礼拝説教要旨(2018.08.19)
身体のよみがえり =ハイデルベルク信仰問答= 問答:57
(ルカ 23:39〜43)

『第二部 人間の救いについて:聖霊なる神について     第22主日の1
問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答  わたしの魂が、この生涯の後直ちに、
    頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、
    というだけでなく、
    やがてわたしのこの体もまた、
    キリストの御力によって引き起こされ、
    再びわたしの魂と結び合わされて、
    キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、
    ということです。

 キリストの十字架の死による「罪のゆるし」、すなわち、私たちが、十字架につけられたキリストを私の救い主と信じて「罪のゆるし」を与えられることは、私たちの信仰の根幹である。それによって、私たちは、滅びから命へと移され、大いなる救いに入れられる。しかも、「罪のゆるし」は、過去、現在、そして未来に渡るもので、キリストにあって生きる者は、神の底なしの恵みと愛に包まれて、地上の日々を生きることになる。けれども私たちは、先のこと、未来のことについて、この地上で、なお不確かな思いを抱くものである。この肉体の命が終わる「死」を迎える時のことは、一体何を、どのように信じればよいのか、戸惑いは尽きない。誰一人として本当のことは言えず、世には不確かな言説が溢れ、人々は、曖昧な憶測に過ぎない教えによって翻弄される。けれども、聖書の教えは明白である。人は必ず死ぬ。その死からよみがえられたキリストがおられる。このよみがえられた方を信じる者には、死後の確かな望みのあることが、はっきりと記されている。問答57は、キリストにある者、キリストに結び合わされた者にとって、死は終わりでなく、それに続く慰めがあることについて触れる。

1、キリストにある者の「死」は、「死」で全てが終わる訳でなく、死からよみがえられたキリストを信じるゆえに、キリストが栄光の身体をもってよみがえられたように、信じる者にも「身体のよみがえり」がある、と聖書はこの望みについて約束している。問57は、身体のよみがえりを信じているあなたは、その信仰によって、どんな慰めを受けていますか・・・と問う。答「わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけでなく、やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。」キリストを信じる者の魂は、死後直ちに、キリストの元に引き上げられるのであって、死後に行き場を求めてさまようことはない。それゆえに、生きている人々によって、慰霊されることはいらず、供え物をもって養われることもいらない。イエス・キリストご自身が、十字架の上で、死を前にした犯罪人の一人に、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた。(42〜43節)あなたの魂は、必ず、わたしとともにあると、死後の確かな慰めを約束された。キリストを信じる者の死は、死後直ちに、キリストのもとへ迎え入れられるという点で、最善、最高の慰めが約束されているのである。

2、その慰めに加えて、一度土に帰った身体が、やがて「キリストの御力によって引き起こされ、再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」という、この確かな望みが私たちに与えられている。(ピリピ3:21)キリストは十字架で死なれた。しかし、キリストは死によって朽ち果てることなく、三日目に死からよみがえられた。このよみがえり、死からの復活によって、私たちの望みの保証となられ、私たちもまた栄光の体によみがえることを信じて、慰めを受けることができる。私たちの今の体は、不完全で、内側はなお罪に満ちている。罪の誘惑に負けることがあり、どんなに叱咤激励したとしても、この地上で完成されることはない。けれども、肉体の死において魂は引き上げられ、キリストの元で憩うことが許され、やがてキリストが来られる時、栄光の体に変えられてよみがえる。そのよみがえりの体こそは完全なものという、そのような望みに私たちは生きるのである。この確かな望み、また慰めは、ただキリストによってのみ与えられ、キリストを遣わして下さった神、生ける真の神が与えて下さるものである。

3、毎年8月は、生きること、死ぬこと、戦争のこと、平和のこと等々、私たちがこの地上で生きている限り、心に留めるべき重い課題が、次々と提示されて過ごすことになる。そうした事柄が続く中で、「慰霊」とか「供養」、また「追悼」という言葉が多いと実感する。私たちキリストを信じる者にとって、それらの言葉について、どのように理解し、しかるべき時に、どのような態度を取るのか、考えておくのはとても大事と思われる。キリストを信じていても、信じていなくても、人の命は神が支配しておられる。人の魂は、肉体の死後直ちに、神の支配の内に移される。キリストにある者の魂は、神の元、キリストの元に迎えられるのであって、行き場を求めてさまようことは決してない。それゆえに、慰霊とか供養のための行為は、一切不必要なのである。神のご支配は、私たちが生きるも死ぬも、完全で、万全で、神が共におられる幸いに勝るものはない。神を信じて、この生ける神に従い抜くこと、何事が襲って来ても、神への従順と服従こそを、選び取ることができるように祈りたい。世の中が揺れ動き、戦争の足音さえ感じる日々である。こんな時、キリストを信じて、生ける神のみに従う信仰が強められるよう、そう願わずにおれない。

<結び> 「身体のよみがえり」を信じる私たちであるが、どのように・・・と考え始めると、またまた迷路にはまるかもしれない。初代教会においても、「・・・どのようなからだで来るのか」と、喧々諤々であったようである。(コリント第一15:35以下) キリストがよみがえられた事実を覚え、神が全知全能であられることを信じて、神の成さることに任せることの大事さがある。その上で、私たちは、今生かされている事実を尊びたい。私たちは、望みの確かさのゆえに、今生きていること、生かされていることに、しっかりと目を向けることができる筈である。よみがえりの希望、栄光の体に変えられる望みをもって、今、地上の教会の交わりを喜び、互いに仕え合う交わりを感謝し、教会で分を果たすこと、家庭や地域で役割を担うこと、それが私たちの務めである。地上のことが全てではなく、天の御国を見上げることができる私たちこそ、この世にあって、果たすべき務めは多いと心したいものである。