ向から反対すると言う意味では、祈ったって聞かれない、とか、神なんかあてにならない、とか、死後の裁きなんてないとか、地獄なんかないとか、みんな聖書が明白に語っている事をまっこうから否定しているサタンの言葉である。
サタンは「あなたがたは決して死にません」と言ったが、それではどうして神は食べるなと命じたのかというと、それは、、、と続ける。その木の実には、食べた人を神のようにする力があるから、だから食べさせないのだ、と。神は自分一人がお山の大将でいたいから、人間をいつまでも神より劣った状態のままでいさせたいから、だから禁じているんだと、まるで神が心の狭い、悪意のある方のような言いぐさである。以前に紹介した留守番小僧という落語を思い出す。
疑う事を知らなかったエバの心に、もしかしたら、、、と疑いの種が宿ったか。エバの内に、禁じられているたった一本の木への執着心が芽生え始めていたのか。そんな危なっかしい状態で、ふとその木を見ると、それはいかにもおいしそうで、見た目もきれいで、しかも蛇によると、神の脅しをも恐れず大胆に食べたなら、その人は神に並ぶ賢い存在になるという。その誘惑に抗しきれず、エバはついに禁断の木の実を食べてしまった。
<アダムの罪>
「いっしょにいた夫にも与えたので」とあるので、夫アダムもこの時一緒にいたのだろう。「アダムの沈黙」という本があるのだが、このとき、アダムはなぜ黙っていたのか、なぜ止めなかったのか。沈黙していた事の責任というものを問われる、と指摘している。挙げ句の果てに、エバを止めるどころか、エバの手から渡されるままに、一も二もなく、食べてしまった。アダムのふがいなさ。エバはここまで、行き詰まるサタンとのやりとりが記されていたが、アダムはただ一言、エバが与えたので、夫も食べた、ただそれだけで片付けられている。妻に対してノーと言えない恐妻家だったのか。もっとも、ミルトンの「失楽園」は別の読み方をしていて、アダムは愛する妻エバ一人を罪の中に見捨てるのは忍びなく、愛するエバと運命をともにしようと言って、この実を食べたという風に読んでいるようである。ちょっとかっこよすぎだろうか。
<罪の本質>
ともかく、ここに人類最初の罪が記録される事になった。表面的にはたかが、木の実一つの事のように見える。木の実一つで、そんな大騒ぎしなくていいんじゃないの?と思うかもしれない。しかし問題の本質はそこではない。神は、必ず死ぬと仰った。それに対して、サタンは決して死なない、と真っ向から反対の事を言った。そしてエバは、どっちの言葉を取るか、となった時に、神の言葉を退けて、サタンの言葉を取ったのである。神様、あなたの言う事は信頼できませんから、私は無視します、と言っているのと同じである。神を信頼しないと言っているのである。神の言葉を信頼しない事はそのまま、神ご自身を信頼しない事である。だから、エバは単にルールを破ったというのではなく、神ご自身の人格を冒涜し、愛と信頼の関係をズタズタに切り裂いてしまったのである。それは神のお心を土足で踏みにじるような、ひどい行為なのである。なんというひどい侮辱、冒涜か。1章2章で見てきたように、神はこの全世界を人のために、人の住みかとして整えられた。巨大な太陽、月、それに無数の星も、地上に数え切れないほどバラエティに富んだ植物や家畜や動物や昆虫たちも、それらはみな、よいものであった。人を喜ばせようと一切の被造物をお造りになった神のその恩恵にエバたちも浴していた。その神の御愛を疑い、御言葉を退けるとは、狂気の沙汰としか言い様がない。しかも私たち人間は、神ご自身のかたちに、神に似せてお造りになったという、最高の上にも最高の栄誉をお与え下さったのに、その神の御愛、御真実を疑うとは、もうなんと言っていいのか、言葉もない。
そして彼らが禁断の木の実を食べて得たものは何だったのか。最初はそれでも、恐る恐るだっただろう。まず最初にエバが一口食べてみた。ところが死なない。大丈夫だった。それで夫アダムに与えて、アダムも食べた。大丈夫。死なない。と思った瞬間、彼らが見たものは、、、。彼らの目が開かれて、そこに見たものは、サタンが言ったような神と等しく並ぶなどといったものではなく、惨めで、悲惨で、恥辱にまみれた己の姿だった。もはや、以前のように純真無垢な気持ちで、無邪気に、神の前に出る事はできない。神の前に出る事ができないどころか、足音を聞いただけで震え上がるまでになってしまった。あたかもどこかのビルに泥棒に入った男が、見回りの足音を聞いてとっさに隠れるように、あるいは悪さをした子どもが、親が自分の方に来る足音を聞いて、あわてて頭に座布団をかぶって、頭隠して尻隠さず、隠れた気になっているように、アダムとエバは身を隠した。神を喜ぶ存在だったのが、神を恐れ、逃げ、隠れる者に成り下がってしまったのである。
人間を愛し、数え切れないほどの恵みをもって取り囲んでくださっていた神を恐れて、オドオドと身を隠す人間の姿があわれである。
<それでも愛することをやめない神>
しかし、ここに信じられない一言が神の御口から発せられた。「あなたはどこにいるのか」これは怒り心頭に発して、剣幕で怒鳴っているのではなく、諭すように、むしろ悲しみを帯びた調子で発せられた言葉ではないか、と思う。こう呼びかけたのは、断罪するためではなくて、彼らを救うためだったのである。逃げ隠れする、あわれな罪人と、それを引き戻そうと追い求める神。「必ず死ぬ」とちゃんと警告してあったのに、それを勝手に無視して、サタンの言う事に耳を貸して、神をまるで信用できない者ででもあるかのようにぽいっと捨てて、勝手に禁断の木の実を食べてしまったバカ娘とバカ息子。もう勝手にしろ!とほっておいて、蛇と一緒に滅びに引き渡してしまってもよかったのに、、、。神はそうはなさらなかった。「あなたはどこにいるのか」と呼びかけて下さったのである。
人は身を隠す。しかし神は探し求める。人は御前から逃げ出して、神に背を向け、離れ去ろうとする。しかし神は、追いかけて、御声をかけて下さる。あなたは一体、どこにいるのか、と。わたしの前から逃げ出したりなどして、どこにいるのか、と。それは断罪するためではなくて、引き戻すため。恵みにとどまらせるためである。そして、自分で勝手に滅びの道に飛び出して行ってしまった人間に変わって、神の御子が身代わりに裁きの場に身を投げ出して、死んで下さった。代わりに裁きを受けて下さった。それがあの、十字架だったのである。十字架は、神の、人への愛のあかしである。
最初に、サタンは神の愛する人間にターゲットを定めて、これを滅ぼそうと企んでいると言った。一見、その目論見通り、アダムとエバは神に背いて罪を犯してしまい、この後エデンの園を追放され、サタンはシメシメとほくそ笑んだかもしれない。が、神は人間の事を愛しておられるので、人がエデンから追放された後も神の方から追いかけてきて下さった。神の御子ご自身が天を蹴って地上に降りてきて下さって、さらには十字架にまでかかってくださって、人間を取り戻して下さった。エデンの園よりも勝る天の御国に引き戻して下さった。ここで、神の御愛の深さが、かえって表れたのではないか。すなわち、人間が戒めを守っている間だけ、愛するとか、優等生でいる間だけ、いい子でいる間だけ、愛するという条件付きの愛ではなくて、たとえ戒めを守る事ができなかったとしても、神に背を向けて逃げ去るようになったとしても、それでも愛する事をやめない。それも、ご自分のいのちを犠牲にしてでも、という愛である。この一件によって、神の人への愛はそういう愛であったことが明らかになったのである。サタンは、自分の悪巧みが、かえって神の愛の深さを表す事になったというわけである。それを知ったサタンは、一度はうまくいったと思っただけに、一層、悔しがって、地団駄踏んだ事だろう。神様万歳、神様の御愛、万歳!ハレルヤ!である。
|
|