礼拝説教要旨(2018.09.02)
永遠の命を信ず =ハイデルベルク信仰問答= 問答:58
(ヨハネ 17:1〜3)

『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について     第22主日の2
問57 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答  わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、
    この生涯の後には、
    目が見もせず耳が聞きもせず、
    人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、
    神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

 三位一体の神を信じる私たちの信仰の中心は、十字架につけられたイエス・キリストを私の救い主と信じて「罪のゆるし」を受け、滅びから命へと移され、やがて天の御国へと迎え入れられるという、確かな望みに生きることにある。この地上で、肉体の命が終わる「死」を迎える時、私たちの魂は直ちに、頭なるキリストのもとへと引き上げられる。そればかりでなく、やがてキリストの栄光の体と同じ姿によみがえる日を待ち望むことになる。このような信仰告白の最後を締めくくるのが、「永遠の命を信ず」である。聖書が私たちに約束している救いは、この「永遠の命」にあると、そのように言うことができるが、これを理解するには、よくよく注意が必要となる。

1、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 神への背きという罪、この罪ゆえのあらゆる悪と悲惨を、私たち人間は、誰一人として免れることはできない。そして、罪に対する神の厳正な裁きは全ての人に及んでいる。けれども、神は私たちを愛して、私たちが救われるために、御子をお遣わしになった。神の御子は、十字架で死なれ、私たちの罪の身代わりとなられ、御子を信じる者に救いの道を備えて下さったのである。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」であった。こうして、私たちは「永遠の命」を与えられ、滅びることのない「命」に生きる者とされたのである。けれども、「永遠」という言葉によって、「永遠に続く命を与えられた」とか、「肉体の死後に続く、不老不死の命をいただいた」とか、はたまた「私たちは永遠に生き続けることができる」というように、どちらかというと、時間的な長さで「命」を考えることが多い。しかし、主イエスご自身は、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」、と明言された。(3節)「命の長さ」ではなく、「命の質」のこと、どのような「命」を生きるのかについて言われたのである。

2、すなわち、死後に始まる「永遠の命」のことではなく、今、生きているこの時に、既に始まっている「永遠の命」である。それは、主イエス・キリストを信じた時から始まる、大いなる「喜び」日々のことである。この事実を、私たちは見落としがちである。生ける真の神を信じ、神が御子を遣わして下さったことを知って、神と共と生きる者とされたことを喜ぶ日々を、私たちは歩み始めることができる。この喜びと感謝の日々を生きるようになった私たちは、今、永遠の喜びの始まりを心に感じて、地上の日々を生かされるのである。その喜びは、「この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる」のである。この確信と慰めは、「永遠の命」の「長さ」によるのでなく、「質」にこそある。もし仮に、神と共に生きることの幸いが長さにあるとすると、私たちは、自分の人生の早い時期に、神を知ることを幸いと思うかもしれない。その場合、信仰生活の長い短いによって、自分の信仰の良し悪しを言い始めるかもしれない。けれども、神を知って、神と共に生きることに「永遠の命」があると、その「質」を尊び、喜ぶことに本来の意味があるとするなら、今日、神を知り、キリストを信じることの幸いがあるのである。その人は、神の愛を知り、「永遠の命」いただいて、今を生き、また来たるべき世においても、神の愛の内を喜びと感謝をもって生きることができるのである。

3、私たちは、肉体の死の後に「永遠の命」をいただくのではない。今、生きているこの時に、既に「永遠の命」いただき、その「永遠の命」に生かされているのである。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と、はっきり言われている。(ヨハネ3:36) この地上にあって、私たちの歩む日々には、様々なことが起こり、避けて通りたい試練や苦難が襲う。そんな日々であっても、私たちには、既に「永遠の命」が与えられていて、永遠の命を生きているのである。神と共なる日々こそ、神に守られた幸いな日々である。そのような日々を生きる者が、地上の生涯の後に、思いをはるかに超えた、完全な祝福が備えられていることを、心から信じることができるのである。その日、私たちの救いは、完全な形でもたらされる。その時、私たちは「神を永遠にほめたたえるようになる。」私たちの地上の生涯は、思いもよらぬこと、考えも及ばないことばかりと言うことがあるかもしれない。しかし、「今、永遠の喜びの始まりを心に感じている」なら、今、既に「永遠の命」を生きている私たちである。神に愛され、神と共に生きる喜びがある私たちは、その喜びが全きものとなる日を信じて生きることができる。「永遠の命を信ず」とは、神を信じ、神と共に生きることを喜んでいますとの、確かな信仰の告白に他ならない。

<結び> 「身体のよみがえり」に続く「永遠の命」をもって、「使徒信条」に関連した聖霊なる神についての問答が一段落する。問答57と58において、今生きていることと、やがて死を迎えることが、この地上では不連続であっても、信仰においては連続しているとの、大切な視点に触れられている。キリストを信じる者にとって、肉体の死は、それで終わりとなることではなく、その魂は、死後直ちに、キリストのもとに迎え入れられ、身体は、栄光の体に変えられる時を待つのである。「永遠の命」は、死後に続く命がある・・・ということでなく、今生きているこの時、既に「永遠の命」に生きているのが、やがて完全な形となることと言われている。私たちは、今の時に縛られて生きるのでなく、永遠を思い、天の御国を思って生きることの尊さを教えられる。今、既に永遠の命をいただいているからこそ、御国の幸いを思うことを導かれるように。その幸いを得ているからこそ、今の時を誠実に生きるのである。また、神を愛し、互いに愛し合うこと、神に仕え、互いに仕え合うことができるのである。天の御国の確かさをいささかも疑うことなく、この地上の日々を生きることができるように。イエス・キリストを信じて、神と共なる日々を生きる幸いは、信仰生活の「長さ」にあるのでなく、その「質」にあることを感謝して!(※ピリピ1:20-26)