礼拝説教要旨(2018.08.26)
キリストの助け手
(創世記2:18-25) 説教者:横田 俊樹

序)今日の箇所は、女の創造について記されている。しかし使徒パウロはこの箇所をもって、キリストと教会の関係の奥義をあらわしていると指摘している。そこで前半はこの箇所に即して女の創造について概観し、後半はそれに基づいてキリストと教会の関係について思い巡らしたい。

1.18-23節。ふさわしい助け手
 神は人(アダム)のためにふさわしい助け手を造ろうと意図された。男女というものが、単に子孫をもうけるだけならば、ほかの動物や昆虫のように最初から男女ペアで造れば事足りただろう。しかし人間の男女はそれ以上の関係なのである。それゆえここに記されているようにわざわざ手間のかかる方法を取る必要があった。
 神がとられた方法は、まずあらゆる動物や空の鳥をアダムの所に連れてきて、見せる事であった。19節「名をつける」とは、相手に対する支配をあらわすと言われる。アダムはそれぞれの動物たちの特性を理解して、それにふさわしい名をつけ、動物たちを治める役割を果たしていたのかもしれない。動物も、人の役に立つ助けではある。牛の力を利用して土地を耕作し、羊の毛を刈って暖かい着物を作ったり。しかしそれらは、生活を便利にするためには役には立つけれども、アダムにふさわしい助け手ではなかった。「ふさわしい」と訳された言葉は、直訳すると「彼の前にいる者のように」という意味の言葉で、新共同訳では「彼に合う助ける者」と訳している。動物たちも神の素晴らしい作品ではあるが、彼らは人間ではないから、言葉が通じない。意思の疎通ができない。従ってビジョンを共有したり、価値観を共有したりもできない。喜怒哀楽の感情を分かち合う事もできない。アダムは、動物たちの特性を一つ一つ見抜き、名前をつけるという作業をする中で、自分と対等の存在がほしいという願いを起こされたのだと思う。意思疎通のできる、神のかたちとして造られた人格を持った存在の必要に気づかされ、またそういう存在を願わされ、飢え乾きを覚えたのだろう。もっと言えば、24節に「ふたりは一体となるのである」とあるように、一つ心、一つ思いで事に当たれる仲間。一心同体と言える仲間の存在である。心を一つにして目標に向かうチームの存在は、大きな励まし、大きな力、そして大きな喜びである。1+1が3にも5にも、時には10にもなる。先日の甲子園を取り上げたニュースでも、仲間と一緒だからつらい練習も乗り越えられたという言葉が聞かれた。
 女が「助け手」として与えられた事に注意したい。遊び相手、慰み相手ではない。使命のための助け手である。二人が向き合って見つめ合う位置関係というよりも、二人が横に並んでいっしょに主なる神の方を向き、いっしょに仕える仲間というイメージである。そのための助け手である。男の都合の良いようにはべらせるための助け手ではない。と、同時に、男がかしらで女が助け手という創造の秩序も、神が定めたもうところであるがゆえに、重んじるべきである。それは役割の違いであって、価値や優劣の違いではない。すでに見たように、男女とも神のかたちに造られた神の至宝である。野球でピッチャーもいればキャッチャーもいるし、内野手、外野手、みんな必要であって、どこが欠けても成り立たない。それと同じように、男女もそれぞれの持ち場で役割を果たす事が求められている。大切なのは、一つ心であること。愛する主にお仕えするという大目的のために心が一つになっていて、そのためにはつまらない意地の張り合いやメンツなど捨てて、自己犠牲もいとわず、力を合わせる事である。第一コリント7:35 で、使徒パウロは、コリント教会という特殊事情の影響もあると思われるが、結婚するべきか、しないべきかという問いに対して、しないでいられるならしないでいたほうが、、、と言い、しかし「私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」と言っている。大切なのは、ひたすら主に奉仕できること、これなのである。
 それにしても、神がまず、動物をアダムの所に連れて来るという一見、遠回りな手間のかかる事をされたのは、アダムの人格を尊重して、アダム自身が自発的に願うように導かれたのではないかと思う。私たちの神は、私たちの人格や自主性を尊重される方である。だからこそ、アダム自身の脇腹からとられた骨と肉とをもって造られた女性を連れてこられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉!」と歓声をあげたのだろう。

2.24-25節。父母を離れ、・・・二人は一体となる
 東洋的・儒教的価値観とはまったく逆なので、日本では戸惑う人も多いかもしれない。しかし神の創造の秩序は、親といえども、夫婦の間に割り込んで何かを強要することは許されない。聖書によれば、夫婦の絆は、神があわせたもうた神聖不可侵なものである。もちろんこれは、親を粗末にしていいという意味ではない。親を敬うことは、十戒の中でも、対人関係の戒めの最初に来る大切なものである。育てくれた事への感謝も忘れてはならない。事実、親の恩に報いる習慣をつけさせなさいと、パウロも言っている(第一テモテ5:4)ただ敬う事、感謝する事と、支配される事とは全く別の事である。
 以前、どこかの新聞に次のような記事があった。その方は、女手一つで一人息子を育ててきた。やがて年頃になったある日、結婚したい相手がいると言う。そして顔合わせも済み、式の準備も整って、いよいよ式が間近に迫ったある日、彼は母親にこういったという。「お母さん、今まで育ててくれてありがとう。女手一つで苦労して育ててくれたと思う。これからもお母さんの事は大切にしていきたいと思っている。だけど、もし万が一、彼女とお母さんが対立したら、僕は彼女を守る。」これを聞いたお母さんがまた偉かった。お母さんはこの言葉を聞いて「我が息子ながら、立派に育ってくれた。ちゃんとお嫁さんを守ってあげるんだよ。」と思ったという。
 25節は、罪が入る前の純真無垢な状態をあらわすと同時に、まったく隠し立てのない親密さをあらわしてもいるのだろうか。 

3.キリストと教会
 以上、創世記の女の創造の記事を見てきたが、最初に書いたように、これは単に男女の関係を述べているだけではなく、なんとキリストと教会―キリストを救い主と信じる者たちの集まりーとの関係をあらわしている、とパウロは言っている。英国長老教会のマシュー・ヘンリー(1662-1714)という人がこの辺の事情を次のように述べている。

「女はアダムの脇腹から造られた。あたかもアダムを牛耳るべく彼の頭から造られなかった。さりとて、彼に踏みつけられるようにと、彼の足から造られたのでもなかった。そうでなくて、彼の脇から造られた。すなわち、彼と同等のものとして、また、彼の腕によってかばわれるように、愛されるように、と。彼の心臓(ハート)に近くあるようにと。しかも、アダムはといえば、その強さと美しさとを損なうことなきようにと、一本の内なるあばら骨を失っただけであった。もっとも、その傷口は跡形もなく、肉でふさがれた事は申すまでもない。ともかく、このおかげで、彼は自分にふさわしい助け手を得る事になったのである。それは、彼が失ったものを償ってまさにあまりあるものであった。このように、神は時として、その民から何ものかを取り去りたもうことがある。けれども、神はあれこれの方法によって、これを増益して、回復したもうのである。
 この点、また、他の多くの点において、アダムは来たるべきお方の象徴であった。というのは、第二のアダムなるキリストの脇腹からその花嫁なる教会は形成された。キリストが眠りに、しかも深い眠りに、しかり、十字架上の死という眠りに落ちたもうた時に。そのためにと、キリストの脇腹は開かれ、血と水とが流れ出たのであった。血はその教会を得るために、水はその教会をご自身にふさわしくきよめるためにであった。」

 最後に、私たちはキリストの花嫁、キリストのみからだなる教会としての役割を覚えたい。コロサイ1:24に次のような御言葉がある。「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」「キリストの苦しみの欠けたところ」とは何のことだろうか?まずハッキリさせておかなければいけないのは、これは十字架上の苦しみの事ではないという事である。すなわち、私たちの罪の身代わりに十字架上で受けて下さった刑罰が、不十分だったという意味ではあり得ない。キリストが十字架で私たちの身代わりに受けて下さった御苦しみは、完全・十分であり、それに付け加える事はちりほどもない。ここで言われているのは、教会形成のための苦しみのことである。キリストは、私たちのあがないの御業を成し遂げられて、天に昇られた。そして地上に残された教会に聖霊を送り、福音宣教と教会形成の使命を委ねられた。その使命遂行に伴う迫害、苦難は、地上にある私たち、教会が受けるべきものである。とは言っても、地上にある教会が苦しみを受ける時、天におられるキリストも平気でいられるはずはなく、パウロがキリストを信じる前、教会を迫害していた時、キリストは彼に現れて「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」と言われた(使徒9:4,22:7、26:14)。教会を迫害する事はそのままキリストご自身を迫害する事だというのだ。キリストと教会は霊において一体なのである。
 卑近な例で恐縮だが、先日、まだ教会の近くに引っ越す前、家に忘れ物をしてきてしまった。いったん家に帰って戻るとなると往復で2時間くらいかかってしまう。その日は切羽詰まっていてそんな時間はなかった。かといって、それなしに仕事を進めるとなると、それも多大な時間がかかってしまう。どうしようか、、、と考えていてひらめいた。家にいる家内に電話して、パソコンを開いてもらい、私の画面のパスワードを教えて私の画面を開いてもらい、必要なファイルをメールに添付して送ってもらえばいい。そんなにパソコンが得意ではない家内も、それくらいならできるかもしれない。そう思ってやってみて、うまくできた。このとき、私の頭でこうしたい、と考えている事を、家内の身体が代わりにやってくれたわけである。空間的には離れていても、私の頭の指令を家内の身体がしてくれたおかげで、私は助かったわけである。小さな事であるが、これは一体という事をよくあらわしていると思う。天におられるキリストと、地にある私たち教会は、携帯電話ならぬ御霊によってつながっている。キリストが天で願っておられる事を、地にいる私たちがキリストの手足として代わりに行うなら、それは天におられるキリストを大いにお喜ばせするだろう。福音宣教、教会形成という大目標の中で、私たちはそれぞれにできる事、主から導かれている事をなしてかしらなる主をお喜ばせする者でありたい。